文化流入と遭難の歴史 | 奈良・平安時代の遣唐使

遣唐使船のイラスト 平安時代のまとめ・その他記事
遣唐使船

日本が目指した「唐」との国交

遣隋使から続く日本と唐のズレた意識

飛鳥時代に聖徳太子が派遣した遣隋使のコンセプトは「対等」でしたが、圧倒的な国力を持っていた中国王朝からすれば「対等」な国などありません。そのため「隋」は当然のごとく日本を冊封国、つまり従属国として扱い続けましたが、日本国内の記録では「隋と対等でした」とされています。

つまり両国の間には大きな意識のズレがあったのですが、それでも国交が続いていたというのはある意味で奇跡ではないでしょうか。この歪んだ関係は「隋」が滅んで「唐」が建国された後も継続され、日本はあくまで「対等」な外交を目指すことになります。

聖徳太子が隋との対等関係を目指した外交はこちらからどうぞ。

航海技術が未発達な時代の危険な旅路

「唐」が建国されたのは西暦618年、この年は聖徳太子が亡くなる4年前となりますが、最初の遣唐使は630年とやや時間を置いてから派遣されました。それ以降250年もの間に19回の遣唐使が派遣されることになりますが、当時の技術では航海そのものに大きなリスクがあり、無事に中国に辿り着く船は8割程度だったそうです。割と地獄の片道切符感のある道のりですが、さらに当時は羅針盤などなかったため、実は「西に進んで中国の何処かに辿り着けばOK」くらいの雑な渡航計画だったそうです。

そんな過酷な道を先人達が往復したからこそ日本に大陸文化が流入した訳で、我々現代人は彼らの勇気と行動力をもっと評価するべきなのかもしれませんね。遣唐使は20回も派遣されているためかなりざっくりではありますが、大きな出来事があったところをかいつまんでご紹介したいと思います。

羅針盤は11世紀の発明なので遣唐使の時代にはありません

歴代の遣唐使をかいつまんでご紹介

第1次遣唐使・犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)

記念すべき第一回目の遣唐使にはやはりしっかりした人物をということで、血縁的に皇族に近い犬上御田鍬という人物が派遣されました。この頃の日本はすでに遣隋使で中国王朝との付き合い方を把握していたためか、この遣唐使一行は入国から皇帝との面会までかなりスムーズだったようです。

とは言え出発から面会までに掛かった期間は約1年、この長過ぎる旅程にウンザリした犬上御田鍬は、唐の初代皇帝・太宗に「毎年は無理です」とハッキリと伝えました。そのため遣唐使は遣隋使のように頻繁に派遣されておらず、20年くらい間が空くこともザラだったりします。

ちなみにこの第一次遣唐使では第三次遣隋使で留学していたメンバーを回収したのですが、この帰国子女たちが大化の改新の原動力となり、飛鳥時代後期や奈良時代の「律令」制作に大きく貢献しています。

遭難を味わった第2次遣唐使

第一次遣唐使が帰国して実に21年後、そして乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿親子が倒れてから8年後にあたる、653年に第二次遣唐使が派遣されました。今回は外交使節だけでなく、留学生も含めた240人が渡海を希望し、2隻の船に振り分けてぎっしりと詰め込み出航しました。

ところが出航してから一ヶ月半後に第2船が遭難するというトラブルが発生、100人以上が海に沈んでしまいました。そんな悲惨な事故の中でも奇跡はあるもので、5人だけが破材に掴まって6日間漂流し、現代の鹿児島県から西の沖にある甑島列島(こしきしま)列島に漂着しました。するとこの5人は島内で竹を切り出し、イカダを作ってたくましく島を脱出、奇跡的に都への生還を果たしています。

甑島列島の写真
鹿児島県薩摩川内市の甑島列島

ちなみに遭難を免れた第1船は普通に唐の国に到着、何事もなかったように皇帝との謁見を果たしています。本来であればこちらの方が大事なことなのですが、遭難してしまった方にスポットライトが向いた第二次遣唐使でした。

中国史上唯一の女帝・則天武后に謁見した第8次遣唐使

自慢の大宝律令を持って出発

この702年に派遣された第8次遣唐使は、669年に派遣された第7次から実に30年もの間が空いています。今回は日本で出来上がった律令の自慢をしたいということで、わざわざ「大宝律令」を持参して海を渡りました。

この「大宝律令」は中国王朝の制度を模して作られているため、「日本という国がいかに唐に近づいているか」をアピールする意図だったものと思われます。そのため今回の責任者には「大宝律令」の編纂にも関与した粟田真人(あわたのまひと)が任命されており、しっかりと説明する気満々の布陣で意気揚々と出発しました。

則天武后の肖像
中国三大悪女にも数えられる則天武后の肖像

色々あって則天武后に謁見

ところが当時の皇帝には中国史上唯一の女帝・則天武后が即位しており、この人物によって国号が一時的に「唐」から「周」に変更されていました。つまり「唐」の国を目指し、ようやく辿り着いたら「周」になっていた訳ですが、そんな混乱にもめげずに遣唐使一行は首都・洛陽を目指し、結局普通に則天武后との謁見を済ませて帰国しています。

ちなみにこの時中国の官僚からアドバイスを得られたようで、後に造営される「平城京」の区画割りを学び、また日本初の貨幣「和同開珎」の鋳造にも繋がっています。

中国史で唯一の女帝・則天武后を含む中国三大悪女はこちらからどうぞ。

空海や最澄など大量の留学僧が同行した第18次遣唐使

平安時代に入ってから初めての遣唐使

奈良時代にはそこそこの頻度で遣唐使が送られ続けていますが、桓武天皇が即位したあたりから遣唐使がピタリと停止されています。これは長岡京や平安京の造営にお金を使いすぎてしまったため、「遣唐使なんか後回し!」くらいのノリだったものと思われます。

実際に第17次遣唐使から25年もの間を置いて第18次が派遣されていますが、この派遣があった804年は平安京遷都から10年後ということで、やっと資金的にも回復してきた時期なのでしょう。

桓武天皇の平安京遷都の場面はこちらからどうぞ。

災難に見舞われた最澄と空海

今回の遣唐使には大量の留学希望者が同行しており、「最澄」や「空海」といった日本史上の有名人も同乗していました。とは言えこの回の遣唐使はかなりの荒れ模様だったようで、4隻のうちの3隻目は座礁による大破で遭難、そして4隻目は行方不明というひどいトラブルに見舞われています。また最澄や空海が乗っていた船はなんとか中国本土に辿り着いていますが、連絡が行き届いていなかったのか現地の役人に海賊扱いされ、50日もの間待機させられるという悲惨な目に遭っています。

ところが空海はそんなトラブルにもめげずに密教の勉強に励み、20年の留学予定をわずか2年で満了するという天才ぶりを発揮、意気揚々と帰国の途に着きました。ですが20年の予定が2年で帰ってきたことで日本での事務手続きが間に合わず、今度は九州で待機させられるという切ないトラブルも発生しています。

空海さん絡みのことわざの解説はこちらからどうぞ。

第20次遣唐使は派遣されないまま停止

段々と薄れてきた遣唐使の意義

空海達が渡海した第18次遣唐使が帰国した後、「唐」の国は内部から徐々に崩壊しつつありました。もともと遣唐使は航海の危険が極めて高かったのですが、「唐」の国力が低下したことで治安が悪化、つまり無事に航海を終えたとしても現地で野党やらに襲われるリスクも出てきた訳です。そのため第19次の遣唐使は危険すぎるという理由でたびたび延期され、気付けば第18次から数えて34年もの時間が流れていました。

とは言えたまには行かなければマズイでしょ、ということで838年にようやく第19次遣唐使が派遣されています。そしてその次となる第20次の遣唐使に至っては、なんと56年もの歳月が過ぎた894年にようやく企画される始末でした。この時の遣唐大使に任命されたのは、日本三大怨霊やら学問の神様として現代でも有名な、当時権勢を誇っていた学者兼政治家の菅原道真です。

菅原道真のイラスト
受験の神様としても名高い菅原道真さん

菅原道真が唱えた遣唐使の廃止

「唐」の国は日本の飛鳥時代の頃、つまり7世紀の前半に建国されていますが、平安初期に当たる9世紀末にはすでに末期を迎えていました。そのため派遣される人員に及ぶ危険性も高く、そしてすでに滅びそうな唐との付き合いをする意味があるのか、という至極真っ当な意見が日本国内で取り沙汰され始めます。

この意見の発案者は菅原道真という平安時代の学者兼政治家でしたが、実はこの菅原道真は第20回の遣唐大使を務める予定になっていました。つまり大使が自ら廃止を提案した訳ですが、もしかしたら「そんな危険地帯に行きたくない」が本音だったのかもしれませんね。

結局廃止された遣唐使

なんだかんだで「唐」との付き合いはこの段階で250年以上も続いていたので、急に取りやめるという決断もかなり難しかったのではないでしょうか。とは言え当時権勢を誇った菅原道真の発案、しかも遣唐大使本人の意見ということで、結局遣唐使自体が廃止されることになりました。

これによって日本はしばらく中国との交流自体が失われたのですが、それと同時に文化面での交流もストップしてしまいました。ところが大陸からの文化流入が止まった分、ここからの日本は独自の文化「国風文化」を花開かせることになります。

菅原道真が失脚した昌泰の変や前後の情勢はこちらからどうぞ。

前の記事:聖徳太子が派遣した遣隋使についてはこちらからどうぞ。

欲しいと思ったらすぐ買える!楽天市場は24時間営業中

twitterフォローでさらっと日本史の新着記事をチェック!

コメント

タイトルとURLをコピーしました