敗北していった戦国大名たちの目的とは

武田信玄・毛利元就・上杉謙信 その他考察
左から武田信玄・毛利元就・上杉謙信

三英傑以外の大名達が目指したモノ

日本の戦国時代は、織田信長が土台を作り、豊臣秀吉が引き継いだ後に徳川家康が完成させるという、いわゆる三英傑リレーで幕を閉じています。その過程では数多くの大名達が踏み台にされている訳ですが、今回の記事ではこの「負けていった大名達がなぜ勝てなかったか、彼らは何を目的としていたか」を考察してみたいと思います。

資料や歴史的事実に基づいて考察を述べておりますが、この記事は筆者の主観多めなことを予めお断りさせていただきます。それではまず戦国時代当時の大名達が、「何を目指していたか」からざっくりご説明したいと思います。

野心ある戦国大名の目標は室町将軍を後見することです

将軍を後見して有利な立場をゲット

大名達が自分の思うように隣国を切り取り始めた戦国時代は、「応仁の乱」という8年も続いた全国規模の戦乱によって幕を開けています。この応仁の乱はそもそも8代将軍・足利義政の後継者を巡る戦いだったのですが、それぞれの陣営には強力な守護大名が味方していました。そして実際に戦って決着を着けたのはやはり守護大名達であり、極端なことを言えば継候補者はボーっと成り行きを見守っていただけです。つまりこの頃の室町将軍は守護大名の力によって決定され、将軍の後見人となった者こそが幕府で最も高い地位を得た訳です。

当時の感覚では「将軍=武士の中で一番偉い」は完全に定着していたため、どんな人物であれひとまず頭を下げておこうと思える絶対的な権威となっていました。そして将軍の後見人は「一番偉い将軍を支える偉いヤツ」になれる訳で、つまり野心ある守護大名は将軍を後見することで自分の立場を向上させようとしていたんですね。

誰もが目指した京都上洛

戦国大名の大部分はこの後見人というポジションを得たかっただけで、実は天下統一なんて全く考えていなかったものと思われます。今川義元や武田信玄といった有名大名も京都上洛作戦を行っていますが、なぜ皆して京都を目指したかと言えば、ただ単に京都が室町幕府の本拠だったからです。

京都を制圧して室町将軍を後見するポジションに付けば、大半の武士達は自分と脇にいる将軍にペコペコするという訳ですね。この流れは戦国時代を収束に導いた織田信長といえども例外ではなく、実際に全く同じルートを辿っています。

織田信長も目指した将軍奉戴

三好三兄弟によって暗殺された13代将軍・足利義輝の弟、足利義昭は当時美濃国を制圧したばかりの信長に後見を依頼しました。信長はこの依頼を好機と思ったのか快く受諾し、すぐさま京都へと上洛して三好三兄弟を撃破、京都を制圧し足利義昭を15代将軍に奉戴しました。

つまりここまでの信長は過去の権力者ルートから一切ハミ出しておらず、この立場を利用して近畿での外交や争いを有利に進めています。信長はこの有利な立場を得たいから足利義昭を後見しただけであり、戦国時代初期の細川政元三好長慶と同じことをしただけです。

織田信長の京都上洛戦はこちらからどうぞ。

織田信長が天下統一を目指し始めた時期

その後も織田信長は立場を利用して強権を発動し続けましたが、義昭にとって恩人であるはずの信長が口うるさい腹立つヤツに感じられたようで、徐々に反目し合うようになりました。すると義昭は反信長勢力に片っ端から手紙を出して煽り立て、信長包囲網を形成し信長をとことんまで追い詰めています。とは言えそこは戦国の風雲児、信長は丁寧に一つずつ包囲網を切り崩し、フタを開けてみれば織田家の勢力圏だけが拡大した状態で落ち着きました。

そんな中で甲斐の虎こと武田信玄が義昭の要請に応え、大軍を用意して京都上洛作戦を開始、織田家の同盟相手である徳川家康をコテンパンに打ち破りました。ですが武田信玄は途上の戦陣にて病死してしまい、結局のところ京都へ辿り着くことはありませんでした。

とは言えこの京都上洛作戦自体は足利義昭のために敢行されており、やはり「将軍の後見人」という立場を得るために戦っていた訳です。その後に足利義昭は織田信長によって追放されて室町幕府は滅亡していますが、信長はこの時初めて武力での天下統一を意識したのではないでしょうか。実際にこの直後から羽柴秀吉や明智光秀・柴田勝家など重臣による軍団が編成され、各方面への効率的な侵攻が始まっています。

それぞれの大名が持っていた目的とは

武田信玄の野望はあくまで「将軍の後見」

武田信玄のイラスト

先にお伝えした内容と結構重複してしまいますが、武田信玄という大名の目標はあくまで「将軍の後見人」だったようです。織田信長とて同じ考えを辿ってはいるものの、信長の場合は三十代中頃くらいにはすでに「将軍の後見人」の立場を得ていました。これに対して信玄の場合は50歳を過ぎたくらいでようやく上洛作戦を始めており、地理的な状況を考えても動き出しがあまりに遅すぎた感があります。

武田家は、平安時代末期にはすでに名の通った源氏の名門という位置付けであり、源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱にも先祖がガッツリ登場しています。そのためか武田信玄の考えはかなり保守的だったようで、古くからある仏教寺院や天皇家、そして室町幕府といった権威を絶対視していたものと思われます。

ということで、多分ではありますが、もし武田信玄が信長を破って京都へ辿り着いていたとしても、室町幕府を存続維持させて代わり映えしない日本になっていたのではないでしょうか。ですが武田信玄の晩年は鉄砲がそこそこ普及してきた時代ということで、結局のところ経済的に大きなアドバンテージを持つ織田信長には勝てなかったのでは、とも思います。

軍神・上杉謙信は正義の戦いが大好き

その強さはまさに戦国時代最強の一角

上杉謙信のイラスト

武田信玄と並んで戦国最強と謳われる上杉謙信ですが、戦績からするとこちらの方が圧倒的にバケモノです。70数戦を戦って明確な敗北はわずか2回しかなく、8回だか9回ある引き分けの大半は武田信玄との川中島の戦いということで、つまり武田家以外と戦えば90%以上の勝率があった訳です。そのあまりの強さは軍神と呼ばれるに相応しく、戦争での勝利が天下統一をもたらすとするならば、この上杉謙信ほど天下に近い人物はいなかったでしょう。

上杉謙信女性説についてはこちらからどうぞ。

軍神は名誉の戦いが大好き?

そんな圧倒的な戦力を持つ上杉謙信でしたが、不思議な程に領土拡張には消極的で、戦績のほとんどが他大名の援軍だったりします。謙信本人はそれで満足だったのかもしれませんが、その家臣達は自前で武器や食料を用意して戦争に臨んでいたため、言ってしまえば働き損でしかありません。功績を挙げた家臣には感状(頑張ったでしょう的な賞状です)を渡すことが多かったようなのですが、通算で17枚も感状をもらった悲惨な家臣すらいたりします。

そんな欲のなさすぎる、そして他人にも無欲を要求する上杉謙信ですので、天下統一なんて一度たりとも考えなかったのではないでしょうか。上杉謙信の「上杉」という姓は関東管領上杉氏から役職とともに引き継いだものですが、この「関東の平和を守る」という役目に名誉を感じていたようで、利益を生まない勝利がかなりあったものと思われます。その間に畿内を制圧した織田信長が北陸方面に伸び始めると、上杉謙信は織田家の宿老・柴田勝家に阻まれて京都へのルートを完全に封鎖されました。そもそも将軍の後見をするという野心があったかも不明ですが、上杉謙信本人は関東管領としての正義の戦いに夢中だったようです。

領土拡張を目標としなかった毛利元就

急成長の後に停滞を選択

毛利元就のイラスト
「三矢の訓」でお馴染みの毛利元就

成り上がり大名の代表格となる毛利元就ですが、1,566年に尼子氏を破って出雲国(島根県東部)を制圧しています。これによって毛利元就は8カ国も領有する大大名にノシ上がっていますが、同年の織田信長はと言えばようやく美濃国(岐阜県)を奪取したタイミングであり、この時点での織田家と比べれば毛利元就の方が遥かに勝っていました。ですが毛利元就は織田信長と比べて大きな国力を持っていたにも関わらず、それ以上の領土拡張はせずに一地方領主のままでいることを選んでいます。

このことは毛利元就が危篤の際に残した遺言にも表れています。毛利元就の危篤の際のエピソードとしては「三矢の訓」が有名ですが、実は「拡張を狙わずに現状維持しろ」といった遺言も残していました。すでに8カ国という膨大な国土を得ていたため、普通だったらこんな遺言は無視して拡張を目指しそうなものですが、偉大なる始祖の教えということで毛利輝元や小早川隆景、吉川元春は健気にこの遺言を守り通しました。

300年にも渡る停滞の後に大ブレイク

その結果毛利家は織田家が急激に膨張する中でも現状維持を続け、気付いてみれば同格以上になった織田家の攻撃を受け続けました。後に織田家を乗っ取った豊臣秀吉に臣従し一時的な安定は取り戻していますが、結局関ヶ原の戦いで敗戦し、周防国・長門国(合わせて山口県)の2カ国にまで減封されています。

毛利元就の遺言は子孫達に残した処世術だったのか、あるいは呪いだったのかは判断が難しいところではあります。ですが江戸時代末期の長州藩の躍進、そして戊辰戦争後のことまで考慮に入れるなら、変に拡張せずに生き残ったことが大きな意味を持つことになります。実はそこまで読み切っていた、なんてことはさすがにないでしょうが、戦国一の謀将ならやりかねない感もあったりします。

「三矢の訓」など毛利元就のエピソード集はこちらからどうぞ。

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