吾妻鏡の考察・前書き
今回の記事は鎌倉時代の中期までを記した歴史書、「吾妻鏡(あづまかがみ)」についての考察を述べさせていただいています。そのため、世間一般の解釈と若干異なっている場合もありますので、「こういった見方もできるよね」くらいで受け取っていただけると幸いです。考察ではなく「吾妻鏡」の紹介記事はこちらからどうぞ。
吾妻鏡が編纂された「目的」
権力者が残した記録こそが「歴史」です
日本史を知るための資料として様々な歴史書がありますが、そこに書いてあること全てが事実だった訳ではありません。これを断言してしまうと、現代における日本史そのものを疑うことになりはしますが、得てして権力者による記録なんてそんなものでしょう。
誰だって自分に都合の悪いことはできる限り抹消、そして功績は盛りに盛るのが当然というもので、むしろありのままの記録を残した人の方がマイナーでしょう。どんな悪事だって記録に残さなければなかったことになる訳で、極論を言えば「良い記録が残っている人が良い人」なだけですよね。
北条氏が持つ血まみれの歴史
中世の日本はまだまだ識字率も低く、記録文書の数自体が多くありません。そんな中で治承・寿永の乱から鎌倉幕府の成立段階、そして鎌倉中期までが記載された歴史書「吾妻鏡」は、現代においても貴重な資料として扱われています。とは言え、この歴史書は幕府というか執権北条氏の管理下で編纂が進んだため、ぶっちゃけ全ての記述が北条氏寄りです。
2代執権に北条義時が就任して以降、鎌倉幕府はほとんど北条氏中心で運営されてきました。三浦氏を始めとする他の抵抗勢力も一応いたにはいたのですが、なんやかやと理由を付けられて排除されており、鎌倉中期頃には北条氏の独裁と言える体制が整っています。つまり北条氏の権力は他の有力御家人を排除して成り立った訳で、普通だったらその血生臭い経緯を知れば知るほど北条氏への反感を持ちますよね。
三浦義澄から続く名門・三浦氏が滅んだ宝治合戦についてはこちらからどうぞ。
北条氏の独裁を肯定するためのツール「吾妻鏡」
反感を持つ人が増えれば増えるほど反乱のリスクも高まることになりますが、北条氏だってそんなことは百も承知です。そこでそんな不満を持つ人が増えないよう、そして北条氏という支配者にクリーンなイメージを持たせるため、「北条氏にとって都合のいい歴史書」の編纂が始まりました。「吾妻鏡」はそんな背景の中で作られているため、北条氏の罪はかなりボンヤリと、また功績については必要以上に大袈裟に取り上げられています。
もちろん歴史書である以上は事実も記載されていますが、やはり善悪の観点では必ず北条氏が善とされる点がミソでしょう。「あいつを滅ぼしたのは仕方のないことだった」、「あの事件でも北条氏は一生懸命頑張った」、といった書き方をすることで北条氏の好感度上げを図ったのではないでしょうか。実際に起きたことを知らない世代がこの「吾妻鏡」を読んだとすれば、皆が一様に「北条さんはナイスボス!」とか思ってしまう訳で、この辺は権力者ならではのイメージ操作というやつでしょうか。
「吾妻鏡」成立の背景とその後
元寇の余波で苦しむ御家人たち
「吾妻鏡」は1,300年頃に成立したとされていますが、この年代はモンゴル帝国の日本襲来、いわゆる「元寇」が終わってから大体20年後の時期に当たります。日本軍は1272年の文永の役、そして1281年の弘安の役の2回を凌ぎきりはしたものの、その後も多くの武士が防備のために居残らされました。この北九州で防備に当たる役目は「異国警固番(いこくけいごばん)」と呼ばれますが、ここで大事なことは費用については武士達の自前だったことでしょう。
もちろん「異国警固番」たちだって日本を守りたいと思ってはいたでしょうが、無尽蔵にお金がある訳もなく、自分や家族の生活を守る必要がある訳です。鎌倉幕府もその辺の事情は重々承知していたようで、借金を帳消しにする「徳政令」をたびたび発布して救済を図りました。ですが「徳政令」では借金が帳消しになるものの、収入が増える訳でもなく出費は相変わらずということで、御家人たちの経済状況は悪化の一途を辿ることになります。
元寇についてはこちらからどうぞ。
困窮する御家人達の不満を逸らすためか
実は元寇後も「異国警固番役」は延々と続いており、鎌倉幕府が滅んだ後、そして室町幕府が成立して以降もしばらく継続されています。日本はそれ程までに外敵からの侵攻に対して準備をしていた訳ですが、武士達にとっては大した報酬もなしに付き合い続けるのも限界がありますよね。実際は当番制で回しながらやっていたようですが、実のところ関東から「異国警固番」に就いた者も多く、移動と現地での生活を考えればかなりの費用が必要だった訳です。
毎日の生活が苦しくなれば誰だって不満を持ちますし、またその不満の矛先を向ける相手を探したくなってしまいますよね。そんな時にまず槍玉に上げられるのは大体「偉い人」な訳で、当時としては幕府を独裁的に仕切っている執権北条氏がそれに当たります。また、「異国警固番」だけでなくこの頃は天災も多く、そういった社会不安と不満の矛先を逸らすために「吾妻鏡」がリリースされた可能性もかなり高いものと思われます。
「吾妻鏡」が成立して以降の鎌倉幕府
この「吾妻鏡」が成立したのは先程もお伝えした通り1300年頃ですが、鎌倉幕府が滅亡した年号は1333年とされています。つまり北条氏の正当性をアピるための歴史書ができてから約30年後に滅びている訳で、その効果の程はちょっと怪しいものがありますよね。
鎌倉幕府滅亡の立役者と言えば後醍醐天皇や足利尊氏ですが、実際に鎌倉に攻め込み直接的に滅亡させたのは新田義貞という御家人です。この新田義貞は上野国(栃木県)辺りで倒幕の兵を挙げていますが、実は挙兵時にはわずか150人程の兵しかいなかったとか。ところが新田義貞が倒幕の味方を募りながら鎌倉へ向かうと、到着した頃には25万もの大軍に膨れ上がっていたそうです。
この25万という数字(太平記という後世の軍記物では60万!)は、当時の関東の人口を考えるとかなり怪しくはあるのですが、それでも幕府軍を容易に打ち破れる程の軍力だったことは間違いないでしょう。つまり当時の風潮として鎌倉幕府、及び北条氏への反感が限界に達していたという訳で、「吾妻鏡」の効果の程はなかなか微妙な感じがしてしまいます。とは言え元寇から始まった大変な国難続きのご時世だったため、むしろ30年の「延命」に成功していた可能性も大いにありますけどね。
鎌倉幕府滅亡の場面はこちらからどうぞ。
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