織田信長に追放されてしまった筆頭家老・佐久間信盛

佐久間信盛の画像 戦国時代の人物録
なんとなく弱そうに描かれた佐久間信盛

もともと織田家の重鎮・佐久間信盛

若き織田信長を支えた重臣

佐久間氏は鎌倉時代に端を発しており、その系譜を遡れば「鎌倉殿の13人」に含まれる鎌倉御家人和田義盛まで辿り着きます。和田一族は執権北条氏の他氏排斥運動に巻き込まれ和田合戦にてほぼ滅亡しましたが、生き残りがその後に起きた承久の乱で功績を挙げ、尾張国(愛知県北部域)の御器所(ごきそ)と呼ばれる地に領土を与えられました。そこに移り住んだ者たちは佐久間氏を名乗り、和田義盛の「盛」の1字とその地を継承し続けています。戦国時代における佐久間信盛という織田家の武将は、その尾張国御器所に300年も定住していた由緒正しい一族の子孫だったりします。

「十三人の合議制」に名を連ねた和田義盛についてはこちらからどうぞ。

佐久間信盛は若くして尾張国(愛知県北部域)の国主織田信秀に仕え始め、織田信長が元服する頃にはすでに重臣として扱われていました。佐久間信盛は信長よりも6歳年上ではありますが、織田家の跡取りである信長の重臣という時点で相当見込まれていた可能性が高く、次世代の織田家を担う人材として期待されていたのでしょう。そのためか織田信秀の死後に起きた後継者争いでも、柴田勝家など古参武将の多くは織田信行に味方していますが、佐久間信盛だけは一貫して信長を支え続けた事実があります。

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「退き佐久間」と呼ばれた戦上手

織田信長が弟・織田信行との内紛を制して織田家を掌握すると、元々重臣だった佐久間信盛は家臣団の筆頭格という立ち位置に収まりました。つまり当時の信盛は柴田勝家や丹羽長秀といった重臣よりも当然強い立場であり、この時期はまだまだ足軽部隊の小隊長をやっていた木下秀吉(後の羽柴秀吉)など口も利けない存在です。その後の信盛は桶狭間の戦いや京都上洛戦姉川の戦いなど主要な戦いにもキッチリ参戦しており、筆頭家老というポジションに相応しい活躍をしています。

木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間

このキャッチコピーは織田家を代表する家臣たちの特徴を表していたようで、当時の織田家では有名なフレーズだったようです。木綿のように派手さはなくとも有用な羽柴藤吉郎秀吉、お米のように欠かせない程便利な(※褒め言葉です)丹羽五郎左衛門長秀、あり得ない程の突破力を持つ柴田勝家、そして退き上手、つまり戦場で最も難しいとされる撤退戦が得意な佐久間信盛というラインナップになっております。こんなキャッチが出来てしまうくらいなので、佐久間信盛は家中でも相当良い評判を得ていたのでしょう。ところがある事件を境にして佐久間信盛の評価が大暴落、急転直下の追放劇が始まります。

長篠の戦いでの佐久間信盛の陣所跡
長篠の戦いでの佐久間信盛の陣所跡

佐久間信盛が織田家から追放されるまで

ついつい口答えをしてしまった佐久間信盛

武田信玄が病で倒れ信長包囲網が瓦解し始めると、織田信長は長年の仇敵・朝倉義景を打倒するべく大軍を越前国(福井県西部)に向けました。ここで起きた一乗谷城の戦いで織田軍は快勝を収めてはいるのですが、肝心要の朝倉義景は上手く逃げ切り近隣の寺院に潜伏してしまいました。普通だったら勝ったからまあいっかになりそうですが、そこはネチッこさで評判の織田信長、従軍した家臣達を一堂に集めて説教大会を開催しました。ここで柴田勝家や羽柴秀吉はクドクドとした長いお説教にひたすら耐え続けていたのですが、我慢の限界だったのか佐久間信盛は信長に対して一番やってはいけないことをしてしまいました。

さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷

この文を現代風に訳すとすれば、「そんなことを言っていますが、我々くらいに優秀な家臣団もそうそういないですよ」くらいでしょうか。そんな佐久間信盛の勇気ある、そして部下達を守る発言でしたが、これを許すような織田信長ではありません。むしろ信長は煽られたと感じたのでしょうか、真っ赤になってその場での信盛の処罰を叫びだしました。とは言え多くの家臣達が居並んでいた場だったため、一同で取りなしてなんとか処罰は免れましたが、この事件をキッカケに信盛の人生は転落の一途を辿ることになります。

でも佐久間信盛は変えられず。

織田信長から佐久間信盛に宛てた19カ条の折檻状

石山合戦に勝利した後に

やらかしてしまった佐久間信盛としてはしばらくヒヤヒヤの毎日だったでしょうが、数年の間は別段何事もなく織田信長と接していたようです。ですが長篠の戦いで武田勝頼を粉砕、そして石山合戦で本願寺顕如を降伏に追い込むと、余裕ができたためか織田信長のお仕置きタイムが始まります。

石山合戦が終わってしばらくした頃、織田信長は佐久間信盛に対して折檻状、つまりお叱りの手紙を送りつけました。この信長の怒りが詰まった折檻状は並のボリュームでは収まらなかったようで、なんと19条にも渡って延々と書かれています。内容としては一応信盛の怠慢を責めているものが多いですが、ここぞとばかりに一乗谷城の戦いの一件も含まれており、なんとなくではありますが言い掛かりに近い内容も結構含まれています。19もあるため非常にざっくりですが、リストにてこの折檻状の内容をご紹介したいと思います。

佐久間信盛が受け取った19カ条の折檻状の内容

  1. 佐久間信盛・信栄(信盛の長男)はこの5年間何も功績がない
  2. 石山本願寺に対して全然攻撃を仕掛けていない
  3. 明智光秀・羽柴秀吉・池田恒興はすごく頑張っているよ?
  4. 柴田勝家も加賀国(石川県南部)を攻略した
  5. 戦いで上手くいかないなら内応工作とかできるはずなのに5年間何もしていない(多分1の続き)
  6. 報告だけはいっちょ前だけど言い訳してるつもり?(1,5の続き)
  7. 佐久間信盛は家臣や与力(味方の軍勢)がたくさんいるのに使っていない(1,5,6の続き)
  8. 領地を与えたのに家臣を増やさずお金を蓄えてばっかだよね
  9. 山崎(京都北部の1地域)も与えたのに(8の続き)
  10. ていうか前々から領土をたくさん与えているのにやっぱ金貯めてばっかだよね(9の続き)
  11. 朝倉家との戦いで全然分かってなかったクセに口答えしてたよね、それで5年間何も功績がないってどういうこと?(ここが核心でしょうか、1,5,6,7の続き)
  12. ハッキリ言って欲深すぎ、性格悪い、しかも家臣を増やさない、だからダメ
  13. 与力ばっかり使って家臣はなるべく使わないってどういうこと?(与力とは立場的にはお手伝いさんなので、倒れても信盛の腹は痛まない訳です、要するにケチすぎるって言っています。)
  14. 佐久間信栄(信盛の長男)にまで家臣に遠慮させているのもおかしい
  15. そもそも30年間仕えている間に「佐久間信盛さんスゲー」って言われるような活躍していない
  16. そう言えば三方ヶ原の戦いでも全然戦ってなかったらしいよね
  17. もうこうなったら大物の敵を征伐するくらいしかなくない?
  18. それができないなら親子で頭を丸めて高野山で隠居しなさい、そもそも長いこと武功がないクセに口答えしたんだから。戦って倒れるか隠居か選べ。

これを突然送りつけられた人間の心情とはどのようなものか、想像など及びもつきません。そもそも武功がないことが前提で書かれてはいるのですが、しばしば出てくる「5年間」では羽柴秀吉の中国地方遠征の援軍、また城の建築なども行っているため、何もしていないどころか相当働いています。ですが信長はそんなことお構いなしに「武功なし!」と一方的に決めつけているため、多分ではありますが一乗谷城での一件を相当根に持っていたのではないかと思います。

折檻状なんて絶対にもらいたくないですが、19カ条もあったらもう受け取っただけで涙がこぼれてしまいそうですよね。佐久間信盛もそんな気持ちになったのか、折檻状を受け取るとすぐに撤収を始め、息子の佐久間信栄と共に全てを捨てて織田家を後にしました。

明智光秀に引き継がれた佐久間信盛の軍と意思

織田家を去った後の佐久間信盛・信栄親子は、折檻状にあった通りに頭を丸めて高野山へと向かいました。信盛は織田家の筆頭家老、そして近畿攻略軍の軍団長という地位を捨て去り、わずかなお供だけを連れて静かに暮らそうとしたようです。ですがそこは魔王信長、なぜか信盛が高野山に住むことすら許さなかったようで、佐久間親子はさらに追い立てられて山深い熊野へと旅立ちました。この時には僅かにいたお供もすでに1人だけとなり、信盛は熊野にて無念の思いを噛み締めながら静かに亡くなっています。

佐久間信盛が生前に指揮していた近畿攻略軍ですが、こちらは織田家の中ですでに盤石の地位を築いていた明智光秀に委ねられました。石山合戦で本願寺顕如が降伏してから約二年後に本能寺の変が起きていますが、本能寺の変で明智光秀が指揮して織田信長を攻め滅ぼした軍勢は、実は信盛が率いていた軍だったりします。もし明智光秀が信盛の軍だけでなく、その恨みの心まで引き継いでいたとしたら?信盛を慕う軍の隊長達が、明智光秀に信長の打倒を頼んだ、あるいは強要していたとしたら?日本史上最大の謎とも言える本能寺の変は、佐久間信盛の恨みが起こした可能性もなきにしもあらず、といったところでしょうか。

明智光秀が信長を倒すに至った理由の考察記事はこちらからどうぞ。

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