梶原景時の変から3日後に亡くなった宿老・三浦義澄

三浦義澄の肖像 鎌倉時代の人物録
三浦義澄の肖像

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海上で源頼朝と奇跡の合流

相模国の三浦半島に移り住んだ坂東八平氏の一人・平良文の子孫は、土地の名を姓とし三浦氏を名乗りました。三浦義澄の曽祖父に当たる三浦為通は、前九年の役の活躍で源頼義から領地を与えられるなど、源氏の棟梁家と親密な間柄を持っていました。そのため三浦義澄は平治の乱でも源氏に味方して戦っており、流罪に処された源頼朝が挙兵した際も、甥の和田義盛も引き連れて一族総出で救援に向かっています。

立石海岸の写真
神奈川県横須賀市の立石海岸

義澄一行が頼朝と合流するために西へ向かうと、あいにくの大雨で相模国に横たわる酒匂川が大氾濫を起こしていました。いつまで経っても川の流れが収まらなかったため、やむなく引き返したところで平氏方の畠山重忠軍と遭遇、この戦いに敗北し三浦半島に逃げ帰るという散々な結果に終わっています。さらに畠山重忠は三浦半島にまで追撃、ここでも敗北した義澄は船で逃れて海路で安房国への逃避行を始めました。その間に頼朝も石橋山の戦いで大敗北、少数のお供だけを連れて船で安房国への逃亡を図ると、同じ様に船で逃亡中の義澄一行と海上で出会うというミラクルな合流を果たしています。

平氏打倒に尽力

安房国での味方集めに成功した源頼朝は、富士川の戦いに勝利して関東地方から平氏方の勢力を締め出し、鎌倉に本拠を置いて独自の政権を作り始めました。三浦義澄もこの関東政権に宿老として参画、また甥の和田義盛も侍所別当に就任しており、新政権での三浦氏は有数の氏族として幅を利かせています。ちなみに三浦半島まで三浦一族を追い回した畠山重忠も頼朝の鎌倉入りに合わせて帰服し、御家人の仲間入りを果たしています。

政権内でのポスト決めが一段落すると、改めて平家打倒の軍が編成されました。義澄も嫡男の三浦義村や和田義盛とともに従軍し、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いにもキッチリ参戦、目立った功績はなくとも着実な働きで勝利に貢献しています。その後の奥州合戦でも従軍し功績を挙げるなど、幕府御家人の中でも重鎮としての地位を築き上げています。

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梶原景時の変から3日後に死去

源頼朝が1199年に突然の死を迎えると、2代目鎌倉殿の地位に長男の源頼家が就きました。頼家は父同様の独裁で幕府政治を取り仕切り始めますが、これに御家人達の不満が爆発、かなり無理やり独裁権を奪われ、御家人達の会議で政治方針が決定される「十三人の合議制」がスタートしています。この合議制は頼家をないがしろにする制度ではなく、政治方針を決定した後に最終的な決定権を鎌倉殿に委ねる形式だったのですが、当時18歳という若者の頼家はこれに不満タラタラだったようで、しばらく人前に出ないというプチ引きこもりで反抗してもいます。

2代目鎌倉殿・源頼家についての記事はこちらからどうぞ。

合議制が始まってから約半年ほど後、当時の侍所別当職にあった梶原景時の鎌倉追放を願う連判状が頼家に提出されました。この連判状に署名した御家人の数は66人にも及び、頼家から呼び出された梶原景時はこの連判状を見ると、何も言わずにその場を立ち去ったとされています。ちなみにこの連判状には侍所別当職を梶原景時に奪われた和田義盛、そして義澄の名もキッチリあるため、三浦氏派閥としても「梶原景時は敵」という共通認識があったのでしょう。その後梶原景時は所領のある相模国・一宮から一族を引き連れ京都への移住を図りますが、駿河国で襲撃に遭い命を落としました。この梶原景時の変と呼ばれる事件からわずか3日後、三浦義澄は病気のため74歳で亡くなっています。それから間もなく合議制メンバーの安達盛長も病死しており、一気に3人も失った合議制は機能不全に陥り、始まって1年も経たずに解体しています。

三浦義澄死後の三浦氏

梶原景時の変以降は北条時政・義時親子による他氏の蹴落としが始まり、源頼朝の乳兄弟である比企能員、また過去に三浦義澄を追い詰めた畠山重忠もその毒牙に掛かり命を落としています。そして初代執権に就いた北条時政は3代目鎌倉殿・源実朝の暗殺をも計画しますが、これを北条義時がブロックするという親子の対立の末、多くの政敵を手に掛けてきた北条時政も鎌倉から追放されるという結末を迎えています。

三浦義澄が亡くなった後は、嫡男の三浦義村がその所領と地位を引き継ぎました。三浦義村は北条義時と良好な関係を築いていたようで、イトコに当たる和田義盛と義時が戦った和田合戦でも義時側に付いて戦っています。この和田合戦での義村は結構タチが悪く、味方になると言って和田義盛の挙兵をそそのかしておきながら、直前で裏切り義時と一緒に攻撃しています。

和田義盛の記事はこちらからどうぞ。

その後に起きた承久の乱では、義村は後鳥羽上皇から倒幕軍への参加を求められていますが、むしろこの勧誘を北条義時に通報してもいます。その後の戦いでも義村は大将軍の一人として活躍、上皇軍の撃退と京都制圧に大きく貢献しています。こういった功績が認められた三浦泰村は大きく勢力を伸ばしており、宝治合戦が起こるまで三浦氏は北条氏に次ぐ2番手の地位を占めています。

三浦氏と北条氏の戦い・宝治合戦はこちらからどうぞ。

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