豪族の時代に終止符を打った大化の改新

中臣鎌足のイラスト 用語集

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乙巳の変で超大物豪族・蘇我氏が倒れて

4代に渡って強大な力を持ち続けた蘇我氏は、乙巳の変で蘇我入鹿が倒れたことで急激に勢いを失い歴史の表舞台から姿を消しました。とは言えこの直前まで蘇我氏は凄まじい輝きっぷりを見せており、蘇我馬子と蘇我氏の血を引く聖徳太子の政治改革、そして蘇我蝦夷と蘇我入鹿の専横と、一豪族でありながらも大きな存在感を見せつけています。また崇仏論争で蘇我氏と対立していた物部氏も普通に豪族ということで、飛鳥時代という時代は豪族がひたすら表舞台に立っており、天皇という本来頂点である存在はほとんど何もしていません。

蘇我蝦夷と蘇我入鹿が倒れた乙巳の変はこちらでどうぞ。

乙巳の変の首謀者である中大兄皇子は、蘇我氏によって蔑ろにされ続けた皇極天皇の子供という立場から、これまでの豪族主導による政治体制に疑念を持っていたのでしょう。という訳でこれからは天皇に権力、というかお金が集中するような制度を作ろうね、というのが「大化の改新」のものすごく大雑把な方向性です。この政治改革は1年やそこらで成し遂げられたものではなく、蘇我氏を粛清した乙巳の変を含め、中臣鎌足とともに長い時間を掛けて調整を加えながら進められています。

中大兄皇子の摂政就任と日本初の元号「大化」

蘇我氏という生意気な豪族に鉄槌を下した中大兄皇子は、蘇我系列に当たる聖徳太子の偉業までは否定せず、むしろリスペクトすら感じられる行動をとっています。聖徳太子は皇太子でありながら推古天皇の摂政として改革を推進しましたが、中大兄皇子もこれを真似してわざわざ叔父の孝徳天皇に皇位を譲り、自身は皇太子で摂政という立ち位置に収まりました。このことは「自分が天皇になりたいからやったんでしょ?」という疑惑を避けるためだった説もありますが、改革を目指した大先輩に少しでも近づこうとした所も大いにあると思われます。

中大兄皇子は乙巳の変が片付いた直後、これまで日本にはなかった「元号」を採用しました。この645年の「大化」から始まった元号は現代の「令和」まで連綿と続いていますが、今では「元号」があるのが当たり前なので、逆にそれまではなかったと言われてもピンときませんよね。ですがその「当たり前」が作られたタイミングがこの「大化」であり、この時に行われた大幅な「改革」、ということで後世では「大化の改新」という名称で呼ばれています。全然時代は違いますが、長く続いた江戸幕府が倒れて明治時代に入り、西欧の列強国に立ち向かうために国内改革をした、というのが明治維新です。維新だの改新だの使っている言葉は違いますが、改革という意味では全く同じだったりします。

ようこそ令和
日本の元号は「大化」から1400年の時を経て「令和」に

「唐」の律令制をモデルにした大化の改新

新政権の方針発表「改新の詔(みことのり)」

乙巳の変の翌年、中大兄皇子は新たな政治体制をまず大雑把に示すために「改新の詔」を発表しました。この唐の律令制を手本とした改革の主旨はわずか4ステップしかないので、ちょっとざっくり目にご紹介したいと思います。

  1. 全国の人や土地を全て公のものとする(公地公民制)
  2. 首都を定め、国・県・郡を整備する(国郡制度)
  3. 戸籍を作成し登録された公民に公地を貸す(班田収授法)
  4. 公民から税を徴収する(租庸調)

以上4ステップが新政権の方針として出されていますが、中大兄皇子にとって最も大切だったことは4番目の「税の徴収」でしょう。「改新の詔」をわかりやすく言えば、土地と人を国のものとして回収し、土地の区画割りをしっかりと定め、土地と人を戸籍で紐付けて逃さないようにすることで、「税の徴収」を出来る限りスムーズにしようということですよね。要するに「税の徴収」をするための改革ということなのですが、ぶっちゃけ一般民衆にとっては働いて税を収めることに変化はなく、この改革で最も割を食ったのはこれまでの支配階級たる豪族達だったりします。

「公地公民制」で豪族から土地と人を回収

中大兄皇子は蘇我氏を代表とする豪族達に振り回され続けた反省を活かし、豪族達から力の根源である経済力と人を取り上げることを考えました。この豪族の弱体化と「税の徴収」を両立させるため、日本中の土地と人を全て天皇のものにします、という「公地公民制」が制定されています。この法令は私的に土地や人を所有していた豪族にも当然のごとく適用されており、この制度によってこれまで朝廷で猛威を振るってきた「豪族」という存在が認められなくなったことになります。

この制度は新政権にあまりに都合が良すぎ、これまで土地と人の所有者として君臨してきた豪族達にとってスンナリと納得いくものではありません。もちろん豪族達は何の見返りもなく土地を明け渡した訳ではなく、それぞれの地位や所有していた土地の規模に合わせて冠位を与え、その位に応じて給料が支払われたようですが、それでもオーナー社長からちょっとした役職を持つサラリーマンになったくらいの落差でしょう。当然「こんな法令には従えないよ」という人々もいたため、実際には日本全国が一気に公地公民化された訳ではなく、近畿を中心に長い時間を掛けながらゆっくりと地方へと浸透していったようです。そしてこの法令が出来たことで段々と豪族が減少し、首都で天皇家に仕える「貴族」に入れ替わっていきました。

一般庶民もキッチリ管理・戸籍の作成と「班田収授法」

農民に貸し与えられる田地は「班田」といい、班田を受け取って収める、つまり「収授」するから「班田収授法」というシンプルなネーミングです。この「班田収授法」という新法は、当時の最先端国・唐の国で行われていた「均田制」を元にして制定されたとされています。

「均田制」とは国家が農民に対して田地を貸し付けて、収穫できた農作物の数割を税収として確保する制度です。本来であれば農民それぞれが持っている農地の面積と収穫高を調べた上で課税することになりますが、「均田制」では一家族に対して決まった面積の農地を一律で貸し与えるため、誰もが同じ量を納税することになりますよね。つまり誰が納税したかだけ把握できれば成り立つため、そうした流れで戸籍が作られた訳です。

稲穂のイラスト

日本もこの「均田制」をまるっとパクり、「班田収授」と名を変えて使い始めました。ところがこれまでの日本は豪族や皇族が土地にいた人をなんとなく使っていただけなので、戸籍の大元となる台帳など存在しません。つまりこのタイミングで急に戸籍を作り始めているため、実際に「班田収授」が実行されたのは早くても670年という、乙巳の変が済んでから実に25年後だったようです。

「租庸調」で色々と税を徴収します

「公地公民」で無理やり土地と人を豪族から取り上げ、そして「班田収授」で農地を一人ひとりに与えたことで、ようやく待ちに待った税の取り立てに辿り着きました。ガッツリと税を徴収して天皇家の財力を建て直したいからの改革であり、この「租庸調」こそが大化の改新の真骨頂とも言えるでしょう。「租庸調」は一文字ずつ税の内容が違うため、簡単なリストでご紹介したいと思います。

  • 租:田んぼの面積に対して課税され、収穫量の大体3%~10%程度
  • 庸:各地から首都に向かい作業に従事する労役義務です。首都に行きたくない場合には布や米・塩を余計に収めれば逃げられたようです。
  • 調:基本的には布を収める税ですが、紙や漆など指定された地域の特産品を収めてもOK

以上の3つが税として公民達に課せられていました。この中で「租」はそれぞれの国府、これは現代で言うところの県庁みたいなものですが、要するに手近な場所で納税できたようです。ところが「庸」は首都での労役、また「調」は鉄板で首都に出向いて納税しなければならないということで、近畿から遠いところに住んでいる人ほど負担が大きかったことになります。岐阜県あたりに住んでいた人ならまだしも、千葉県あたりに住んでいた人にとっては地獄すぎる税制なのですが、たびたび調整が加えられながらも平安時代初期まで日本の税は基本的にこれだったようです。

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前回記事:蘇我入鹿と蘇我蝦夷が倒れた乙巳の変はこちらからどうぞ。

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