「武士道」という時代によって遷りゆく日本人の美意識と理想像

武士道の表紙写真 その他考察
サブタイトルがシンプルにカッコいい新渡戸稲造の「Bushido」

幕府統治の中で再発見された武士の美意識

江戸時代に入ると幕府の主導で上下関係を重視する儒教、中でもより秩序的な思想を持つ「朱子学」が広く普及しました。「上下秩序を守る=上である幕府には逆らわない」というシンプルな図式ではあるのですが、この考え方は反乱を予防するための考え方としてうってつけであり、実際に250年という世界的に見ても例のない平和な期間が続いています。

ですが上下関係を重視していった結果、盲目的に上司に従うという歪な忠誠心が世間的に礼賛されるようになっていきました。そんな中で「武士がこんな情けないことでいいのか!」という考え方の人もおり、そういった気骨ある人々によって作られた概念が「武士道」です。ただ単に上司の言うことを聞いていれば良いという風潮の中で、自分自身を磨き上げ、高めた能力をいついかなる時でも発揮できる心構えを持つ、これこそが武士のあるべき姿だろうという考え方ですね。

もちろんこの考え方は平和な時代ならではのものであり、武士達が日々争いを続けていた時代にはありえない発想です。「自己研鑽をサボる=敗死」、「戦の準備をしていない=やっぱり敗死」の時代においては当たり前すぎる心構えを、しっかり目にクローズアップしたのが「武士道」とも言えます。時代によって「武士のあるべき姿」は変化し続けており、武士達が躍動し始めた時代から生活や一般的な考え方をご紹介したいと思います。

禅宗の影響を強く受けて出来た武士の規範

源頼朝が鎌倉幕府を樹立すると、これまで貴族達の下に置かれていた武士という地位そのものが向上しました。ちょうどその頃中国から「禅宗」という仏教の一派が伝来していますが、この「禅宗」は武士の生活や考え方に大きな影響を及ぼしています。「禅宗」にも多くの宗派が存在していましたが、その根底には「自身の精神性を高めて悟りの境地に近づく」という教義があります。この自己研鑽を内包する教義が武芸を磨き続ける武士の心にグサッと刺さり、「弓馬の道」とも呼ばれる武士道の原型が出来上がりました。豪華な物を忌避する質実、戦場での勇ましさを表す武勇、接する相手に対する礼節など、「武士とはこうあるべき」という根本的な価値観・道徳観となっています。

武士が好んだ枯山水の庭も禅宗の影響を受けています

この頃の武士の上下関係と言えば、「御恩と奉公」と呼ばれる相互扶助に近いカタチとなっていました。御家人鎌倉殿や幕府に対して奉仕する「奉公」、そして奉公に応じて御家人に与えられる「御恩」という形式は、どちらが欠けても成り立たないドライな関係とも言えます。当然「御恩」いらないから「奉公」しませんという武士もいたのですが、こういった行動をとった武士は幕府によって「悪党」とされ、社会のハミ出し者的な扱いをされています。ですが悪党達を味方につけた後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞といった御家人をも味方に取り込み、ついには鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。

その後足利尊氏は元鎌倉御家人を味方につけて反旗を翻し、後醍醐天皇との戦いに勝利、室町幕府の樹立に漕ぎ着けています。ですが鎌倉幕府と後醍醐天皇、この2度の裏切りをぶちかました足利尊氏も多くの武士の支持を得ているため、状況によって主君を変えることは当時の武士の道徳観に収まっていたのでしょう。この武士独特の価値観は、戦乱だらけの戦国時代に入るとより露骨になっていきます。

戦国時代の武士は生き残ることが全て

室町幕府が応仁の乱・明応の政変を経て大幅に弱体化したことにより、幕府にお仕置きされる心配がなくなった各地の大名が自分勝手に領土戦争を開始、なし崩し的に戦国時代に突入しました。奇襲や騙し討ちが常套手段の時代には武士の道徳なんて廃れてしまうかと思いきや、質実・礼節・武勇といった鎌倉武士の精神はきっちりと受け継がれています。「清廉潔白」な武将は他の武士から信頼される存在だったようで、関ヶ原の戦いで惜しくも負けてしまった石田三成もその人柄で多くの味方を集めています。武勇という戦場での勝敗に直結する基準だけでなく、礼節や質実な人格も評価の対象となっていたものと思われます。

石田三成の西軍と徳川家康の東軍との戦い・関ヶ原の戦いについてはこちらからどうぞ。

とは言え人柄だけで過酷な戦国時代を生き抜ける訳もなく、戦場での勝利がなければ一族郎党まとめて滅亡するだけです。そのため歴史に名を残す高名な武将達は、一族や家臣に対して執拗なまでに勝利の重要性を説いています。

戦国時代中期の越前(福井県)朝倉家の宿老・朝倉宗滴は、「卑怯と呼ばれても畜生と言われようとも勝つことが全て」、という凄まじい言葉を家臣に残して亡くなっています。また幾度となく主君を変えた武将・藤堂高虎に至っては、「武士たるもの7度主君を替えなければ武士とは言えない」、という寝返りを全面肯定する家訓を残しています。つまり生き残ってこそ、勝ってこそ明日があるという考え方であり、逆に言えば負けた人間には何も残らないという切実な現実を表した言葉と言えるでしょう。そんなリアルすぎる戦国時代を抜けて戦争のない時代に入ると、様々な角度から武士道という概念が生まれます。

朝倉宗滴の記事はこちらからどうぞ。

儒教の影響を受けた山鹿素行の武士道

冒頭でも述べていますが、江戸幕府は儒教の朱子学を奨励し上下秩序の徹底化を図りましたが、上司に媚びへつらえることが全てという嫌な風潮が出来上がりました。そんな風潮に対抗するように出来上がった「武士道」ですが、実はこの武士道もかなり儒教の影響を受けており、戦国期までの武士の在り方とは大きく異なっています。

江戸時代初期の山鹿素行(やまがそこう)という学者は、儒教が重要視する倫理「仁義」や「忠孝」を軸にした武士道を提唱しました。また山鹿素行は「武士とは社会全体の責任を負うべき」という、自分勝手な行動を慎むべきという社会的な理論も打ち出しています。この考え方は幕府の方針と全くバッティングしないため、特に規制が掛かることもなく武士の規範として広く普及していますが、後に山鹿素行はなぜか朱子学批判をして幕府にお仕置きされたりもしています。

武士道とは死ぬことではありません

武士道とは死ぬことと見つけたり

武士道という言葉を聞くと、この有名なワンフレーズを思い出す人は多いのではないでしょうか。このフレーズは字面のままに受け取れば「武士道は死ぬこと」となるため、「武士は命を懸けて主君を守る」と解釈されてしまうのでしょう。ですがこの解釈は本来の意図とは大きく異なっており、実際は「武士は死ぬ気でなんでも取り組むもんです」という意味となります。

このフレーズは「葉隠(はがくれ)」という江戸時代中期の著作物に記載されていますが、この「葉隠」には山鹿素行らの儒教的武士道を批判的に捉えた記述が多く見られます。「忠」を中心に据えた考えを「都会モンのイキッた武士道」とバッサリ切り捨てており、年末特番でおなじみの赤穂事件についてもすぐに仇討ちしていないこと、そしてすぐに切腹しなかったことを強く批判しています。このように一口に武士道と言っても様々な考え方があり、誰しもが同じ解釈で受け取っていた訳ではなかったようです。ちなみにこの「葉隠」はあまりに過激すぎるということで、江戸時代には禁書の扱いを受けていました。ですがこの「葉隠」という書籍は、明治期に入ってから強烈なスポットライトを浴びることになります。

明治以降には軍国主義を支えるツールに

戊辰戦争を経て明治維新という大改革が起こると、江戸時代には特権階級だった武士という身分そのものが消滅しました。そのため武士道という言葉も一旦は下火になりますが、日本のナショナリズムが沸き起こる中で再びクローズアップされています。

前の見出しで簡単にご紹介した「葉隠」という書籍は、日露戦争が終わった後に再刊行されており、明治天皇に献上されるなど大きな注目を集めました。どちらかと言えば過激な内容だった「葉隠」は、日露戦争に勝利した日本のイケイケ感にジャストフィットしたようで、軍人だけでなく民間でも多くの読者から支持を受けました。

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感想(25件)

その後に起きた戦争で、無茶な行動によって戦死した軍人を「葉隠精神」として礼賛した結果、「葉隠」は愛国精神のシンボルとして扱われました。つまり「武士道とは死ぬことと見つけたり」のフレーズを、字面のまま解釈した行動をとったことになります。太平洋戦争でもやはりこのフレーズで特攻を煽ったこともあったらしく、戦後はGHQによってしばらく禁書に指定されました。

現代人にも根付く武士道の精神

日本の軍国主義化を加速するためのツールとなった武士道でしたが、全く別の角度から研究され紹介されてもいます。旧五千円札に顔を載せていた新渡戸稲造という人物は、欧米に対して日本を紹介するために、そのものズバリの「Bushido」というタイトルの英文書籍を刊行しています。日本人の道徳観が武士の精神に由来していることを分かりやすく説明しているこの書籍は、ジョン・F・ケネディを始めとして多くの海外読者の支持を受け、逆輸入で日本語訳版も発行されています。

旧五千円札の新渡戸稲造の肖像
色がアレですが下が新渡戸稲造の旧五千円札です

この新渡戸稲造の「武士道」では、武士だけでなく多くの日本人が自慢や傲慢を嫌うこと、そして忠義・仁義を重んじていることを説いています。また自分自身の妻を「愚妻」と表現するなど、いかに謙虚に相手を気遣う心に富んでいるかを説明しています。現代日本では謙虚という言葉が批判的に受け取られるケースがあったりしますが、それでも日本人の中にしっかりと根付いた共通認識ではないでしょうか。相手を敬う礼節、派手を嫌う質実、物事に当たって負けない心を持つ武勇。全てを最初から持っている人はなかなかいないのでしょうが、これらを身に着けるために自己研鑽する、これこそが各時代の武士達が追い求めた理想像なのでしょう。

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