家制度とは
家制度とは戸主や家長といった「家」の代表者が、家族に対して強力な権限を持つ制度を指します。この制度では家長や戸主はただの個人ではなく、「家」に属する人間と財産を継承する権利を持つ代わりに、家業や「家」の祭祀を守り続ける義務がありました。この「家」に関する全権、そして全責任を負う人間は基本的に家長の長男となりますが、場合によってはその弟や血の繋がった女性が引き継ぐこともあったようです。
家制度ができた時期と理由
そもそもいつ家制度なんて仕組みが取り入れられたのかと言えば、飛鳥時代の後期から始まった大化の改新がキッカケとなっています。この政治改革を主導した中大兄皇子は、よりスムーズに仕事をするために「家」ごとの家長を優遇し、代わりに「家」の対外的な責任を負わせるという方法をとりました。この制度が段々と一般民衆にまで浸透し、家長に財産と権力を集約させる慣習が末端にまで根付いていったのでしょう。
この頃の「家」は現代のような両親と子供くらいではなく、家長の兄弟の家族くらいまでを含む結構大きな単位です。そして「家」はそれぞれ固定の家業を持っていたため、要するにピラミッド型の命令系統を作るために家制度を取り入れたものと思われます。
家制度の歴史
大化の改新で家制度が成立した?
この家制度という概念は大化の改新から始まった訳ですが、実際のところ「天皇家」も同様の継承システムだったりします。「天皇」となった人物が天皇家に属する人、つまり日本全体に対して権力を持っていたということで、大化の改新以前から似たような考え方があったのでしょう。紀元前の中国でも人を含む財産は家制度、つまり長男が一括して相続するというシステムだったため、この制度というか考え方はかなり早い段階で中国から輸入されていたものと思われます。
武士の時代には家長の座を巡る争いも
中世日本の主役となった武士達は、もともと貴族から派生しているため当然のごとく家制度が取り入れられています。屋敷だけでなく武具や馬、そして城や一族郎党まで分散させずに家長に集約される家制度は、軍力の低下が一族の滅亡に直結する武士の世界ではむしろ好都合だったのではないでしょうか。
とは言え一人が財産と権力を独り占めにする仕組みのため、家長の座を巡る兄弟の争いは日本全国でひっきりなしだったでしょう。また長男との関係が悪く今後の出世が見込めない家臣がいたとして、その人物も長男以外を家長にできれば出世の道が開けるということで、家臣にとっても誰が家長になるかは重要だった訳です。そのため家長を巡る争いは派閥間抗争の舞台となることが多く、かの有名な織田信長も弟と譜代家臣との内乱の後にようやく織田家を継承しています。
明治維新で家制度の意義が消失
江戸時代まで変わることなく続いた家制度でしたが、この制度は「家長が家業を継承する」ことが大前提です。武士なら武士として主君に仕え、農民なら田畑を耕作する、という家業ありきのシステムですね。だからこそ家長が財産の全権を握り、家業をキチンとこなした上で次の世代に継承する、というところまでが家長の責任だった訳です。ところが江戸幕府が滅亡し日本が大きな変革期を迎えると、この制度の意義そのものが失われてしまいます。
明治時代に明治維新というとてつもない大波は、人々から身分という枷を解き放ち、職業を選択できるという自由をもたらしました。そのため家業という考え方そのものが希薄となり、また勤め口が多数出現したことで、家族が家から流出し労働力不足に悩まされることになりました。また工業化が進んでいくにつれ、製造関連の業種では家業を守ること自体が難しかったでしょう。
それでも中には家業を発展させて企業化できた「家」、もしくは今現在も代々続いてきた家業を継続できている「家」も結構多いのではないでしょうか。現代ではそこまで家長に全てを集中させることはないのでしょうが、「長男が家を継いだ」といったことは結構耳にしますので、家制度は今でも慣習として残っているのかもしれませんね。
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