日本初の武家政権による歴史書「吾妻鏡」

用語集

平安末期から鎌倉中期が記された歴史書・吾妻鏡(あづまかがみ)

この「吾妻鏡」という歴史書には、鎌倉幕府が成立する過程、そして成立して以降に執権北条氏が独裁体制を布くまでが記されています。日本中世の平安時代末期から鎌倉時代の中期、西暦としては1180年から1266年までとなります。その書き出しは流罪で伊豆国にいた源頼朝に「以仁王の令旨」が届いた場面から、そして宗尊親王が6代将軍に就任したところで締められています。

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吾妻鏡の内容をざっくりと

鎌倉幕府の成立過程・初期が記載されている源氏3代記

24巻の中の15巻が源頼朝の記録

「吾妻鏡」は全て合わせて52巻から成り立っていますが、そのうちの24巻は源頼朝・源頼家・源実朝の源氏将軍3代の時期が記述されています。とは言え24巻のうちの16巻は源頼朝が主役となっていますので、比率としては頼朝一人で3分の2を占めている訳ですね。書き出しは「以仁王(もちひとおう)の令旨」が伊豆国に届いたところから、挙兵から安房国(千葉県南部)への逃亡を経ての鎌倉入り、そして壇ノ浦にて平氏を滅亡させるシーンまでガッツリ目に書かれています。

源頼朝の時期だけでなく最期まで一貫していることですが、「吾妻鏡」は後に排除された人物がちょっと悪く書かれている特徴があります。源義経は人の言うことに耳を貸さないヤンチャ坊主、そして梶原景時は義経の悪口を言う陰湿人間として扱われており、何も知らずにこれを読んだ人であれば「滅ぼされても仕方がない」という感想を持つように書かれている訳です。ですがさすがに鎌倉幕府の創立者へのリスペクトは多少なりともあったようで、源頼朝についてはドジっ子感も結構強めですが、英雄らしい描写がやや多めとなっています。

源頼朝のイラスト
ドジっ子兼英雄の源頼朝さん

謎に包まれた初代将軍・源頼朝の最期

現代でも源頼朝の死因は謎とされていますが、その理由は北条氏によって製作された「吾妻鏡」で「1199年に亡くなった」としか書かれていないためです。普通だったら病名やら事故の内容なんかが併記されていそうですが、そんな余計なことは一切書かれておりません。そのため暗殺されてしまった疑惑すらあるのですが、今となっては確証を得ることのできない日本史における闇となっています。

2代将軍・源頼家については批判的

その後は源頼朝の嫡男・源頼家が10代にして鎌倉殿の地位を受け継いでいますが、「吾妻鏡」では頼家という人物は結構なヤンチャ坊主だったとされています。そのため「鎌倉殿の13人」による「十三人の合議制」が発足したとされていますが、つまり「吾妻鏡」では「将軍がダメだから独裁を否定した」というニュアンスで描かれている訳です。

源頼家に関しては御家人の妾に手を出した、また(いみな、人名の下の名前のことです)をダイレクトに呼んだ、といった様々なダメエピソードが記されており、源頼朝の扱いと違ってリスペクトの欠片も感じられません。後に「比企能員の変」の巻き添えを食って鎌倉から追放された源頼家ですが、その後に亡くなった原因も父同様に謎とされています。

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3代将軍・源実朝については謎多め

源頼家が鎌倉から追放されると、弟の源実朝(さねとも)が鎌倉殿の地位を継承していますが、「吾妻鏡」での実朝についてはかなり薄味です。将軍就任が12歳ということもありますが、20歳を越えて以降も幕政を取り仕切った記述自体が少なく、この頃にはすでに実権が北条時政北条義時親子に移っていたものと思われます。その後の北条時政は源実朝の暗殺を企てたことで鎌倉から追放されていますが、数年後に源実朝が本当に暗殺されてしまう事件が発生、ここで源頼朝から始まった源氏将軍の系統が途絶えてしまいました。

この源実朝が暗殺された事件について、「吾妻鏡」には非常に興味深い記述が残されています。源実朝が式典に参列するために出発する際、幕府官僚の大江広元が涙を流していたとされており、また実朝に簡易な鎧の着用を勧めていたことが記されています。とは言え神聖な式典ということで防具を身に着けずに出発し、結局鶴岡八幡宮にて襲撃を受けていますが、大江広元の涙は「襲撃されることを知っていた」からこそな気がします。もちろん立派になった源実朝を見て感極まった可能性もありますが、それだったら防具の着用を勧める理由もないという、やはり疑問符が残る出来事だったりします。

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源氏将軍がいなくなった後は北条氏が主人公

源実朝が暗殺されてしまったことで源頼朝の系統が断絶し、鎌倉殿として幕府の頂点に立つべき人間が一人もいなくなってしまいました。そんな急場を凌ぐため、北条義時は自身の姉であり、また源頼朝の妻だった北条政子を鎌倉殿に仕立て上げました。このピンチヒッターだったはずの北条政子は意外にハマり役だったようで、「吾妻鏡」でも政子を指して「尼将軍としてしっかり記述されていたりします。

その後に起きた後鳥羽上皇の打倒鎌倉幕府の挙兵、いわゆる「承久の乱」からの北条氏は完全に主役扱いとなっています。が収束した後に九条頼経・九条頼嗣(よりつぐ)親子が将軍に就任していますが、この摂家将軍達は執権の操り人形でしかなく、もはやお飾りの存在に過ぎません。後に九条頼嗣が鎌倉から追放されると宗尊(むねたか)親王という皇族が将軍に就任、この場面で「吾妻鏡」は締められてはいますが、執権北条氏の権力はすでに揺るぎないものとなっています。言わば「吾妻鏡」という歴史書は、北条氏がいかに幕府に貢献したか、そしてなぜ権力の座にいるかをただひたすら説明しているだけだったりします。

鎌倉幕府の歴代将軍の一覧はこちらからどうぞ。

「吾妻鏡」の製作は主に幕府官僚

「吾妻鏡」は記載されている期間が80年にも渡るということで、当然一人が製作したものではありません。むしろ数多くの人達が編纂に関係しており、それぞれの断片的な記録を繋ぎ合わせて製作されています。とは言え識字率自体が低い時代のことですので、鎌倉御家人全てが記録を残せた訳ではなかったものと思われます。という訳で編纂作業は主に京都からやってきた官僚達であり、大江広元や中原親能三善康信二階堂行政といった面々とその子孫が担当しています。

上記の官僚達の一族は役柄的に北条氏とも親密だったようで、幕府内の勢力闘争に巻き込まれることなく繁栄を続けました。こういった良好な関係があったからこそ北条氏にとって不都合な事実がモミ消され、比較的良いイメージに書かれているものと思われます。それはまるで官僚達が権力と癒着したかのようですが、よくよく考えれば現代日本も大体同じということで、「いつの時代も似たようなことをやっている」というオチでこの記事を締めたいと思います。

吾妻鏡が編纂された目的と背景・影響についての考察はこちらからどうぞ。

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