御家人達の間で翻弄され続けた2代目鎌倉殿・源頼家

源頼家の肖像 鎌倉時代の人物録
源頼家の肖像

周囲の祝福を受けながら誕生

源頼朝に嫡男が生まれた瞬間

源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱の真っ最中、源頼家は源頼朝と北条政子の間の長男として生まれています。この出産は源氏の棟梁としての跡継ぎができる大切な瞬間だったためか、わざわざ頼朝の乳兄弟・比企能員の屋敷で行われています。

この時点で頼朝は36歳という長男が生まれるには遅い年齢だったためか、出産に対して入念過ぎる事前準備をしたようです。北条政子が懐妊した時点で頼朝は居ても立ってもいられなかったのか、安産祈願のために鶴岡八幡宮を整備し始めました。その際には普段は自分で働かない有力な御家人にも自身の手で作業させており、相当な気合の入れようで我が子の無事な誕生を願いました。そんな頼朝の一途な願いが届いたのか、やや重すぎる愛を受けながらも頼家は元気に生まれています。

源頼朝のイラスト
今回は子煩悩なお父ちゃん役で登場の源頼朝さん

源頼家は生まれた時から比企能員や梶原景時と親密

この頃の源頼朝と最も親密だった御家人はやはり乳兄弟の比企能員だったようで、乳母として比企氏の女性が何人か付けられています。また鎌倉幕府草創期の有力御家人である梶原景時やその妻も祝いに駆けつけているため、比企氏と梶原氏は頼朝と家族ぐるみの付き合いがあったものと思われます。そして後に頼家は比企能員の娘を側室として迎えており、特に比企氏とは親戚以上の親密な関係を結んでいました。

正室と側室の違いについてはこちらから。

富士の巻狩りで大事件

源頼家少年も鹿を射止めたものの

源頼家が12歳になった頃、父・源頼朝は富士山の麓で大規模な巻狩りを開催しました。巻狩りとは狩場となる場所を四方から囲み、獲物を一定の方向に追い詰めながら射止める狩りの方法です。平安時代末期頃から始まった巻狩りは、貴族武士の純粋な楽しみとしてだけでなく、軍事演習や神道儀式の一環として催されたこともあるようです。

この富士の巻狩りでは頼家少年も射手として参加し、見事に鹿を射止め武士としての才能を見せつけています。この頼家が鹿を射止めたことを頼朝は異様なまでに喜び、わざわざ北条政子に対して使者を送るという、まるで息子の運動会の話を延々とするお父さんのような行動をとっています。ちなみに源頼朝のハシャいだ手紙を読んだ母親の北条政子は、「武士の嫡男なら当たり前」というドライすぎる返書を送ったとか。後に「尼将軍」として鎌倉幕府を仕切ることになる北条政子ですが、この時点ですでに相当な貫禄を身に着けている感がありますね。

「夢買い」で武家の頂点になった北条政子についてはこちらからどうぞ。

日本三大仇討ちのひとつ・曽我兄弟の仇討ち

巻狩りは1ヶ月にも渡って開催されたのですが、この間には物騒な仇討ち事件も発生しています。曽我祐成と曽我時致という兄弟が恨みのあった工藤祐経という人物を殺害したのですが、弟の曽我時致は勢い余って頼朝にまで抜刀しながら突進、刀を抜いて迎え撃とうとする頼朝を家臣が押し留め、その間に他の武将が曽我時致を捕縛するという騒ぎが起きています。結局頼朝や頼家には被害はなかったのですが、こんな事件があったためかすぐに巻狩りを撤収し、鎌倉へ向けて帰還しています。

鹿の写真

父・源頼朝の死後に鎌倉幕府2代将軍に

1,199年の1月、日本初の武家政権を樹立した偉大な人物、源頼朝が唐突な死を迎えています。落馬によって亡くなったという説もあるにはあるのですが、これは俗説の域を出ることはなく、かと言って直接的な死因はわかっておりません。ただ頼朝の突然死によって、源頼家が18歳という若さで偉人の跡を継いだことだけは確かです。

将軍として武家の頂点に立った頼家は、裁決が必要な事案に対して自身の考えで裁断を下し、円滑に政務を行うために積極的に尽力しました。ですがそんな頼家の努力も古参の御家人にとっては余計でしか無かったのか、「武士の通例を無視した独裁」として批判され、自身の考えによる裁決を停止させられてしまいます。実際に頼家による独裁が行われていたのかは不明であり、頼家の裁決によって起きた事件などは皆無だったりもするのですが、こうして宿老達による十三人の合議制が発足しています。

鎌倉殿の13人による合議

この十三人の合議制では、有力な御家人となる13人による話し合いで裁決案を出し、そしてその裁決案を源頼家が確認して最終的な可否を決定するという形式をとっていました。この合議には毎回全員が勢揃いしていた訳ではなかったらしく、あくまで合議に参加する権利を持っていた13人ということになります。ここで一旦「鎌倉殿の13人」をリストでご紹介したいと思います。

以上の13人による合議で幕府を運営していくことに決まったのですが、この決め事には当然のごとく頼家は猛反発しています。独断で裁決を下し続ける頼朝の背中を見て育った頼家にとって、自分が同じ様に振る舞えないことの方が異常だったのでしょう。反発した頼家は身近な世話をする5人の近習だけと会うようにし、他の御家人とは取り次がれても一切会わないという、ある意味清々しい盛大なスネっぷりを見せています。ちなみにこの5人の近習には、頼朝一家が家族ぐるみの付き合いをしていた比企能員の息子2人が含まれています。

梶原景時の変で側近を失う

十三人の合議制が始まってしまったことで盛大にコジらせていた源頼家でしたが、半年も経たないうちに事態が急変します。頼家出産の際にも登場した梶原景時は、側近として源頼朝の代から将軍のサポートに当たっていたため、他の御家人からすれば「虎の威を借る狐」に見えてしまったのでしょうか。また景時は「侍所別当」という御家人達の監視や管理をする職務を持っていたのですが、この姿が権力を振り回す悪人に見えてしまったのか、多くの御家人達から恨みを買い失脚を望まれるようになっていました。

とある些細な出来事をキッカケとして、景時の追放を願う66人もの御家人の署名が入った連判状が頼家に提出されました。この時の頼家は父の代から仲の良かった景時を信頼していたようで、わざわざ2人で話す席を設けて事情を聞こうとしています。ですが景時は連判状を見て愕然とし、一言も発さずに部屋を後にしたと伝えられています。66人に追放したいと具体的に意思表明されたという事実は、景時の弁明する気力すら奪ってしまったのでしょうか。筆者もさすがにそんな体験はありませんが、あったら泣きながらフテ寝するしかないですよね。

無言で自身の領土である相模国・一の宮に戻った景時は、京都への旅路を急ぎました。もはや鎌倉幕府に見切りをつけたのか、家族だけでなく一族を連れて旅立っています。ですが景時の鎌倉追放では飽き足らない御家人達は梶原氏一行を襲撃、無残に倒れた景時と一族は晒し首という過酷過ぎる処分を受けました。そして頼家にとってはただ有能な側近を失ったという結果だけを残し「梶原景時の変」は幕を閉じています。

梶原景時についてはこちらからどうぞ。

十三人の合議制解体と源頼家の危篤

梶原景時の変が起きてから一年と経たぬ間に、十三人の合議制のメンバーである安達盛長と三浦義澄が病死し、人数が足りないということで合議制はあっけなく解体しています。ここで2代将軍による政治体制に戻るかと思いきや、源頼家は急な病に倒れてしまいます。

頼家の病は回復の兆しを見せることなく、むしろ日を追うごとに重態となりました。そして命の危険すらある危篤状態にまで悪化すると、頼家は観念し6歳の息子・一幡や弟・源実朝への遺産配分の取り決めを行っています。そして実朝が若干多いくらいの配分で一旦は決まったのですが、ここで頼家の妻の父であり、家族ぐるみの付き合いをしていた比企能員から猛烈なクレーム、一幡への配分を増やしてひとまず一件落着となっています。比企能員からすれば北条政子の子供である実朝が大きな力を持つよりも、自身の孫に力を持たせた方がオトクな訳ですね。実朝の乳母は北条政子の妹が務めており、どちらかと言えばライバルの北条氏寄りの人物であったことも理由の一つだったでしょう。

比企能員の変と源頼家の最期

遺産配分が自身にメリットがある形になった比企能員は、源頼家に次なる進言をしました。北条時政・北条義時の親子を亡き者にするという、いわゆる暗殺計画を持ちかけ、頼家はこの提案を承諾しています。もしこの計画が成功すれば、頼家にとって弟・源実朝ではなく息子の一幡に将軍の座を譲ることができ、比企能員にとっては自身の孫を権力の座に付け、自身と一族をより大きくできるというわけですね。

比企能員についての記事はこちらからどうぞ。

ですがこの計画は事前に北条親子にバレてしまい、むしろ比企能員が逆に謀殺されるという結果に終わりました。そして北条軍の攻撃は比企氏一族にも及び、頼家の息子・一幡をも巻き添えにして周囲の全てを火の海に沈めました。このことを聞いた頼家は激怒し、北条氏討伐を周囲の御家人に命令しますが、北条氏に逆らうことを恐れた人々は誰もが頼家の言葉に耳を傾けませんでした。

比企能員の変から数日後、頼家は北条氏によって将軍の座を追われ、次の鎌倉殿には実朝が就任することになりました。梶原景時や比企能員といった頼家を支える御家人はすでにおらず、北条親子の鼻息を窺う御家人だけが残されています。将軍職を解かれた頼家は伊豆の修善寺に護送され、一応は病の療養という名目で二ヶ月ほどの時間を過ごしました。そして11月という冬も厳しい季節、頼家は入浴している最中に北条親子が放った刺客の手に掛かり、23歳という若さで亡くなっています。

修善寺にある源頼家の墓所
修善寺にある源頼家の墓所

まとめ・北条親子による捏造説と源頼家の人物像

源頼家の人物像は資料によってかなり異なっており、軽いパニックになる程違うことが書かれていたりします。当時のことが記された主な資料としては、北条氏によって編纂された「吾妻鏡(あづまかがみ)」、また当時京都にいた慈円上人による「愚管抄(ぐかんしょう)」などがありますが、頼家を比較的悪人として描いているのが「吾妻鏡」です。

十三人の合議制が発足するキッカケについても「吾妻鏡」では、頼家が自分勝手なことばかりしたから仕方なく、といった語り口で描かれています。また頼家の死因についても「吾妻鏡」ではかなりボカされており、病死したという連絡があった、という記述のみで済まされています。ですがこの頼家の死については「愚管抄」では具体的に描かれており、北条氏の手勢によって入浴中に殺害された、とハッキリとした記録が残されています。さらに「吾妻鏡」では頼家が何度も御家人の妾を寝取ったという記述があるなど、客観的に見ればイメージダウンもそこまでするかという程の必死さが窺えます。

鎌倉幕府の中でリーダーシップを握りたい北条時政や北条義時にとって、極端なことを言えば源頼朝の一族は邪魔でしかありません。さすがに初代将軍である頼朝に手出しはできなかったものの、梶原景時や比企能員といった有力な御家人、そしてまだまだ若かった頼家は北条氏の野心に飲み込まれてしまったのでしょう。ですがそんな露骨なことを記録に残しておいたら色々マズいよね、ということで頼家に色々と悪人エピソードを付け足し、正義のヒーロー役として北条氏が登場する「吾妻鏡」が出来上がったものと思われます。入念に頼家を悪人に仕立て上げるネチっこさはなかなか凄いものがありますが、そこまでしてでも頂点を目指す北条氏の凄まじい執念も感じられます。もちろんこの話は過ぎた時代のことであり、推測の域を出ず確認なんて到底出来ませんが、筆者は源頼家が父の背中を追いながら頑張ろうとした人物であると信じています。

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