源頼朝の創業に尽くし北条義時の前に散った男・和田義盛

和田塚の写真 鎌倉時代の人物録
和田塚

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源頼朝の挙兵に参戦しようとするも雨に阻まれる

和田氏は三浦氏から分かれた血縁的に近い氏族であり、和田義盛は三浦義澄の甥に当たる人物です。三浦一族はその名の通り相模国(神奈川県)の三浦半島を本拠とする、平安時代に関東に流れてきた平氏の末裔です。その三浦氏から分かれた和田氏も当然平氏の流れを汲む氏族ではありますが、平治の乱に勝利して平氏政権を築き上げた平清盛とは血縁的に遠く、義盛が登場する平安時代末期頃にはお互いに血縁を意識しない間柄となっています。

源頼朝と北条時政が伊豆国で旗揚げした際、義盛や三浦義澄はすでに源氏に味方することを決めており、頼朝と合流するために三浦半島から伊豆を目指し行軍していました。ところが途上で大雨に遭って相模国の酒匂川が増水して立ち往生、その間に石橋山の戦いが起き頼朝が敗北してしまいます。頼朝の敗報を聞いた三浦義澄と義盛は仕方なく三浦半島への帰路に着きますが、鎌倉の由比ヶ浜で当時平氏に属していた畠山重忠軍に遭遇、三浦・和田軍は敗北を喫して三浦半島へ逃げ帰りますが畠山重忠は更に追撃、三浦義澄と義盛は追撃から逃れるために船で安房国へと向かいました。

大雨の後の酒匂川の写真
大雨の後の神奈川県小田原市・酒匂川

逃れてきた源頼朝一行と海上で合流

畠山重忠から逃げる三浦義澄と和田義盛が船で安房国へ向かう途上、同様に東に向かう船を発見しました。その船は平氏に負けて逃げ出した源頼朝一行であり、平氏に追われた2組が海上でたまたま落ち合うという奇跡的な合流を果たしています。この時義盛はようやく頼朝に出会えたことに感極まってしまったのか、自身の平氏打倒に掛ける想い、そして「侍所別当職」に就きたいという熱い気持ちを打ち明けたとされています。

その後の頼朝一行は味方集めに奔走しますが、安達盛長が千葉常胤という大物豪族を味方に取り込むことに成功すると、他の東国武士達も続々と頼朝の元に集いました。この時義盛や三浦義澄を追い回した畠山重忠も御家人になっており、遺恨はあれど味方として共に戦い、源氏軍は相模国を統治下に置くことに成功しています。ようやく鎌倉の地を奪還した頼朝一行はここを本拠として定め、まずは東国統治のための政権づくりに着手しました。

念願の侍所別当職就任から壇ノ浦での勝利

鎌倉に源頼朝の御所が築かれると、その周囲には様々な政府機関の建物が建設されました。そして侍所という御家人の管理をする部署が設置されると、頼朝は安房国で打ち明けられた熱い想いに応えて和田義盛を別当(長官)に任命しています。義盛は頼朝が気持ちに応えてくれたことに感激し、忠勤に励み平氏打倒にも力を注いでいます。

義盛は頼朝の弟・源範頼軍に所属して平氏と戦い続け、最後の戦いの舞台となる壇ノ浦に辿り着きました。ここで義盛は何を思ったか突然平氏軍の船に一本の矢を200メートルもの距離から射掛け、「オレと同じくらい矢を飛ばせる奴がいるなら撃ち返してみろ!」という謎の煽りを入れていますが、残念なことに平氏軍にも凄腕の射手がいたため、普通に撃ち返されて失笑を買うという切ない状況に陥っています。ですがそんなお遊びと戦争の決着は関係なかったようで、源義経の活躍もあり源氏軍は平氏に大勝利、長きに渡った治承・寿永の乱はここで幕を閉じています。

奥州合戦後に梶原景時に侍所別当職を奪われる

源義経は平氏討伐に大きな功績を残していますが、梶原景時の讒言もあり源頼朝への反乱を起こしています。この反乱はあっという間に鎮圧されて大失敗に終わり、義経は奥州藤原氏の元に逃げ込み再起を図りました。すると頼朝は即座に奥州への侵攻を開始、和田義盛もこれに参戦し藤原軍に猛攻を加え、逃げ出した藤原国衡を先陣に立って追撃しています。この時藤原国衡を討ち取ることには成功しているのですが、誰が討ち取ったかという点で前々から因縁のある畠山重忠と論争になり、結局この問題はウヤムヤのまま2人の因縁は次回へ持ち越されています。

鎌倉へ帰還した義盛は、相変わらず侍所別当として職務に励んでいました。ここからの話は結構眉唾ものなのですが、ある日梶原景時が「一日だけ侍所別当になりたい」という訳の分からないことを言い出した所、義盛はあっさりと承諾、そして一日だけという話だったのにそのまま別当職に居座られ結局奪われてしまったという逸話が残っています。

侍所の別当は処罰を下すことができる重要な役職であるため、そもそもそんな立場の人間が1日だけ職権を預けること自体がありえません。実際のところは頼朝からの信任を得ていた梶原景時が別当職に任命され、そのことを快く思わず、また不名誉に感じた義盛側の「別当職から降りたのはハメられたからなんです」という、周囲の同情を引きたいがための言い分ではないかと思われます。重要な職から降ろされて「実力不足でした!」なんて言える器の大きな人もなかなかいないものですが、梶原景時を悪者にする義盛の言い分もちょっと意地汚く感じてしまいます。

つかの間の政治体制・十三人の合議制

源頼朝が亡くなった後に鎌倉殿の地位に源頼家が就き、父同様の独裁体制で幕政を取り仕切り始めました。ですが頼朝の時代から将軍独裁については不満の声もあったため、幕府の宿老達は批判の声を露わにし、十三人の合議制で決めるという政治体制が出来上がっています。この鎌倉殿の13人と呼ばれる合議制メンバーに和田義盛も参加しており、叔父の三浦義澄とともに幕政の中枢に入り込んでいます。

ところが合議制が始まって約半年後、義盛の後釜として侍所別当を務めていた梶原景時を、鎌倉から追放するための署名が義盛の元に回ってきました。元々御家人たちからの人気が低かった梶原景時でしたが、逆恨みではあれど遺恨のあった義盛は大喜びでこの署名にサインし、結局66人もの署名が集まった連判状が将軍頼家に提出されています。この事態にさすがの頼家としても庇いきれず、梶原景時は一族を連れて逃げるように京都へ向かいますが、その途上で北条氏の郎党に襲撃されて命を落としています。そして梶原景時の変から3日後に義盛の叔父・三浦義澄が病死し、続いて安達盛長も病死したため、合議制のメンバーは一度に3人を失ってしまいました。こうなるとメンツ不足ということで合議制は1年と保たずに解体し、代わりに頼家の妻の父であり、初代将軍・源頼朝の乳兄弟でもある比企能員が幕府内で幅を利かせ始めます。

北条時政による比企氏滅亡と将軍交代

鎌倉幕府の2代将軍・頼家の母は北条政子であり、本来であれば比企能員の立ち位置は将軍の祖父である北条時政のものであるはずです。ですが頼家と北条氏の間はあまり良い関係ではなかったようで、頼家は北条氏を遠ざけて比企一族ばかりを重用していました。権力の座を狙う時政としてはこのまま比企氏の独占を許すわけにはいかないということで、一計を案じて比企能員を謀殺、さらに家族や一族が住まう屋敷を襲撃し比企氏を滅亡させてしまいます。この比企氏襲撃には和田義盛もガッツリと参加しているため、この段階では義盛と北条氏の間柄は良好だったものと思われます。

そして時政の魔の手は将軍・頼家にまで及び、将軍職を源実朝に譲り渡すよう強制し、さらに伊豆国の修善寺で半ば監禁しています。この時点での実朝はまだ10代前半の子供ということで、時政は「執権」という幕政を統括する職務を創設し自らその座に就きました。ここで時政は自身に反抗する御家人の排除を目論み、ターゲットとされたのは義盛との因縁がある畠山重忠でした。時政は畠山重忠が謀反を企んでいるとして大軍で攻撃、この軍にしっかりと義盛も参加しており、膨大な兵力の前に畠山重忠も敵わず敗死しています。

北条義時の和田義盛イジメ

有力な御家人を始末して勢いに乗る北条時政でしたが、3代将軍・源実朝は成長するにつれて自身の意志による政治を望むようになりました。ですが時政にとっては意のままになる将軍こそ理想であり、意思を持ち始めた将軍など孫とは言え邪魔でしかありません。そして時政は実朝暗殺計画を実行しようとしますが、これは北条政子や北条義時によって阻止され、逆に時政が鎌倉から追放されるという結末で一幕を閉じています。

和田義盛はこれまで時政に従い続け、比企能員の変や畠山重忠の乱でも時政に協力的な姿勢を取り続けています。ですがその時政はすでに鎌倉から追放されており、追放した張本人である2代目執権・北条義時から白い目で見られるという、義盛の過酷な日々が始まりました。

そんな中で北条氏を倒そうという陰謀が露見し、その陰謀に義盛の子供や甥が関係していたという追い打ちのような事件が勃発します。この時義盛は鎌倉へ出向き子供や甥が許してもらえるよう必死で謝罪しますが、甥だけは許されず鎌倉追放を言い渡されました。せめて甥が使っていた屋敷だけでも回収したいと義時に懇願すると、義時は一度OKを出しはするのですが、結局他の御家人に屋敷を与えるという精神的ハラスに出ています。一度は聞き入れたにも関わらず気付けば他の御家人が甥の屋敷に住んでいることを知り、義盛は義時への恨みを晴らすため挙兵に踏み切ります。

和田合戦で和田義盛討ち死に

義盛は挙兵するに当たり、さすがに単独では勝ち目がないということで、本家に当たる三浦氏と結託しました。三浦義澄が病死した後は三浦義村という人物が当主の座に就いていましたが、三浦義村は義盛の誘いに同意し、誓約書まで書き起こし共に戦う約束を交わしています。ですがこの三浦義村という人物はなかなかの食わせ者で、挙兵前に義盛の謀反を北条義時に密告するという裏切りをぶちかましています。

1213年の5月、義盛は和田一族とともに挙兵し、鎌倉の義時の屋敷を目指しました。ですが義盛の謀反を知っていた義時は当然ながら防備も万全、余裕の構えで迎え撃ちます。それでも武勇に優れた和田氏の兵は善戦し、防戦に務める北条軍をバタバタとなぎ倒しました。ですが約束していた三浦義村の兵は一向に到着せず、時間が経てば経つほど北条軍は数を増していきます。朝から戦い続けた和田軍は段々と押され始め、そして尚も増える北条軍の前についに由比ヶ浜まで押し込まれました。夕方になる頃には和田一族は疲れ果てており、兵達が次々と討たれていく中で義盛の愛息もついに倒れてしまいました。それを見ると67歳という老齢に差し掛かっていた義盛は、悲痛な叫びを上げながら単身で突撃、多数の兵に絡め取られ敢えなく討ち死にしています。

和田義盛の肖像
ワイルドな風貌の和田義盛

源頼朝の創業にも大きく貢献した和田義盛は、鎌倉幕府が生んだ怪物・北条義時に飲み込まれる形で滅亡しています。この後の義時は承久の乱という大きな兵乱を凌ぎきり、北条得宗家が執権職を世襲していく土台作りに成功しています。ちなみに義盛を裏切った三浦義村は和田合戦後から北条氏と親密になり、評定衆という政策決定を担う役職に就いており、義盛を踏み台にして出世したという救いのない話となっております。義盛が壮絶に戦い戦死した由比ヶ浜には、当時のことを偲ぶかのごとく和田塚という地名が残っています。

和田塚駅の写真
江ノ電の駅名にもなっています
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