悪党とは朝廷や幕府に反抗した個人・集団です

悪党のイメージイラスト 用語集

悪党とは

悪党という単語からは「かなり悪い人」くらいの印象を受けますが、日本の中世において使われた場合は朝廷や鎌倉幕府に対して何がしかの騒乱を起こした人を指します。ぶっちゃけ悪そうな人を指している点は現代と大して変わりませんが、実際に行動に及んだ人や集団であることがポイントでしょうか。反抗する対象は結構なんでもいいようで、寺社や荘園領主の貴族に対して納税を怠っただけで悪党と呼ばれた例もあります。

当初は体制外の人々が悪党に

日本には古くから固定の居住地を持たずに漂泊する人々もおり、また海を生活の場とする海民やそもそも日本人と人種が違う「蝦夷」もいます。ですが当時日本の律令制は柔軟性に欠けており、そういった統治体制から外れた人々を管理する手段を持ちませんでした。

律令制が始まって以来、朝廷は現代のように戸籍で国民を管理し徴税や労役といった義務を課してきました。逆に言えば戸籍に登録されていない人々に対しては義務を課しようがなく、少しでも税を取りたい政府からすればそういったアウトローな人々の存在自体を「悪」と見なしました。これは定住し重税に喘ぎながら耕作を続ける「良民」からしても同様であり、国民の義務をこなしていないダメなやつくらいの扱いだったものと思われます。そういった体制外の人々は一様に「悪党」とされ、ある意味で当時の社会から疎外されていました。

芸能民も悪党扱いされていたようです

悪党という単語が記録の中で出てくるのは平安時代の末期頃からであり、「荘園」という制度が整いつつあった時代からです。土地の支配者は耕作もしない納税もしない人を「悪党」として社会から疎外し、「こうなったらいけませんよ」というレッテル貼りをする必要があったものと思われます。そして次の武士が躍動する鎌倉時代では、悪党という単語が指す意味合いが荘園周りに限定されることになります。

荘園支配を揺るがす悪党達

鎌倉期という時代は武士が勃興した時期でもありますが、同時に朝廷貴族・天皇家と武士が共存できていた時期でもあります。当時の武士には自身の領土を持っていた人も多くいましたが、貴族連中が持つ荘園の「地頭」として管理を行ったケースの方が遥かに多かったでしょう。鎌倉幕府が成立したとみなされる1185年に起きた出来事は、北条時政が「文治の勅許」で源頼朝が「地頭」を任命する権利を得たことです。つまり鎌倉幕府が持つ機能は、基本的には荘園の管理人を任命できることがメインです。

では実際に荘園を持っていたのは誰かと言えば、平安時代に荘園をせっせと掻き集めた貴族や天皇家が大半です。「地頭」に任命された御家人は頑張って民衆から徴税し、京都にいる貴族達に送り届けるのが仕事となります。ですが方々を駆けずり回って税を集め、自分の取り分はあれど大半は京都に送る、というのがバカらしいと感じる武士がいたことも想像に難しくありません。こう考えた武士が次に何をするかと言えば、送る量を減らしてピンハネするか、もしくは丸ごといただくというのが人間でしょう。

ですが本来送られてくるべき税が送られてこない京都の貴族達は、当然クレームを出すことになります。このクレームは地頭にも出されたのでしょうが、当の地頭達はもちろん確信犯でやっているのでまともに取り合う訳がありません。そこで貴族達は鎌倉幕府に「あの悪党をどうにかしてください」という要請を出し、幕府側がようやく対処するという段取りになっています。

時代の担い手となった悪党・楠木正成

悪党と認定されても力強く生き延び、後の日本を動かした高名な人物もいます。楠木正成という人物は幕府に所属しながら反乱鎮圧で名を上げた後、堂々と後醍醐天皇の幕府討伐計画に加担しました。この華麗な手の平返しを見た鎌倉幕府は悪党であるとして痛烈に批判しますが、新たな主を得た楠木正成は硬軟織り交ぜた緻密な戦略で幕府軍を翻弄し、幕府討伐に大きく貢献しています。

楠木正成の肖像
悪党と呼ばれても優秀すぎる名将・楠木正成

室町時代には当たり前過ぎて使われない

足利尊氏が後醍醐天皇を破ってできた室町幕府の時代は、そもそも貴族達の発言権が低いところからのスタートとなります。さらには荘園を荒らし回った悪党だらけの鎌倉時代を経ていたことで、すでに貴族達が武士による荘園侵略に抵抗できないことが証明されています。割と貴族達にも配慮していた鎌倉幕府とは異なり、室町幕府は武士に対して比較的アマアマだったため次々と貴族の荘園が乗っ取られていきました。

この現象は室町幕府成立当初の二頭体制にも原因があり、貴族寄りの立場を示した足利直義に対して、むしろ悪党活動を看過することで味方を増やし続けた高師直のせいでもあります。高師直の部下達が荘園侵略をすればするほど足利直義にクレームがいくため、当然ながら両者は対立し、「観応の擾乱」が起きる一因ともなっています。このによって高師直・足利直義共に倒れてしまいますが、この路線は継続され全国各地の守護大名によって荘園が次々と解体、領土として組み入れられています。この圧倒的な暴力による侵略を貴族達は受け入れる他なく、この頃にはすでに悪党という言葉すら使用されなくなっています。

観応の擾乱についてはこちらからどうぞ。

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