織田信長VS武田勝頼・長篠の戦い
武田信玄の病死によって辛くも凌ぎきった徳川家康でしたが、やられっぱなしではいられないということで反撃を開始、侵攻作戦と平行して内応工作も仕掛けました。この内応工作によって長篠城城主・奥平信昌が参入し、徳川家に所属し武田家への抗戦を始めました。ここで武田勝頼は裏切り者は許せないということで長篠城に攻撃、奥平信昌は凄まじい猛攻に耐えかねて徳川家康に援軍を要請しました。長篠城があとひと押しで落城するところで徳川・織田連合軍が到着、すると武田勝頼は設楽原に軍を展開して迎撃しますが、鉄砲など軍備の充実が著しかった織田・徳川連合軍が大勝利を収めています。
鉄甲船が決め手で決着・石山合戦
浄土真宗勢力の本拠地・石山本願寺は長く織田軍の攻撃を受け続けていましたが、毛利水軍の支援があったため落城する気配はなく、織田家にとって近畿圏内の脅威となり続けていました。織田信長は石山本願寺を攻略するために、まずは海上の有利を取ろうということで海戦を挑みますが、村上武吉を始めとする強力な毛利水軍に敗れてしまいます。そこで信長は織田家の水軍を再編成、水上の城塞たる「鉄甲船」を7隻建造しました。この「鉄甲船」を駆使して毛利水軍を撃ち破ると、海上からの支援が受けられなくなったため本願寺顕如はついに降伏し、10年も続いた石山合戦が終結しています。
織田信長の甲州征伐
石山本願寺が片付いたことで近畿の大半を制圧した織田信長は、長篠の戦いで弱体化した武田家の討伐に着手しました。度重なる徳川家康の侵攻によってすでに武田家は青息吐息でしたが、織田信長は7万を超える大軍を用意し侵攻を開始しました。徳川家康は南から、織田信長の長男・織田信忠は西から武田領への侵攻を始めると、武田家からは内応者が続出し、瞬く間に城が失われていきました。織田軍の猛威に耐えきれなくなった武田勝頼は甲斐国(山梨県)の天目山にて自害、ここで戦国時代に強大な勢力を誇った大名・武田家が滅亡しています。
戦国の風雲児こと織田信長死す・本能寺の変
甲州征伐で積年のライバル・武田勝頼を討伐したことで、織田信長に比肩する大名は中国地方の毛利家だけとなりました。その毛利家も羽柴秀吉の軍団に押され続けており、すでに織田信長にとって天下統一は時間の問題でしかありません。そこで織田信長は安土城を建造して天下人アピール、長年の同盟相手・徳川家康を招き、三日三晩に渡って盛大に歓待しています。もてなしを済ませた信長は羽柴秀吉の援軍に向かおうと、京都・本能寺に宿泊し軍備を整えていたところ、夜明け前に突如として明智光秀が襲来、この「本能寺の変」と呼ばれる事件で天下を目前に控えた織田信長が倒れています。
明智光秀が本能寺の変を起こした理由の考察はこちらからどうぞ。
羽柴秀吉の中国大返しと山崎の戦い
明智光秀は信長を討ったまでは良かったものの、彼になびく者は非常に少なく、味方集めに苦戦し孤立したままとなっていました。その間に織田信長の死を知った羽柴秀吉は、中国大返しと呼ばれる凄まじいスピードの移動を強行し、わずか9日間で備中国(岡山県西部)から京都に辿り着きました。明智光秀は十分な軍を用意できないままに羽柴秀吉の接近を知り、仕方なく京都の南に位置する山崎に布陣し迎撃しました。羽柴軍は強行軍の勢いのままに攻撃し撃破、明智光秀は逃亡中に落ち武者狩りに遭い、その命を落としています。
織田家の宿老達で先行きを相談・清州会議
本能寺の変で織田信長と織田信忠が亡くなったことで、織田家は新体制への移行を余儀なくされることとなりました。建前上の織田家の後継者、また後継者を補佐する織田家のリーダーを決めるべく、会議のために4人の宿老達が清州城に集結しました。明智光秀を討ち取った羽柴秀吉、織田家の筆頭家老・柴田勝家、そして丹羽長秀と池田恒興の4人による会議は紛糾し、また信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と三男・織田信孝による後継争いも同時に発生、結論が出ないまま刻々と時間だけが過ぎていきました。そんな中で羽柴秀吉は織田信忠の長男・三法師を担ぎ出して後継に推薦、そして自身の後見をゴリ押しし、織田家のリーダーシップをとり実権を握っています。
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