2人の天子がいた聖徳太子の国書 | 飛鳥時代の日本外交・遣隋使

遣隋使として派遣された小野妹子 その他考察
遣隋使として派遣された小野妹子

手探りで「隋」との対等外交を目指した聖徳太子

日本は飛鳥時代以前から、歴代の中国王朝の冊封体制に従い、擬似的ではあれど従属的な関係を結んでいました。その従属関係は強大な軍事力を持つ中国王朝からの攻撃を避けるため、そして先進国からの文化・技術の流入のためにも欠かせないものでした。こういった目的で中国の冊封体制に入っていた国は日本だけではなく、朝鮮やら東南アジアの国々は自ら進んで従属関係を結んでいます。

冊封体制に関してのご説明はこちらからどうぞ。

推古天皇の摂政に就任し、飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子と結託した聖徳太子は、「隋(ずい)」という大国との外交を始めたことでも結構有名です。ですが外交儀礼すらよくわからないところからのスタートということで、聖徳太子といえども手探りで一歩ずつ進むことを強いられています。従属ではなく隋との平等な外交を目指した聖徳太子の勘違いと失敗の握り潰し、そして遣隋使・小野妹子の活躍と苦悩をぜひお楽しみください。

記録から抹消された第一回遣隋使

手探りで始まった隋との外交

推古天皇の摂政に就任した聖徳太子ですが、ひとまず中国との友好関係を築こうということで「遣隋使」が派遣されました。この記念すべき第一回目に派遣された使者の名は残っていないのですが、無事に「隋」に到着した使者は皇帝と面会し、日本の政治の在り方を説明しました。

天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる

この言葉を現代語に直すと「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前には政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」といった内容になるらしいのですが、はっきり言って全く訳がわかりません。ですがこれを聞いて訳がわからなかったのは隋皇帝も同じだったようで、「こんなんじゃダメそうだから改めたほうが良いよ」くらいで返したそうです。

隋の反応に聖徳太子が激おこ

ところがこの返事を聞いた聖徳太子は、隋皇帝から国辱を受けた、つまり国を侮辱されたと感じたようで、「日本書紀」にも第一回遣隋使の記録を残していません。要するに隋から食らったダメ出しをなかったことにするため、聖徳太子は使者を送った事実すら綺麗に消し去った訳ですね。

この時から聖徳太子はリベンジに燃えて国内制度の充実を図り、「冠位十二階」や「十七条憲法」を一気に制定しました。つまり日本初の憲法とされる「十七条憲法」は、言ってしまえば隋にバカにされないために作られたことになります。そして外交使節団を迎えるための建物まで建設し、「これならもうバカにされないだろう」という準備が整ったところで、「女性っぽい名前だけど実は男」で有名な小野妹子(おののいもこ)さんの派遣が決定されました。

聖徳太子の肖像イラスト
隋を見返そうとする聖徳太子さん

小野妹子さん危機一髪の第二回遣隋使

隋皇帝・煬帝がキレた「2人の天子」

「十七条憲法」という法律を制定し、そして外交使節の受け入れができる建物まで出来上がったことで、聖徳太子は「もうこれは隋と同じくらいすごいよね」と思い込みました。聖徳太子は実際に隋に渡ったことなどないため、目の前に出来上がった壮麗な建物、そして自身が制定した憲法の出来栄えに手応えを感じていたのでしょう。そんな聖徳太子は小野妹子という人物に国書、つまり国家間の外交文書を持たせ、遣隋使として隋皇帝・煬帝(ようだい)の元に派遣しました。聖徳太子からすればもうダメ出しどころではなく、むしろ「日本スゲーね」と言われることを意識していたものと思われます。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。

日本から送られた国書の書き出しは、上の一文から始まっていました。自信たっぷりの聖徳太子は「対等」を全面に押し出し、日本の天皇を「天子」に置き換えて表現しているのですが、残念ながら「天子」という言葉の扱いを完全に履き違えていることが大問題でした。

「天子」とは中華思想において天帝の子供を意味しており、歴代の中国王朝の「君主だけ」が名乗ることができる呼称です。つまり「天子」という呼称は広い中国でも唯一人しか名乗れない訳で、それなのに東方にある小国の君主が勝手に名乗ったことで隋皇帝・煬帝は大激怒しました。この「天子」の概念は儒教、つまり中華思想をある程度受け入れている国であれば割と常識的なことであり、しかも聖徳太子は「対等」感をプンプン匂わせてしまっているため、煬帝だけでなく隋の官僚たちとしても「なにこれ?」状態だったでしょう。よくわからない言葉を振り回すのは危険、という良い例ですね。

「天子」についてのご説明はこちらからどうぞ。

「対等」を拒否した隋からの国書

聖徳太子からの国書に唖然・騒然とした隋の朝廷でしたが、遣隋使の小野妹子は意外と処罰されることもなく、煬帝からの返書を持たされて帰国の途につきました。また返礼の使者・裴世清(はいせいせい)も小野妹子の帰国に同行しているため、とんでもない国書だった割に意外な程手厚い待遇だったと言えるでしょう。それでは裴世清が日本に届けた「隋からの国書」の内容を見てみましょう。

皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。

この国書の細かい内容まではわからないのですが、丁寧どころか日本を褒め称えていることが薄っすらとわかりますよね。第一回目の遣隋使では政治の在り方をコキ下ろされていましたが、この第二回の返書には非常にいいことばかりが書いてあるため、国内制度の改革に取り組んだ聖徳太子も納得の内容でしょう。ただし最後の一文に「朝献」という言葉がありますが、この言葉は冊封国に対して使いますので、この国書の内容は要するに「従属を許しますよ」です。つまり聖徳太子の多方面に渡る努力と希望とは裏腹に、隋は日本を「対等」だなんて全く思っていなかった訳です。

失われた随皇帝「煬帝」からの返書

裴世清が日本に届けた国書とは別に、小野妹子は隋皇帝・煬帝からの返書を受け取っていたそうです。ですがこの返書は朝鮮半島を南下している間、途中にあった「百済(くだら)」という国を通過中に賊に襲われ、返書だけが奪われてしまい紛失したとされています。とは言え賊に襲われて命が無事であることがまず奇跡的すぎることであり、なおかつ返書だけを奪い去って逃げる賊なんかそうそういませんよね?そんなマニアックな賊などまずいる訳もないため、現代では小野妹子が賊に襲われた事自体が捏造である、という説が主流となっています。

襲撃の捏造としても一応2通りの説があり、一つは返書の内容があまりにひどい内容だったため「小野妹子が自ら紛失した説」、もう一つは内容を見た聖徳太子が「小野妹子に紛失したことにさせた説」があります。前者であれば聖徳太子の逆鱗に触れることを怖れた小野妹子の仕業ということになりますが、後者であれば聖徳太子が国辱を握りつぶしたことになります。どちらも可能性としてはあり得ると思いますが、第一回遣隋使のやり口を見ると、聖徳太子の判断で握りつぶした可能性の方が高い気がします。

手紙の略奪が専門の盗賊、なんていませんよね

ちなみに小野妹子は返書を奪われたことを責められて流罪に処されますが、あっという間に復帰し第三回の遣隋使にも選抜されています。小野妹子はまたも遣隋使に選ばれたことに名誉を感じたのでしょうか、それとも「もう嫌だ」くらいに思っていたのでしょうか。筆者だったら皇帝に怒られた後にまた会いに行くのは絶対に嫌です。

留学生を多数派遣した第三回遣隋使

隋からの使者・裴世清を送るついでに、小野妹子は第三回の遣隋使としてまたも海を渡りました。第三回遣隋使はこれまでとは少し異なり、文化や技術の吸収を目的にしていたようで、仏教僧や学者、そして豪族達も留学生として一緒に隋へと渡っています。この留学生達は隋の滅亡と次の中国王朝・唐の建国を経験した後、日本へ戻り「大化の改新」に貢献することになります。

第三回以降も第四回・第五回と遣隋使は派遣され続けていますが、日本は擬似的に冊封体制に入っているため、言ってしまえば挨拶程度のやり取りしかありません。そのため第一回・第二回のような熱い出来事は起こっておらず、淡々と挨拶をして帰国、という流れが繰り返されています。

ですが聖徳太子が目指した「対等」の外交理念は朝廷内で引き継がれており、日本が従属したと思っている隋との意識のズレは残ったままだったりします。そのため日本を発つ遣隋使は「対等でやってきます!」と言って海を渡り、隋に着けば「従属させていただいております」的な態度を取り続けました。この歪んだ外交関係は隋が滅んだ後も続いており、中国で唐が建国されると遣唐使も同様の外交を続けています。

250年に渡って続いた遣唐使についてはこちらからどうぞ。

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