戦国時代(室町幕府滅亡まで)のまとめ記事

織田信長の銅像 戦国時代のまとめ・その他記事
織田信長の銅像

細川政元のクーデター・明応の政変

応仁の乱がウヤムヤのまま終わった後、9代目の将軍には足利義尚が就任しました。ところが義尚はすぐに病死してしまい、後継として足利義稙(よしたね)が10代将軍に就任しますが、自らの覇権を望んだ管領・細川政元がクーデターを起こしました。この時足利義稙の元にはほとんど味方が集まらず、むしろ多くが政元の側に着く始末であっという間に決着しています。政元は自身の傀儡として11代将軍に足利義澄を就任させ、幕府の実権を自らの手でガッチリと握りました。

今度は細川政元の後継争い・両細川の乱

明応の政変というクーデターで室町幕府の頂点に上り詰めた細川政元でしたが、自身に子供がいなかったために後継候補として3人の養子をとっていました。政元が亡くなると養子三人は管領の座を巡って争い始め、細川家の家臣・三好氏を巻き込んだ戦いは泥沼化、20年もの時間を掛けてようやく細川晴元が勝利しています。

日蓮宗が暴れます・天文法華の乱

戦国時代の中期頃、日蓮宗は多くの信者を獲得し一大勢力と化していました。それに対抗して一向宗、つまり浄土真宗勢力が軍団を用意し攻撃しますが、当時の管領・細川晴元は日蓮宗と結託し浄土真宗の撃退に成功しています。勢いに乗る日蓮宗は次に比叡山延暦寺を本山とする天台宗に攻撃しますが、天台宗は浄土真宗や近隣の守護大名を巻き込んで逆襲、これによって日蓮宗は6年もの間京都での活動を禁止されています。

細川氏の家臣・三好長慶の台頭

長く続いた両細川の乱で細川晴元が幕府の覇権を握ると、細川家の家臣・三好家の家格が上がり幕政に関与し始めました。三好長慶は三好家の家督を10歳で継承、12歳にして外交の使者という重責を果たしており、15歳の頃には三好家の家長として細川晴元すら遠慮する人物に成長しています。そして長慶は細川晴元との戦いを制して京都を制圧、室町幕府を完全に我が物として近隣の大名達をも従えています。

織田信長の京都上洛

三好長慶が病死した後は三好義継が後を継いでいますが、同時に三好家家中の有力者「三好三人衆」も幕政に口出しし始めました。三好三人衆はまだ若い三好義継を政治の中枢から追放すると、13代将軍・足利義輝を暗殺し、14代に足利義栄を傀儡の将軍として据えています。その頃足利義輝の弟・足利義昭は美濃国(岐阜県)の織田信長の元を訪れ、京都への上洛と三好三人衆の追放を依頼しました。すると信長はこれを快諾し即座に進軍して一気呵成に三好三人衆を打ち破り、義昭は晴れて15代将軍に就任しています。

織田信長と浅井長政・朝倉義景が戦った姉川の戦い

足利義昭を将軍に仕立て上げて室町幕府を牛耳り始めた織田信長に対して、越前国(福井県)の守護大名・朝倉義景は明確な敵対姿勢をとり始めました。すると信長は朝倉家討伐のために越前金ケ崎に進軍しますが、同盟国であった浅井長政が突然朝倉家に付き、挟み撃ちにあって大惨敗を喫しています。命からがら美濃国に逃げ帰った信長は軍備を再編成し、近江国(滋賀県)北部の姉川まで進軍、ここで浅井・朝倉連合軍と激突し勝利を飾っています。

織田信長の周りは敵だらけ・信長包囲網

姉川の戦いに勝利した織田信長でしたが、気付けば信長包囲網と呼ばれる敵だらけの状況が出来上がっていました。この苦境に信長は浄土真宗に対しては外交で、比叡山延暦寺には焼き討ちという方法で始末をつけ、一つひとつ状況の打開を図っています。ですが比叡山を焼いたことで甲斐国(山梨県)の武田信玄が包囲網に参加、徳川家康は信玄の侵攻を食い止めようと立ち塞がりますが、三方ヶ原の戦いで大惨敗を喫しています。

足利義昭・織田信長に追放される

順調に京都上洛への道を進んでいた武田信玄でしたが、三方ヶ原の戦いの翌年に突然病死しました。このことを知らなかった足利義昭は、信玄が間近に迫っていると思い違いをしてしまい、織田信長を打倒するための兵を挙げました。ですがすでに武田軍は甲斐国に帰国しており、義昭を助ける者は誰一人としていませんでした。ここで信長は足利義昭を追放しはしますが、次の将軍を立てようとはしなかったため、240年近く続いた室町幕府はここで滅亡しています。

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