荘園とは権力者の領有地

大分県田染荘 用語集
大分県田染荘

荘園とは

貴族や寺社、そして武士が国から与えられた領有地を指します。ざっくり言えば権力者の私有地を指しますが、あくまで朝廷が所有を認めた土地だけが「荘園」として扱われます。墾田永年私財法が施行された後、領有地の拡張を目指して開梱された土地が大半ですが、国家に対して功績があった人物に給付される場合もあります。

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荘園が始まるまで

開墾政策は三世一身法から

8世紀の奈良時代前期頃、日本は急激な人口増加の時期を迎えました。その人口増加に伴って国民の食糧危機が叫ばれたため、朝廷は慌てて新たな田んぼや畑の開墾政策を実施します。

723年に発布された「三世一身法」は、開墾した人から数えて3代の間だけ土地の私有を認めるという、いわば期限付きで土地持ちになれる政策でした。この政策が発布された直後は欲にまみれた人達が必死になって開墾を始め、近畿地方を中心に各地で農地が急増しています。

ですが、この「三世一身法」はあくまで期限付きの土地所有政策であったため、開墾した人の孫までは土地持ちでいられますが、曾孫の代には当然ながら政府に取り上げられてしまいます。この現実に気付いた農民や地方豪族は開墾する意欲を失い、それまでに開梱された土地も放棄されるなど、朝廷手動の食糧増産計画はひとまず失敗に終わっています。

墾田永年私財法で荘園スタート

三世一身法では大して食糧増産に繋がらなかったため、仕方ないということで朝廷は「墾田永年私財法」という政策を実施します。「永年」というキーワードが政策名に入っておりますが、この政策は名前の通り開墾した農地は全て開墾した人が所有できるというものでした。それまで開墾意欲をなくしていた農民や豪族はここで俄然やる気を出し、突如として各知で農地が出来上がっていきます。

開墾地のイメージ写真

この時期には農民による開墾もいくらかは行われたようなのですが、こんなビッグチャンスを欲深い寺社や貴族達が見逃すはずもありません。寺社や貴族は巨大資本を投下して人を大量に雇い、手当たり次第に大規模な開墾を行いました。こうしてできた大きな開墾地は「荘園」と呼ばれ、貴族や寺社の経済活動を支えていくことになります。

この「墾田永年私財法」では土地の所有は開梱した人となりますが、あくまで律令制という中央集権体制の枠の中であるため、納税の義務は当然ながら発生することになります。現代日本の不動産登記システムと若干似ているかもしれません。ちなみに「荘園」に対して課される税は、「田租(でんそ、租庸調の租ですね」と呼ばれます。

荘園の歴史

節税を目指す人続出の平安時代

食糧増産のための施策として各地に作られた荘園は、平安時代に入ると貴族達によってあの手この手で脱税の手段が編み出されていきます。貴族自身が持つ農地からあがった収益を、少しでも手元に残そうという努力の賜物と言えるでしょう。ですが当然ながら朝廷としても少しでも税を徴収したいため、脱税したい貴族達とのイタチごっこが続くことになります。脱税のためには当然ながら建前が必要となりますが、使われたバリエーションはかなりの数があるため簡単にご説明したいと思います。

官省符荘

貴族や地域に根ざしていた豪族により、朝廷のお偉いさんと密接な関係を結び、田租の免除を認めさせた荘園を指します。実際には親戚関係や交友関係、また政治的配慮による免税もあったのでしょうが、大体のケースはワイロによるものでしょう。額面として「田租>ワイロ」の場合に成り立ったものと思われます。朝廷内の「太政官(だじょうかん)」と「民部省」という部署が租税の権限を持っており、この部署から出された「符(ふ、公文書を指します)」によって免税されたため、「官省符荘」という名称が付けられています。

国免荘

平安時代も中期に入った頃、大化の改新の中で定められた班田収授法はすでに崩壊していました。班田収授法とはまずは民間人の戸籍を作成し、その戸籍に基づいて農地を与えて租税を徴収するシステムです。ですが10世紀に入った頃には、班田収授によって与えられた土地から農民が脱走するケースが相次ぎ、また班田収授から逃れるために戸籍に登録しない農民が相当数いたようです。

班田収授による収益がなくなってくると、朝廷は「国司(こくし)」という地方長官に徴税を任せ、今度は荘園からの収入に頼り始めます。この国司によって免税が認められた荘園のことは、「国免荘」と呼ばれます。要するに京都の朝廷に免税が認められると官省符荘、地方長官である国司と密接な関係を結び(意味深)、免税が認められると国免荘となります。ちなみに国司が代替わりすると免税特権は消失していたため、国司が代わるたびに密接な関係(意味深)を結ぶ必要があることも国免荘の特徴です。

雑役免田

現代の県知事や市長といった職にも任期という勤務する期限がありますが、平安時代当時の国司という地方長官職にもキッチリと任期がありました。この任期という制度を逆手に取り、任期切れ直前に荘園の所有者からワイロをしこたま受け取り、免税特権を与えて自分は京都に帰る、という国司が多くいました。自身には一切の影響がなく大量のお土産を持って帰れるため、国司に就いた人にとっては得しかありません。

ですが「国免荘」でもご説明している通り、国司が代替わりすると田租の免税特権は消失してしまいます。そこで国司達は田租免除の代わりに、国のために一定期間働くという「雑役」の免除特権を与えて京都へ引き上げました。こういった「雑役」が免除された荘園は、「雑役免田」と呼ばれています。

雑役のイメージ

寄進地系荘園

平安時代の末期に差し掛かった頃、荘園経営者は新たな脱税方法を編み出しました。朝廷の有力者や有力寺社に荘園そのものを「寄進(きしん、寄付+献上といった意味です)」したことにすることで、「朝廷に介入させない」というかなりの荒技が発明されます。建前上偉い人の持ち土地とすることで免税特権を得た荘園は、「寄進地系荘園」と呼ばれます。

官省符荘とちょっと似てはいますが、寄進地系荘園のタチの悪さは階層構造をとるところにあります。土地の寄進を受けた貴族がさらに皇族や摂関家といったアンタッチャブルな人に寄進することで、朝廷の役人程度では太刀打ちできない権力に守られることになります。階層構造の中で当然ピンハネが起きることになりますが、やはり普通に田租や雑役といった税を取られるより遥かにマシだったのでしょう。藤原氏という平安時代のモンスター一家も当然この流れに乗っており、他の貴族とは比べ物にならない膨大な資産を築いています。

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脱税に対する朝廷の対抗策

荘園整理令で違法荘園を取り締まる

寄進地系荘園が増加していくにつれ、なんと偽の寄進地系荘園が各地で現れます。税を納入していない荘園に対して国の役人が確認に行くと、例えば「ここは藤原〇〇さんの荘園ですけど?」という嘘の名目で追い払うケースが多発します。役人としては偉いさんの土地から無理矢理税を徴収して睨まれても得などないため、嘘っぽくても手ぶらで帰らざるを得ないという、かなり乱暴な荘園が増加しました。

こういった違法荘園に対抗して、朝廷は「荘園整理令」を発令し安定した税収を目指しました。実際に所有している人物をしっかりと確認することで、免税の対象とならない荘園を確保する狙いだったものと思われます。ですがこの法令では違法荘園の摘発しかできないため、税収の妨げとなっている寄進地系荘園の増加は防ぐことができていません。

延久の荘園整理令で藤原氏撃沈

平安時代を通じて「荘園整理令」は何度も施行されていますが、後三条天皇が施行したバージョンはこれまでのものとは訳が違いました。元号が延久の頃に施行されたために「延久の荘園整理令」というネーミングになっていますが、これまで整理の対象とならなかった寄進地系荘園にまで及んでおり、朝廷の税収を根本的に改善する目的で制定されています。この法令を執行するための機関として「記録荘園券契所」を設置、寛徳2年という年を審査基準として、このタイミング以前に所有していたかどうかで整理対象を決定しました。

この荘園整理令は凄まじい効果を上げ、当時イケイケだった藤原頼通を始めとして、藤原氏の財源となっていた寄進地系荘園を直撃しました。後三条天皇は荘園整理令の名の下に多くの荘園を取り上げて自身の支配下に置き、藤原氏の影に隠れていた天皇家の復権に成功します。もちろん藤原氏が元々持っていた荘園もあったため衰退するに留まりますが、この「延久の荘園整理令」が次代の「院政期」を迎えるキッカケとなっています。

武士の時代の荘園

地頭という幕府側の荘園管理者

源頼朝が朝廷から「地頭任命権」を得たことで、日本初の武士政権・鎌倉幕府が誕生しています。地頭とは荘園や天皇直轄地の管理や治安維持にあたる職を指します。鎌倉幕府が成立した直後には東国や平氏が地頭を務めていた土地に幕府側の地頭が任命されていましたが、承久の乱という戦争で朝廷側が負けた結果、後鳥羽上皇側についた貴族や武士が領主となっていた荘園が没収されています。

承久の乱についてはこちらからどうぞ。

朝廷や貴族は近畿や西日本に多く荘園を持っており、没収した荘園には鎌倉幕府側の武士が新たに地頭として就任しました。これによって鎌倉幕府は全国的に支配権を拡大しています。ですがあくまで地頭とは荘園の管理者であり、ピンハネなどはあったでしょうが、領主となっていた貴族や天皇家にも少なからず納入されていました。

室町時代には守護大名が領主に成長

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政を経て室町幕府が成立した頃には、長い戦乱があったことで荘園の権利関係がゴチャついていました。また観応の擾乱といった全国的な戦乱もまだまだ続いたため、室町幕府は「守護」という地方行政官を国ごとに任命し、統治体制を整えようとしています。この「守護」は鎌倉時代の地頭同様に、治安維持や税を徴収して領主に渡す役割も持っていましたが、同時に幕府が下した判決の執行権も持っていました。強力な権限を持っていた守護達は次第に領主にとって替わり、段々と自身の領地として取り込み始めています。自身の領地を増やすことに成功した守護は、「守護大名」と呼ばれています。

→大名とは

太閤検地で荘園が消滅

戦国時代に差し掛かると、もはや荘園は本来の領主に何の利益ももたらさなくなっていました。本来の領主が税が納入されないことを訴えようにも、裁判を受け付けるはずの幕府や朝廷といった組織が弱体化しており、どんなに正当な訴えをしようとも判決を執行する機関が存在しないためです。中には自ら地方の荘園に出向き、そのまま戦国大名化した土佐一条氏のような例もありますが、荘園を持っていた天皇家や大半の貴族はそのまま泣き寝入りとなっています。

鎌倉時代から戦国時代に掛けて、段々と武士に権利が移っていった荘園でしたが、豊臣秀吉が「太閤検地」を行ったことで完全に消滅しています。太閤検地では土地の石高を計上するとともに全国的に権利関係を一新し、秀吉が家臣に与える形で各大名に振り分けられています。こうして奈良時代に始まった荘園という制度は、最終的には武士という新興階級に食い潰される形で消滅しています。

→石高とは

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