蘇我蝦夷と蘇我入鹿の専横を食い止めろ! | 皇族復活の狼煙となった乙巳の変

蘇我入鹿のイラスト 飛鳥時代の人物録
乙巳の変で倒れた蘇我入鹿

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時代は聖徳太子・蘇我馬子の次の世代へ

蘇我馬子聖徳太子、推古天皇の三人による政治は良くも悪くも安定的で、盤石の体制で滞りなく改革が進められました。推古天皇は厩戸皇子こと聖徳太子を間に置き、ともすれば行き過ぎてしまう馬子の力を抑えつつ、その権力と行動力をうまく利用していたと言われています。もしその通りであったとすれば、蘇我氏の大繁栄は聖徳太子のバランス感覚ありきで成り立っていたことになりますが、今回の記事では聖徳太子や馬子が亡くなった後、そして最後に残った推古天皇が亡くなったところから話が始まります。

推古天皇は亡くなる前に自身の後継者を決めていなかったため、これまで幾度となく繰り返されてきたお馴染みの後継者争いが起こっています。蘇我馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷(えみし)は敏達天皇の孫に当たる田村皇子推し、これに対して蘇我馬子の弟・境部摩理勢(さかいべのまりせ)は聖徳太子の子供である山背大兄王(やましろおおえのおう)を推しました。境部摩理勢も蘇我氏一族なので協調すればいいのではと思ってしまいますが、やはり叔父と甥という関係にあっても自身がオラオラしたいという欲求は抑えられないのでしょうか。この時の境部摩理勢は他の豪族からの支持を受けられず、結局山背大兄皇子が諦めて辞退する形で田村皇子の後継が決定、舒明天皇として即位しています。

蘇我蝦夷のイラスト
強そうな「蝦夷」の名を持つ蘇我蝦夷

血縁に頼らない絶対的権力者・蘇我蝦夷

こうして蘇我蝦夷の意向通りに舒明天皇が即位していますが、この舒明天皇は純血の皇族であり蘇我氏の血を引いていません。これまで蘇我稲目や蘇我馬子は血縁を根拠として自身の発言権を増大してきましたが、その跡を引き継いだ蘇我蝦夷はもはや血縁に頼る必要すらなかった、もしくはそういった血縁主義からの脱却を目指したものと思われます。

この時即位した舒明天皇は13年在位した後に亡くなっていますが、その後継者として即位した女帝・皇極天皇も蘇我氏の血を持っていません。であるにも関わらず、蘇我蝦夷が大臣として最も高い地位を占め、そしてその子である蘇我入鹿が国政を担当するという体制がとられています。30年近く国政の中枢に居続けた父・蘇我馬子の跡を継いだ自負、そして何があってもヘマをこいたりしないという、圧倒的な自信があったからこその行動だったのではないでしょうか。ですが蘇我蝦夷はその強すぎる自信ゆえか時に行き過ぎてしまい、他の豪族や天皇家からの反感を買うような行動にも及んでいます。

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蘇我蝦夷のやりすぎエピソード

蘇我蝦夷は蘇我氏の祖先を祀るために廟を建設していますが、その際に「八佾(やつら)の舞」という特別な儀式を行ったとされています。この「八佾の舞」とは8人ずつ8列に並ぶ群舞の一種ではあるのですが、中国においては皇帝のみが開催できるという、言わば頂点に立った人間の特権だったりします。元々外交関係に強い蘇我蝦夷が「八佾の舞」の意味を知らなかった可能性は低いため、多分というかほぼ確実に確信犯だったものと思われます。自身を皇帝と同格に扱うという不遜な行動でもありますが、聖徳太子によって(かなり無理やりですが)皇帝と天皇は同格とされているため、蘇我蝦夷は自分を天皇と同格に扱うという臣下としてあるまじき行動をとったことにもなります。

花園天皇の陵の写真
こちらは鎌倉時代の花園天皇の「陵(みささぎ)」

また蘇我蝦夷は自らの墓と息子・蘇我入鹿の墓所を生前に作っていますが、この造営には聖徳太子の部民(べみん)を使役して作業させています。部民とはざっくり言うとそれぞれの氏族が持つ使役民なのですが、臣下の身でありながら皇族の部民を使うこと自体あり得ないことで、まして聖徳太子という偉人の部民に対して勝手に命令を出していた訳です。さらに蘇我蝦夷はこの時作った自分の墓所を「大陵(おおみささぎ)」、入鹿の墓の方を「小陵(こみささぎ)」と名付けていますが、「陵(みささぎ)」とは本来天皇の墓を意味する言葉です。それを一豪族の身でありながら自分の墓に付けたということは、「八佾の舞」と同様に蘇我蝦夷自身が天皇と同格、あるいはそれ以上の存在と自認していたためと思われます。

さすがにやりすぎて蘇我蝦夷への批判増大

蘇我蝦夷の天皇家への数々の冒涜は、皇族だけでなく他の豪族からも批判の対象となっていました。とは言え蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子に面と向かって批判できる訳もなく、誰もが蘇我一族の横暴な振る舞いを苦い気持ちで眺め続けていました。聖徳太子の娘である上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのひめみこ)という人物は、身近な人間に対してこんなボヤきを呟いたと言われています。

「蘇我氏は国政を思うままにしている上に無礼な行いが多い。天に二つの太陽は無いのと同様に、国に二人の王はいない。何故に人民を意のままに使役するのか」

こんなツイートが出る程に蘇我氏の横暴が続く中、前述の通り13年に渡って耐え忍んだ舒明天皇が亡くなりました。そして後継には蘇我蝦夷の強い意向によって舒明天皇の后が指名され、皇極天皇として即位しています。この時後継候補として、聖徳太子の長男でありながら男性で適齢かつ人望もある山背大兄王もいたにはいたのですが、蘇我蝦夷によって完全に無視され除外されていたりします。これは多分ではあるのですが、そんな凄いヤツを天皇にするよりも言いなりになる女の人を天皇にした方がヤンチャできる、といった判断だったのではないかと思います。

蘇我蝦夷は皇極天皇の治世に移り変わったタイミングで世代交代を図り、自身が持つ大臣の職掌を私的に息子・蘇我入鹿に譲り渡しました。ですが朝廷での職掌は天皇から任命されるのが当たり前のことであり、当然親子でホイホイやり取りできるものではありません。ですが蘇我蝦夷は最も高い位である紫冠(むらさきのこうぶり)を、勝手に儀式を執り行って自らの手で蘇我入鹿に譲り渡しました。これも蘇我蝦夷による天皇の真似事の一環なのでしょうが、こんなことがまかり通ってしまう程に蘇我氏の独走状態だったのでしょう。

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山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて自害

聖徳太子という偉人を父に持つ山背大兄王は、蘇我親子によって皇位から遠ざけられた経緯があったためか、蘇我氏との関係はかなり悪化していました。血筋だけでなく人望も高く、また蘇我氏に対して敵対心を持つ山背大兄王は、蘇我親子、特に次の世代を担うことになる蘇我入鹿にとって邪魔でしかありません。となれば速やかに排除に動き出すのがこれまでの蘇我氏でしたが、さすがに相手は人望のある皇族ということで、蘇我蝦夷はとりあえず放置の構えをとっていました。ところが蘇我入鹿は早めに排除しておきたいと考えたのか、独断で軍を引き連れて山背大兄王が住む斑鳩宮を攻撃、急な襲撃に一切対応ができなかった山背大兄王はここで敢え無く自害しています。

皇族を殺害するというとんでもない行為はこれまでも蘇我馬子がやっていたりしますが、この時は他の豪族と結託してのことであり、単独で起こした事件ではありません。元々飛鳥時代の朝廷は豪族の連合体のような形であるため、他の豪族と連携さえ取れていればどんな事件もウヤムヤに出来たという背景もありました。ですがこの山背大兄王を自害に追い込んだ事件は蘇我蝦夷すら関与しておらず、完全に蘇我入鹿の単独で引き起こしています。このことを聞いた蘇我蝦夷は、事件を引き起こした息子を呼びつけ罵倒の限りを尽くしました。

「入鹿よ、お前はなんと愚かで、ひどく乱暴な行いをしたのか!これでは、お前の命も危ういぞ!」

この蘇我蝦夷が息子に投げつけた言葉は、2年後に現実となって蘇我親子の身に降り注ぐことになります。これまでやってきた天皇の真似事も豪族達の反感を買うには十分でしたが、何の大義名分も持たないまま山背大兄王を攻め滅ぼしたことは、皇族や豪族達にある種の決意を促したのでしょう。蘇我親子によって蔑ろにされ続けた舒明天皇と皇極天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、崇仏論争で敗れた廃仏派の一族・中臣氏を代表する中臣鎌足、この2人による蘇我氏の粛清劇が始まります。

蘇我入鹿を暗殺せよ!乙巳の変

中臣鎌足と中大兄皇子は軍での戦闘では蘇我親子に敵わないと見たのか、最も手軽な暗殺という手段での粛清を図りました。場所は朝廷儀式が行われる大極殿、朝鮮からの使節団を迎える式典の真っ最中、中大兄皇子が刀で切りつけて蘇我入鹿を誅殺しました。そして中大兄皇子と中臣鎌足は予め用意していた軍で蘇我蝦夷の元へ向かいますが、到着した時はすでに蘇我蝦夷が自害した後でした。

蘇我入鹿の首塚
蘇我入鹿の首塚

この「乙巳の変」と呼ばれる事で蘇我蝦夷・入鹿親子が倒れた後、蘇我氏によって擁立された皇極天皇の弟が孝徳天皇として即位しました。中大兄皇子はここで摂政に就任し、中臣鎌足と共に「大化の改新」と呼ばれる政治改革に着手しています。本来であれば中大兄皇子自身がこのタイミングで天皇となってもおかしくなさそうなのですが、本人としては摂政として活躍した聖徳太子にあやかったようで、わざわざ摂政というポジションになりたいがために孝徳天皇に皇位を譲ったとされています。

一方の中臣鎌足はこの後もグングンと昇進を重ね、10年と経たずに最高の位を手にしています。そして中大兄皇子が天智天皇として即位すると、国家の重鎮として国内政治だけでなく外交にも参画、また軍事にも口を出すなどマルチな働きで貢献を続けました。そして中臣鎌足が病で危篤に陥ると、天智天皇はその働きに報いるために「大織冠」の位と「藤原」の姓を贈りました。この時から中臣鎌足改め藤原鎌足の子供達は「藤原姓」を名乗り、奈良時代・平安時代と大繁栄の時を迎えることになります。それはまるで藤原氏が蘇我氏に成り代わったかのごとく、天皇家との血縁関係を交えた長期戦略でじわじわとノシ上がっています。

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