華奢な体に熱き武士の魂!千年の平和を願う軍師・竹中半兵衛

竹中半兵衛花押・千年鳳 戦国時代の人物録
竹中半兵衛の花押・千年鳳

「花押」に込められた竹中半兵衛の想い

戦国時代あたりの文書では「本人がちゃんと書いたものですよ」という証明のため、「花押(かおう)」と呼ばれるサインが用いられていました。現代日本で言うところのハンコのような用途で使用されていたのですが、人によってはこだわりのある独創的なデザインの花押もあったようです。あまりにこだわりすぎためか中には元の文字が全くわからない物すらあり、「絵かな?」なんて思える花押も結構あったりします。

智謀で後の天下人・羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛重治という軍師は、自身の花押として「千年鳳」と呼ばれるデザインを用いていました。この鳳は「鳳凰」という中国神話に登場する霊獣を表しており、吉兆を司ることから「千年の平和への願い」が込められていたとされています。ちなみに織田信長も同様に「麟(りん)」という文字の花押を使用しており、それは麒麟というやはり中国神話上の霊獣を表しています。信長の行いはどちらかと言えば「冷酷で残虐」、かたや半兵衛は「できる限り人を生かす」という両極端ではありますが、意外と信長と半兵衛は割と同じ視野で物事を見ていたのかもしれませんね。とりあえず前置きはこのくらいにしておいて、竹中半兵衛という人物について軽くご紹介したいと思います。

織田信長の花押「麟」
こちらが織田信長の花押「麟」

竹中半兵衛の生涯

放尿を食らった若かりし竹中半兵衛

竹中半兵衛のデビュー戦は「長良川の戦い」と呼ばれる、美濃のマムシこと斎藤道三とその子供・斎藤義龍の親子喧嘩で初陣を飾っています。この戦いは半兵衛の父・竹中重元が道三側に味方していたため半兵衛もそれに同行し、籠城戦で一度は斎藤義龍の軍を打ち破るという大功を挙げました。ですが善戦むなしく最後は斎藤道三が敗北、斎藤義龍が美濃の国主に収まると竹中家はこれに従い家臣となっています。

竹中重元が亡くなった後に半兵衛が家督を継いで間もなく斎藤義龍も病死してしまい、その跡目を斎藤龍興が継ぎました。ですがこの斎藤龍興(たつおき)は国政に関心を示さず、またその取り巻き達も後先考えない家臣ばかりだったようです。半兵衛の性格はいかにも武士といったタイプではあるのですが、体格的にはかなり小柄で細身だったらしく、遠目には女性に見られることもある程だったようです。そのためか斎藤龍興の取り巻きに侮られており、バカにされすぎた半兵衛が斎藤飛騨守という人物に放尿される事件もあったとか。この逸話が事実かどうかはわかりませんが、本当だったとすれば怒り程度では済まされない酷すぎる出来事ですよね。

主君・斎藤龍興への懲らしめと復讐

美濃(岐阜県)の新国主に斎藤龍興が就いた直後、隣国である尾張(愛知県北部)の織田信長からちょくちょく侵攻を受けるようになりました。ですが斎藤龍興はそれでも政務に関心を示さず、戦争のことはひとまず忘れて相変わらず酒と女に溺れ続けていました。竹中半兵衛はそんな状況でも前線でなんとか織田軍を撃退し続けていましたが、何の支援もないことに業を煮やしたのか、主君の目を覚めさせようと強硬手段に出ています。

半兵衛はある日の真っ昼間に堂々と、斎藤氏の本拠・稲葉山城に少数の軍を率いて現れ、突然襲撃するというとんでもないことをしでかしました。この襲撃に対してダレきっている家臣団は全く対応できなかったようで、あっという間に稲葉山城内を制圧し、わずか6名の死者を出しただけで主君・斎藤龍興を城から追放しています。ちなみに以前放尿を食らわされた斎藤飛騨守は斬られた6人に含まれており、半兵衛は主君の懲らしめついでに復讐を果たした訳ですね。

余程頭にきていたのか半兵衛はこの後半年に渡って斎藤家相手に防戦し、最後は放棄する形で稲葉山城を後にしました。ですがこの壮絶な斎藤龍興への懲らしめは結構効いたのかもしれませんが、実はこの間織田軍の侵攻が大幅に進んでしまい、斎藤家滅亡にちょっと手を貸した結果にもなっています。

羽柴秀吉の家臣になった竹中半兵衛

斎藤龍興が織田家の侵攻に耐えきれず敗退した後、路頭に迷った竹中半兵衛は北近江の浅井長政の元へと逃亡しています。浅井長政は半兵衛を気に入ったのか客分の武将扱いで迎え入れていますが、この時の禄高は3000貫(現代でいうと大体3億くらい)という高待遇でした。ですが半兵衛はそんな高待遇だったにも関わらずわずか一年で浅井家を去り、自身の故郷である岩手村で隠居生活を送っています。

半兵衛の帰郷を知った織田信長は、何度も織田軍を撃退し、また稲葉山城を奪い取った噂の男を家臣団に取り込もうと考え、羽柴秀吉を使者として向かわせました。この勧誘を半兵衛は丁重に断ったのですが、幾度となく笑顔でやって来る秀吉に徐々に心を動かされたのか、ついに家臣になることを承諾しています。ですが半兵衛にとって織田信長は元主君を追い出した人間であり、そんな人物に仕えることは半兵衛のモラルが許しませんでした。結局「信長の家臣は嫌だけどあなただったらいいですよ」ということで、半兵衛は秀吉の与力武将として仕え始めています。

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圧巻の読みで長篠の戦いの勝利に貢献

軍師として非常に名高い竹中半兵衛ではありますが、自身で采配を振るっての活躍は意外と記録が少なかったりします。ですが織田信長と武田勝頼が戦った「長篠の戦い」において、その能力を見せつけている場面がありますのでサクッとご紹介したいと思います。

この長篠の戦いでの羽柴秀吉は左翼に陣取っていたのですが、正面に現れた武田軍は羽柴軍のさらに左側に回り込む動きをとりました。この時の秀吉は、回り込まれてはならんということで迎撃に向かおうとしますが、これに対して半兵衛は武田軍の陽動、つまりフェイントだから動かないほうが良いという進言をしました。結局秀吉は自身の思った通りに迎撃に向かったのですが、回り込んだ武田軍は少数の陽動部隊でしかなく、羽柴軍の本隊がいた場所に数千もの武田軍がなだれ込んで来ました。

ですがこの時自身の読みに従った半兵衛はそこに留まり必死に防戦、その間に気付いた羽柴軍本隊が戻るまで凌ぎきり、なんとか撃退できたという流れになっています。わずかな敵の動きだけでそこまで読み切った洞察力も見事ですが、主君の判断に逆らってでも自分の読みを信じる半兵衛の自信と意地も相当なものですよね。結局この長篠の戦いは徳川軍の勇将・酒井忠次の背面攻撃もあったことで、武田軍を散々に打ち破った織田軍の勝利という結果に終わっています。

長篠の戦いについてはこちらからどうぞ。

投獄された黒田官兵衛の子供・松寿丸を救う

長篠の戦いで武田家を打ち破った織田信長は、次は中国地方の平定を考え、その軍団長に羽柴秀吉を抜擢しました。秀吉は信長からの期待に応えて順調に攻略を進めますが、そのタイミングで織田家の重臣・荒木村重が摂津国(大阪の北西部)有岡城で謀反を起こしてしまいます。この時半兵衛同様に秀吉の家臣となっていた黒田官兵衛は、「説得してみせます」ということで自信たっぷりで有岡城に乗り込みますが、むしろ荒木村重に捕らえられ地下牢に幽閉されてしまいます。

織田信長は説得に向かった官兵衛が有岡城から戻らなかったため、裏切ったものと勘違いし官兵衛の子供・松寿丸の処刑を命じました。ですが竹中半兵衛は官兵衛を信頼しており裏切っていないと判断、松寿丸の首の代わりに何処からともなく偽首を用意し、しれっと信長に送り届けました。この事件から半年後に荒木村重は織田家に降伏していますが、牢獄から解放された官兵衛は事の顛末を聞いて半兵衛に涙を流し感謝したとか。ちなみに半兵衛に命を救われた松寿丸こと黒田長政は、後に起きた関ヶ原の戦いで半兵衛の息子・竹中重門と共に戦い西軍の主力部隊を打ち破っています。

黒田官兵衛のエピソード集はこちらからどうぞ。

現代でも竹中半兵衛の法要が行われています

投獄されていた黒田官兵衛を救出した翌年、羽柴軍が播磨国(兵庫県南西部)の三木城を兵糧攻めにしている最中、竹中半兵衛は病に倒れてそのまま亡くなっています。この2年もの間続いた兵糧攻めは半兵衛の発案だったのですが、この攻め方は敵味方ともになるべく「死なせたくない」という精神から出ていたそうです。この考え方は半兵衛の死後も羽柴秀吉や官兵衛に引き継がれたようで、その後の「高松城の水攻め」も同様の発想から生まれた攻城だったようです。戦争という何をどうしても死人が出てしまう人の行いにおいても、「出来る限り人を生かす」という半兵衛の意志が受け継がれた結果なのでしょう。ちなみに半兵衛は自分が危篤に陥ってからも官兵衛親子を心配していたようで、病床にあっても2人に宛てて手紙を書いていたそうです。

兵庫県三木市にも半兵衛の墓所が残っているのですが、なぜか攻めた側の人間が丁重に扱われるという謎の現象が起きています。その墓には現代でも花が絶えることなく供えられ、現代でも竹中半兵衛の命日には近隣の人が集まって供養が行われているようです。その死からすでに440年もの時間が流れていますが、半兵衛が思い続けた「千年の平和」を想う気持ちは、未だに人々の心を揺さぶり続けているのかもしれませんね。

竹中半兵衛の肖像
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