鎌倉殿の独裁を阻止せよ!十三人の合議制

十三人の合議制の1人・北条義時 用語集
十三人の合議制の1人・北条義時

十三人の合議制とは

鎌倉幕府の2代将軍・源頼家の時代に採られた、政治や裁判を有力な御家人の合議によって決めていた政治体制を指します。頼朝の時代にはほぼ将軍の独裁で全てが決定されており、実務官僚として大江広元など有力御家人がサポートする体制を採っていました。18歳で跡を継いだ頼家も父同様に鎌倉殿の独裁体制で政治を行おうとしますが、御家人達から悪政であると非難が噴出したため、頼家のサポートのために宿老達による十三人の合議制がスタートしています。

頼家についての記事はこちらからどうぞ。

この合議制の目的はあくまで将軍の独裁を阻止しながらも補佐することにあったようで、最終的な決定権はやはり頼家が持っていました。合議で裁決案をキッチリ決め、その上で頼家のイエスがあって初めて実行されるといったシステムだったようです。後の見出しでもご説明していますが、御家人達にとってはやはり将軍の気分次第となる独裁政治よりも、話し合いでの政治を望んだ結果だったのかもしれません。ちなみに頼家は合議制がスタートしたことでちょっとスネてしまい、気に入った近習としか面会しないというプチ引き籠もり化しています。

鎌倉殿の13人・メンバー紹介

十三人の合議制に参加した有力御家人は以下の人物達です。

以上の通り「鎌倉殿の13人」の大半は、頼朝の血縁者か子供の頃からの知り合いという構成になっています。このメンバーの中で一番若い北条義時ですら合議制発足時には38歳という年齢であり、最年長の北条時政に至っては63歳です。そんな人生の大ベテラン達が、18歳という高校3年生くらいの若者である源頼家の独裁政治を見て、どことなく不安を覚えて対策をとるのも不思議ではありませんね。

あっという間に解体した十三人の合議制

幕府で合議制がスタートしてから約半年後、メンバーの1人である梶原景時を追放するための署名運動が起きており、66人という凄まじい数の名前が記された連判状が源頼家に届けられています。この連判状には合議制のメンバーも半数近く名前があり、梶原景時を信頼していた頼家ですら庇いきれない事態に発展、さらに鎌倉から離れようとする梶原景時が襲撃を受けて討ち取られる事件が起きました。

この梶原景時のの3日後に合議制のメンバーである三浦義澄が病死、そしてその4ヶ月後に安達盛長も病死しており、鎌倉殿の13人から立て続けに3人がいなくなっています。十三人の合議制とは言っても元々全員が毎回集まっていた訳ではなく、メンバーの中の幾人かが集まって検討するという方式を採っていました。そんな中で3人も急に欠けてしまったことで合議自体が行われなくなり、事実上1年と保たず解体という結果になっています。

源頼朝による独裁政治の反動が合議制に

鎌倉幕府という日本で最初の武家政権は、当たり前ではありますが参考にするべき政治体制が歴史上に存在せず、そのため様々な試行錯誤によって変革が繰り返されています。初代将軍である源頼朝という人物は誰からも敬われ、そしてかなり恐れられていたようで、政治や裁判について独裁的に執り行っていました。このことについて御家人達の間で不満はあったようなのですが、源義経の末路を見てもわかるように頼朝は親族にすら容赦がなく、おおっぴらに言ったら何されるかわからない、ということで不満を表に出せなかったのでしょう。

頼朝の嫡男である源頼家という人物は1182年生まれであり、源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱で源氏が有利になり始めた時期に当たります。この3年後には平氏政権は完全に滅亡しており、頼家が物心ついた頃には父・頼朝はもはや王者の貫禄を纏っていたでしょう。そんな父を見ながら育った頼家にとって、自身の考えで裁きを下すことは当然過ぎる当然であり、むしろ将軍の責務くらいに考えていたのではないでしょうか。

そんな考えを頼家が持っていたとすれば、将軍就任直後から独断で裁判や政治を行うことはやはり当たり前のことです。ですが頼朝の時代から独裁に不満を持っていた御家人達からすれば、頼朝であれば仕方なくとも18歳の頼家に同じことをされるのは納得がいかず、その結果が十三人の合議制という新システムへの移行だったのでしょう。残念ながら合議制は1年も保たずに解体し、そして比企能員の台頭と変死を経て、結局最後は北条氏の独裁に近い執権政治に辿り着いています。

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