源頼朝とその子供たち・源氏将軍
鎌倉幕府を創立した源頼朝
鎌倉幕府と言えば源頼朝と言えるくらいに、この偉人はメジャーな存在ではないでしょうか。源頼朝は流罪人として京都から伊豆国に追放された後、北条政子との婚姻を機に北条時政と結託し、平氏政権に挑みました。そして壇ノ浦の戦いにて平氏を滅亡させると、源頼朝は後白河法皇から地頭の任命権「文治の勅許」を得て鎌倉幕府の樹立に至っています。
1,192年に征夷大将軍に任命されたことで、源頼朝は名実ともに武家の頂点に立ちました。そして後継者である2人の男児達もすくすくと立派に成長しており、この時点では頼朝の子孫による武家支配は疑う余地もなかったでしょう。もし源頼朝がその後の成り行きを天から見守っていたのなら、あまりの展開に唖然としたのではないでしょうか。
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政治権力を剥奪された2代将軍・源頼家
1,199年に源頼朝が亡くなると、その嫡男である源頼家が二代目として鎌倉殿の地位を受け継ぎました。ところが源頼家は政治に関心を示さずに蹴鞠で遊び続け、さらには御家人の妻に手を出すというヤンチャ坊主っぷりを発揮しています。御家人達はそんなヤツに政治を任せておけない、ということで「十三人の合議制」が発足、幕政は「鎌倉殿の13人」による合議にて運営されるようになりました。
ところが今度は御家人同士の内輪揉めが起き、まずは源頼朝の頃から側近として仕え続けた梶原景時が政変で追放されました。続けて源頼家の舅に当たる比企能員も北条時政に排除されてしまい、この比企能員の変と呼ばれる事件の巻き添えで、頼家も鎌倉を追放された後に暗殺されています。
源頼家の個人記事はこちらからどうぞ。
暗殺未遂の次に本当に暗殺された源実朝
源頼家が追放されてしまったため、その弟に当たる源実朝が3代将軍に就任しました。すると北条時政が妻にそそのかされて源実朝暗殺を企てますが、ここは北条政子・北条義時のタッグでしっかり保護し、この事件は結局未遂に終わっています。
結局この「牧の方事件」で北条時政が鎌倉から追放されはしましたが、2代執権に北条義時が就任し、ここで「北条氏が代替わりで執権になる」という慣例が出来上がりました。そして暗殺未遂事件から十数年後、源実朝は公暁という人物に襲撃され、2度目は助かることなくその命を落としています。
将軍不在時のピンチヒッター
尼将軍として鎌倉殿に就いた北条政子
源実朝が突然亡くなってしまったことで、源頼朝の直系子孫がいないという幕府滅亡の危機が訪れました。そこで源頼家・源実朝の母であり、初代将軍・源頼朝の妻でもある北条政子が代理で鎌倉殿の地位に立ち、北条義時が執権として実権を握る体制をとりました。
すると将軍の不在を知った後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げますが、尼将軍・北条政子の演説と北条義時の決断力、そして大江広元の京都制圧作戦によって幕府軍が勝利を収めています。この承久の乱が終わって3年後に義時は病で亡くなっていますが、その跡を継いだ北条泰時によって次の将軍が京都から迎えられています。
北条政子の個人記事はこちらからどうぞ。
公家の世界からやってきた摂家将軍
御家人に担ぎ上げられて追放された九条頼経
源実朝が亡くなったことで源頼朝の血筋は絶えてしまいましたが、「それならばその兄弟の子孫でいいのでは?」ということで、頼朝の妹の曾孫に当たる九条頼経がピックアップされました。九条家は平安時代の藤原道長の末裔である、つまり武士ではなく由緒正しい公家なのですが、切羽詰まった鎌倉幕府にとっては「血筋さえそこそこ良ければOK」だったのでしょう。
ということで訳も分からず鎌倉に連れてこられた九条頼経ですが、意外な程に御家人達と上手く付き合っていたようで、むしろ反北条氏の旗頭として担がれてしまいました。すると4代執権・北条経時は反乱を起こされる前に手を打ち、強制的に九条頼経は将軍から降ろされています。
九条頼経の長男・九条頼嗣
父から突然将軍のバトンを渡された九条頼嗣(よりつぐ)でしたが、継いだ時点ではまだ6歳という幼稚園生くらいの年齢です。そんな子供が幕府政治をどうこうできる訳もないため、幕府権力は自然と執権北条氏に集中し始めました。
ところがそんな状況に待ったを掛けたい有力御家人・三浦泰村は、すでに引退したはずの九条頼経をまたも担ぎ上げ、北条氏との対立姿勢を示しました。すると5代執権・北条時頼は先手を打って九条頼経を京都へ追放し、三浦泰村とは武力での決着を望みました。この「宝治合戦」と呼ばれる戦いの結果、三浦義澄から続いてきた三浦氏が滅亡していますが、ついでに九条頼嗣も巻き添えを食って14歳にして鎌倉から追放されています。
摂家将軍と宝治合戦についてはこちらからどうぞ。
天皇家から武士に・宮将軍
後嵯峨天皇の長男・宗尊親王(むねたか)
九条頼嗣を追放してしまったことで、鎌倉幕府はまたも将軍を継ぐべき人物がいない状況に陥りました。もうこうなったら高貴な人間であれば誰でもいいことになったのか、ここでチョイスされたのは後嵯峨天皇の長男・宗尊親王(むねたか)という人物です。
この宗尊親王は天皇の長男ではあれど母親の血統が良くなかったようで、天皇位を継ぐには弱い、というかほぼ後継者から除外されていたようです。ということで「天皇になれないならせめて将軍に」といった後嵯峨天皇の親心により、幕府と天皇の利害関係が一致、話はトントン拍子に進んでいきました。そんなこんなで6代将軍として鎌倉にやって来た宗尊親王でしたが、その3年後に7代執権・北条政村に謀反の疑いを掛けられてやっぱり追放されています。
父が追放された後に3歳で将軍になった惟康親王
この惟康(これやす)親王という人物は宗尊親王の長男なのですが、父が追放された後も鎌倉に取り残されており、僅か3歳という年齢で将軍にさせられてしまいました。まあ3歳児が幕府をどうこうできる訳もないため、お飾りとしてチョコンと座り続けたものと思われます。後にこの惟康親王は臣籍降下、つまり皇族から籍を抜いて源氏姓を得ていたため、実は源実朝以来の源氏姓を持つ将軍だったりします。
そんな事情もあったためか、惟康親王の在任期間は非常に長く、23年も鎌倉殿として過ごしています。ですが9代執権・北条貞時は十分な判断力を持った将軍の存在を嫌い、操り人形として言いなりになる将軍を望みました。という訳で惟康親王は大人になったと同時に追放されることになりましたが、なぜか惟康親王の扱いはかなりひどく、輿に無理やり詰め込まれて泣きながら追い出されたそうです。
平穏無事に将軍をやり終えた久明親王(ひさあき)
惟康親王が追放された後には、今度は後深草天皇の6番目の皇子・久明親王が将軍として鎌倉にやって来ました。この久明親王は10代前半、つまり正常な判断力のない子供だったということで、9代執権・北条貞時の嫌な希望が通った形ですね。
もちろんそんな久明親王は操り人形になるしかなく、ただひたすらにお飾りの役目を果たし続けたようです。ですがこの久明親王は相当温和な性格だったようで、特にモメることなく20年が経過しました。結局久明親王も30代の前半で京都に送還されましたが、その後も鎌倉幕府と良好な関係を持ち続けたようで、平穏無事にコトを済ませた唯一の鎌倉将軍だったりします。
惟康親王の孫であり久明親王の子・守邦親王
久明親王は将軍在任中に惟康親王の娘を妻に迎えており、守邦(もりくに)親王はその2人の間に生まれた子供です。父である久明親王が京都へ戻ると同時に守邦親王が将軍に就任しましたが、やはりと言うか8歳という若さでの就任となっています。
この守邦親王は結果的に24年もの間将軍を務めており、実は鎌倉幕府の歴代将軍の中で最長の在任期間だったのですが、その最後は幕府の滅亡という形で締めくくられました。新田義貞が鎌倉に攻め込んできた際に北条一族はほとんど自害していますが、実権を持たなかった守邦親王は許されたのか、将軍職を辞任して自ら出家の道を選んでいます。
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