神の教えを日本に! フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル 戦国時代の人物録
フランシスコ・ザビエル

キリスト教を伝えた宣教師・ザビエル

日本の戦国時代も中期に差し掛かった1549年、一人のキリスト教宣教師が突然の来日を果たしました。その男の名はフランシスコ・ザビエル、彼こそがキリスト教を初めて日本に持ち込んだ人物です。

フランシスコ・ザビエル神父は一応インドや中国でも布教活動を行っていますが、その中でも日本での滞在期間がダントツに長く、九州から近畿まで広範囲に動き回りました。この記事ではそんな彼の生涯、特に日本での足跡を厚めにご紹介したいと思います。

また、彼は興味深いエピソードもふんだんに持っていたりしますので、そちらはまた別記事にてご紹介できればと思います。

ザビエル神父が来日するまで

インドにいた日本人・ヤジローとの出会い

フランシスコ・ザビエルという名はスペイン語ではありますが、彼は現代のスペイン・バスク地方にあったナバラ王国の出身であり、宰相の息子というかなり高い地位の人間として生まれています。とは言えザビエルが10歳程度だった1515年、この時ナバラ王国はスペインに併合されているため、ザビエルは幼くして祖国を失ってしまいました。

その後のザビエルは19歳にしてフランスのパリ大学に入学したのですが、ここで突然聖職者になることを決意し、7人の仲間で「イエズス会」を結成しました。そして布教のために当時ポルトガル領だったインドのゴアへ向かい、マラッカに出張したところでヤジローと名乗る変な奴との出会いを果たします。

日本での布教を決意したザビエル

このヤジローという人物は鹿児島出身の倭寇だったとも言われていますが、まあ現代でも全然よく分かっていません。とは言え、このヤジローという人間が存在したことは確かであり、またこの出会いがフランシスコ・ザビエルの行く末を決めたとも言えます。

ヤジローは故郷で殺人の罪を犯してしまったらしく、救いを求めてキリスト教での洗礼を受けたとされています。ザビエルはこのヤジローの人柄と知性を高く評価したようで、彼によって日本という国に興味を持ち、新天地での布教活動を決意しました。

日本におけるザビエルの活動

ひとまず鹿児島で布教

西暦1549年、フランシスコ・ザビエルは商船に便乗して薩摩半島の坊津(ぼうのつ)という港湾都市に辿り着きました。この時の坊津は島津貴久という武将の統治下にありましたが、急な外人さんの来訪も普通に受け入れられたようで、現代では祇園之洲町と呼ばれる地域ですぐに布教を始めています。

祇園之洲公園にあるザビエル像
祇園之洲公園にあるザビエル像
この画像はWikipediaからの転載です

この時ザビエル自身は日本語なんてサッパリだったでしょうが、ここでヤジローが通訳として大活躍、キリスト教を近隣の人々に説いて周りました。しかし、ここで異教の存在に仏教サイドが危機感を覚えて猛反対、結局島津貴久の執り成しもあって大問題にはなりませんでしたが、ここでザビエルは致し方なく鹿児島を後にすることになります。

衆道を巡って大内義隆に激怒される

その後のザビエル一行は肥前国(長崎県・佐賀県)の平戸で布教活動を行い、ここで多くの信者を獲得しています。そして今度は周防国(山口県東南部)に移動して布教を始めますが、ひょんなことから当時の領主・大内義隆と謁見することになりました。

長崎県平戸のザビエル記念聖堂の石像
長崎県平戸のザビエル記念聖堂にある石像

ところが話が進むうちに大内義隆は大激怒、取り付く島もなくフランシスコ・ザビエルらは追い出されてしまいました。このことは大内義隆の性癖である衆道(男同士のアレです)を巡って起きたらしいのですが、キリスト教では同性愛が禁じられているため、まあそれを言われて逆上しちゃった感じかと思われます。

今度は和泉国・堺で布教活動

またも居場所がなくなったザビエル一行でしたが、ここまでの経験から学びを得たのか、「とりあえず王様に許可を取ろう」という結論に至ったようです。という訳で今度は京都を目指して瀬戸内海を船で移動し、当時から交易都市として栄えていた和泉国・堺(大阪府南西部)に上陸しました。

ここまでフランシスコ・ザビエルはどこにいても浮いた存在でしたが、この堺では外人さんなんて大して珍しくもなかったらしく、ここでも多くの信者を獲得しています。とは言え、その中には商人が多数含まれていたため、交易が目的だったんじゃないか説もかなり濃厚ですが、まあ純粋に教義に心酔した人も多かったと信じたいですね。

堺市のザビエル記念公園にある時計台
大阪府堺市のザビエル記念公園にある時計台

京都で足利義輝との謁見を望むも

堺でプチ成功を収めたフランシスコ・ザビエルは、当初の目的通り「王様からの許可」を得るために京都上洛を果たしました。この王様というのは本来であれば天皇な気もしますが、この時のザビエルは室町将軍をチョイスしたようで、幕府に対して謁見できるよう要請しています。

ところがこの時ザビエル一行はロクに献上品も持たず、また長旅のせいかちょっとみすぼらしい服装をしていたため、将軍・足利義輝と謁見できずにまたも追い返されてしまいました。ということでザビエル一行は将軍と会えずに京都を後にし、西へ舞い戻ることになります。

その後に足利義輝が暗殺された永正の錯乱と、その後の両細川の乱はこちらから。

周防国に戻って大内義隆と和解

京都での布教が失敗に終わり、フランシスコ・ザビエル一行はトボトボと肥前国平戸へと戻りました。ですがザビエルは以前に失敗した周防国での布教を改めて決意、今度は服装をしっかり整え、しかもポルトガルから持ってきた品々を持参して大内義隆との謁見に臨んでいます。

以前はザビエルをキレ気味に追い返した大内義隆でしたが、今回は望遠鏡やらガラスの水差しといった献上品に大いに喜び、あっさりとキリスト教布教の許可を出しました。ここでもザビエルは精力的に布教し、大内氏の本拠・山口では500人ものキリスト教入信者がいたとされています。

ちなみにこの時「大道寺」という廃寺の使用許可までもらっているのですが、ザビエルはこのお寺を教会として使っていたようです。つまり日本初の教会は元お寺という、なかなかモヤっとする事実ではあります。

ザビエル記念公園の写真
大道寺は現存していませんが、その跡地とされる場所にザビエル記念公園ができています
この画像はWikipediaからの転載です

キリスト教に染まった大友宗麟

周防国で成功を収めたフランシスコ・ザビエルは、山口での布教を他の神父に託し、今度は豊後国(大分県)へと向かいました。当時の豊後国は大友義鎮(よししげ)が治めていましたが、彼はハナからキリスト教に強い関心を示したため、ここでは簡単に布教の許可がおりたようです。

ところが大友家ではこの異教であるキリスト教にアレルギーを示す家臣が多かったようで、そのため大友義鎮は「仏教も好きですよ」という態度を見せるため、「宗麟(そうりん)」という法名を名乗って不満を逸らそうとしました。しかしその後の大友宗麟はやっぱり洗礼を受けてしまい、仏教徒だかキリスト教徒だかよく分からないハイブリッドな大名となっています。

大友宗麟のイラスト
僧形で十字架を首から下げる謎の男・大友宗麟

さらなる布教のために中国へ行くも

これまでそこそこ布教が成功してはいるものの、ここでザビエルは根本的な一つの問題に気付いてしまいました。それは「仏教ってそもそも中国から輸入されたんだよね!」という、今更すぎる話ではあるのですが、まあ神道を除いた日本文化は中国に強い影響を受けているのも事実です。

ということで、ここでザビエルは「じゃあ中国で布教しよう」という結論に至り、一旦インドに戻ってから中国への上陸を果たしました。しかし、当時の中国王朝から入国自体を拒否されてしまい、待っているうちに体調を崩して亡くなっています。

聖人になったザビエル神父

カトリック教会では、高い徳を持った神父を聖人として扱うことがあるのですが、没後のフランシスコ・ザビエルはこの栄誉ある位を与えられています。まあインドやら東南アジア・日本、そして中国(未遂でしたが)にまでキリスト教という異教を広めたのは確かに偉業な気がします。

とまあ色々な苦労を重ねて聖人になったザビエル神父でしたが、その遺体を女性に噛みつかれるといった謎の事件も起きており、没後もなかなかエキサイティングな話が揃っています。その辺をまとめた「日本を愛した宣教師・ザビエル神父のエピソード」を次回の記事にしたいと思っておりますので、よかったらご覧になってください。

twitterフォローでさらっと日本史の新着記事をチェック!

コメント

タイトルとURLをコピーしました