小柄だけど武田家最強!武田四天王・山県昌景

武田の赤備え 戦国時代の人物録

山県昌景の生涯

信濃侵攻戦で一番乗りの功績

今回の記事でご紹介する山県昌景ですが、この武将は後世において武田四天王にも数えられた程の猛将中の猛将です。父の代から武田家に仕えていたため、山県昌景は子供の頃から武田信玄の近習を務めていましたが、信濃侵攻戦が始まるや否やその本領を発揮しました。

まず伊那郡への侵攻にて初陣を済ませた山県昌景でしたが、続く城攻めでは攻め手の先頭を走って一番乗りを果たし、家中に名を轟かせています。すると武田信玄もその将来性を見据えたのか、すぐに侍大将に抜擢し部隊長クラスに昇進させました。

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兄の謀反で山県姓に改姓

山県昌景にはすでに猛将として名を馳せていた飯富虎昌(おぶとらまさ)という兄がいましたが、このお兄ちゃんは信濃侵攻戦が終わった頃に謀反を起こしてしまいました。まあこの事件に関して山県昌景は一切無関係だったのですが、「飯富」のままでは「あいつ謀反人の身内だろ?」とか世間様で言われてしまう訳です。

とまあ武田信玄には「それでは今後やりにくいなあ」くらいに思ったのか、それなら苗字を改めようということで、たまたま断絶していた山県家の名跡を継がせることとしました。ということで、ここでようやく「山県昌景」という名乗りを得て各地を転戦、駿河国(静岡県中東部)や北関東への侵攻戦でも華々しい活躍を遂げています。

武田信玄の西上作戦

三方ヶ原の戦いで徳川家康を追い詰めるも

西暦1572年、武田信玄は室町将軍・足利義昭を奉戴するため、京都上洛を目指して西上作戦を開始しました。もちろんこの遠征には山県昌景も同行しており、徳川家康との激突「三方ヶ原の戦い」でも大きな活躍を見せています。

この戦いは武田信玄の作戦が大いにハマり、あえなく徳川家康の大惨敗に終わっています。ここで山県昌景は大将首を取ろうと勇んで追撃しますが、徳川家康が逃げ込んだ浜松城には異質な空気が漂っていました。

夜の浜松城
ライトアップ中の夜の浜松城

徳川家康の空城の計にハマる

山県昌景が浜松城に到達するとなぜか城門はフルオープン、しかも出迎えるかのように煌々と篝火が焚かれていたそうです。敵を倒すために来たのに相手がウェルカム状態だった訳で、これにはさすがの山県昌景も躊躇せざるを得ませんでした。

この徳川家康の行動は後世において「空城の計」と呼ばれていますが、まあ要するに追い詰められたからハッタリで敵を追い返そうとしただけで、まあ普通に踏み込まれていたら完全にアウトだった訳です。しかしこの計略は見事にハマり、山県昌景は千載一遇のチャンスを失って武田信玄の元へと帰還しています。

山県昌景以外の徳川家康のピンチ集はこちらから。

西上作戦の中断と武田信玄の病没

空城の計によってなんとか命拾いした徳川家康でしたが、それでも武田家有利な戦況は全く変わりません。もはや打つ手がない徳川家康は浜松城に引き籠もるしかなく、その間に武田信玄は次々と城を攻略、着々と西へ西へと歩みを進めています。

しかし、三方ヶ原の戦いからわずか三ヶ月後、武田信玄の持病が急速に悪化し、武田軍は撤退を余儀なくされました。そしてそれから一ヶ月後、武田信玄は回復せずにそのまま病没し、西上作戦は未完のまま中断されています。

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武田勝頼の東美濃侵攻戦

武田信玄の没後は嫡男の武田勝頼が家督を相続しましたが、この新君主はやたらとやる気があったようで、跡を継ぐやいなや行動を開始しました。武田信玄の西上作戦は南からまったりと東海道を通ろうとしていましたが、今回は信濃国(長野県)から美濃国(岐阜県南部)を目指したようで、要するに山越えで直接織田信長を叩きにいった訳です。

迂回なんかしない強気さがうかがえます

この東美濃侵攻戦では織田信長が直々に防衛に現れたのですが、山県昌景は別働隊を率いて攻撃に参加、織田信長の部隊を蹴散らし追撃するという凄まじい働きぶりを見せています。ということでこの東美濃侵攻戦は大成功に終わりはしたのですが、次第に山県昌景ら古参武将と武田勝頼の間に溝が生まれ始めました。

古参の意見を軽んじる武田勝頼

武田勝頼という武将はかなり優秀な人物だったようで、総大将として初めて臨んだ東美濃侵攻戦の成果を見ても十分な能力があると言えます。しかし、その分口うるさい古参武将の意見をあまり採用しなかったようで、新世代の側近達の意見を多く採り入れていたようです。

そんな折に武田家の長篠城が徳川家に寝返り、さらに織田・徳川連合軍の大規模反攻の情報が入りました。ここで山県昌景ら古参武将は時期尚早ということで撤退案を出したのですが、武田勝頼や新世代武将達は全面対決の姿勢を示したため、結局戦う羽目になって長篠の戦いが始まります。

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長篠の戦いにて散る

この長篠の戦いは始まる前から大きな戦力差がついており、一番安く見ても織田軍が1.5倍多く、最も差がついている数字であれば織田軍が4倍強です。それに加えて鉄砲といった装備面でも織田・徳川連合軍の方が勝っており、まあそれだけ織田信長が本腰を入れてきたということなのでしょう。

そんな戦力差の中でも山県隊は武田軍の先頭を走り、味方を奮い立たせながら徳川軍への猛攻撃を仕掛けました。しかし、火力と数の暴力の前にはさすがに及ばず、激戦の中で壮絶な最後を遂げています。

長篠の戦いについてはこちらからどうぞ。

山県昌景の人物像と小ネタ

織田・徳川連合軍にとって一番の脅威

織田信長にとっての武田信玄はかつての同盟相手でありながら、その存在にビビり続けた因縁の相手でもあります。だからこそ織田信長は長篠の戦いに臨んで相当な気合を入れており、出陣しない留守番部隊からも鉄砲を徴収するなど、入念な準備を重ねていました。

その戦いが無事に終わり、討ち取った武田家武将がリストアップされましたが、その一番最初に山県昌景の名があったそうです。このことは武田軍中での評価だけでなく、織田家や徳川家でも山県昌景を最大の脅威としていた証左ではないかと思われます。

織田信長と武田信玄の同盟関係についてはこちらからどうぞ。

強さの象徴となった山県昌景の赤備え

赤い甲冑で身を包む「赤備え」部隊はチラホラいたようで、徳川家の井伊直政や大阪の陣で獅子奮迅の活躍をした真田幸村も使っていた記録があります。当時は「赤備え=メチャ強い」的なイメージがあったっぽいのですが、まあ目立つ分だけ狙われやすくなる訳で、実力が伴っていないとなかなかできない兵装だったようです。

シャアザクの写真
赤が強いのは当たり前(?)ですよね

しかし、なぜこんなに「赤備え」に強いイメージがあったかと言えば、最初に山県昌景が採用し、敵をバッタバッタと薙ぎ倒したためだったりします。つまり「赤備え=メチャ強い」のイメージは山県昌景が作り上げたものであり、後進の武将達はその武勇にあやかろうとしたという訳ですね。

でも身長は結構低め

そこまで強かったという山県昌景は「ゴリマッチョの大男かな」とか思ってしまいますが、全くもってそんなことはありません。身長は大体130~140センチくらいだったようで、現代と比べて平均身長が低い当時としてもかなり小柄な方です。

しかも体格的にもかなりの痩せ型だったようで、外見的にはどう見ても強そうに見えない武将だったとか。まあどこぞのサイヤ人も子供ながらに強かったりしましたので、人の強さは見かけとは関係ないということですね。

猿に導かれて温泉を発見

武田信玄の信濃侵攻が終わった翌年、山県昌景の部隊はさらに飛騨国(岐阜県北部)への侵攻を始めています。しかし、あまりに険しい山道に誰も彼もが疲れ果ててしまい、もはやヘトヘトで戦闘どころではなくなってしまいました。

そんな折に一匹のサルが現れて温泉場まで案内してくれたらしく、そのお陰で山県昌景は遠征を完遂できたとか。まあなんかちょっと眉唾な話ではありますが、実はこの温泉こそが現代の「平湯温泉」に発展したとのことです。しかも、山県昌景の子孫は山梨市で「山県館」という旅館を経営しているそうで、猛将なのにやたらと温泉に縁の深い山県昌景、というふんわりしたお話でした。

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