一夫多妻制における正室と側室の違い

用語集

一夫多妻制における正室と側室

正室とは

一夫多妻制における、最も地位の高い妻は「正室」と呼ばれます。日本も明治維新以前は一夫多妻制だったのですが、家制度における後継者問題を穏便に済ますため、それぞれの妻は正室と側室に区別されていました。まあ例外は多くあるのですが、基本的には正室の長男が後継者に、いわゆる「嫡男」として扱われることになります。

側室とは

正式な妻である「正室」は大体一人きりですが、これに対する「側室」は複数人いたケースが結構多く、括りとしても大雑把です。というのも、「側室」の場合は奴隷と主人のような関係もあり、逆に「正室」と同じ待遇だったケースもあったりと、多種多様です。ただし、「側室」も「正室」と同様に公的な身分となり、優先度こそ低いですが、その子供も後継権を持ちます。

正室と側室の違い

これはもう個人差というか家単位での文化もあるので一概には言えませんが、基本的に正室は家族として扱われます。側室の場合もこれまた様々なケースがありますが、こちらは本来的な立ち位置としては使用人となります。

例外ケース:豊臣秀吉の側室・淀の方

とは言え側室については例外となるケースも非常に多く、その最たる例は豊臣秀吉の側室として豊臣秀頼を生んだ「淀の方」でしょうか。豊臣秀吉の正室である高台院には子供が生まれなかったため、「淀の方」は側室ながら正室ばりの権力を持っていたとされています。

高台院の銅像の写真
「ねね」とも呼ばれる高台院

一夫多妻制があった理由

明治維新までの権力者は一夫多妻がスタンダード

現代人には全く馴染みのない一夫多妻制ですが、この夫婦の在り方は多分ですが古代から始まっています。というのも、日本最古の歴史書「古事記」において、複数の妻を持つ人物が当然のごとく登場しているからです。

そして飛鳥時代あたりからは、天皇家だけでなく豪族も一夫多妻が当たり前になっています。もちろん多くの妻を養える裕福な人限定ではありますが、この現代では見られない夫婦関係が江戸時代まで普通に続いていました。

家名を残すため確実に後継者を

ではなぜ一夫多妻制なんてものがあったのかと言えば、日本の場合は「家制度」が大きく影響しています。というのも、日本では個人よりも家名の存続が優先されたケースが極めて多かったのですが、そのためにも後継者となる男子が絶対に必要だった訳です。

日本人の平均寿命は現代では80歳に届こうとしていますが、平和な江戸時代ですら実は30~40歳程度であり、幼児期の死亡率は20~25%にまで達していました。つまり、家名を確実に残そうとしたら相当な数の子供を産まないとということで、そのために側室が複数人いたという訳です。

家制度についてはこちらからどうぞ。

正室が側室を勧めたケースも

現代なら旦那さんの浮気がバレようものなら大変なコトになりますが、一夫多妻の時代においては少々事情が異なります。むしろ正室自ら「側室を迎えてみたら?」なんて勧めることもあったようで、この辺はもはや現代人では理解できないレベルですよね。

というのも、当時の上流家庭はガッチリ目の階級社会だったようで、正室を頂点としたピラミッドが成り立っていました。つまり側室を作ることは正室の地位向上に繋がり、なおかつ家の繁栄にも貢献できるということで、そんなに抵抗感はなかったようです。

とは言え、夫婦関係はあくまで男女のコト、そんな一筋縄でくくれるものではありませんよね。中には側室を作るたびに正室に追い回された福島正則なんかもいますので、まあ結局は十人十色といったところでしょうか。

カミさんに追い回された福島正則のエピソードはこちらから。

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