フットワークが軽すぎる流浪の関白・近衛前久

近衛前久のイメージ画像 安土桃山時代の人物録
近衛前久

近衛前久の人物紹介

武士の時代に活躍した公家

戦国時代と言えば武士が日本中で暴れまわり、毎日そこかしこで延々とドンパチが起きていました。つまりこの時期の主役と言えば戦える男たちであり、天皇家や貴族なんかは日陰の存在と言っても過言ではありません。

しかし、そんな武士全盛の時代においてもその存在感を示し、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑達にも多大な影響を与えた貴族がいます。その人物の名は近衛前久(このえさきひさ)、平安時代の巨人・藤原道長の血を引くエリート中のエリートです。

日本史を動かした男たち、三英傑のまとめはこちらからどうぞ。

アクティブに動き回った近衛前久

近衛前久という人物は相当な変わり者だったようで、公家(上級貴族のことです)のくせに日本中あちこちに顔を出し、そこら中の大名と親交を持っていました。北は越後国(新潟県)から南は九州の最南端・鹿児島にまで行った記録も残っており、貴族なのにフットワークの軽さが尋常ではありません。

もちろん必要だったからそれだけの移動をこなしたのでしょうが、この近衛前久は大名同士を結びつけただけでなく、その土地その土地の文化を他所に伝えるという重要な役割を果たしました。コミュ力や「繋がる」が大きなテーマとされる現代において、ひょっとしたら見習うべき人物なのかもしれませんね。

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近衛前久の生涯

五摂家筆頭・近衛家の嫡男として生誕

そもそも近衛家は公家の中でも上位中の上位なお家柄で、五摂家と呼ばれる摂政・関白に就任できる限られた血族です。しかも五摂家の中でも近衛家は筆頭格扱いだったということで、近衛前久はそんなスペシャルな家の人間としてこの世に誕生した訳です。

ということで、元服後の近衛前久は当たり前のように出世しており、10代にして朝廷の上位職を総ナメし、そして20歳ちょっと手前で最上位の関白に就任しました。しかし、残念ながら近衛前久の生きた時期は強くてナンボの戦国時代、最上位の官職に就いていても武士との付き合いはマストです。

上杉謙信と意気投合

ある日の京都、朝廷やら将軍にやたらと丁寧に挨拶して回っていたゴツい武将がいました。このちょっと変な武将こそが長尾景虎、後に関東管領の上杉謙信として名乗りを上げる越後国(新潟県)の国主です。

この時近衛前久はコイツとちょっと語らってみようと考えたのか、探り探りで話をしてみました。すると、話していると心に響くものがあったようで、その日のうちに血で誓約書を書き上げ盟約を誓ったそうです。

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上杉謙信の元からすぐに退去

勢いでやってしまった血の誓約書から約一年後、関白という朝廷の最高職の地位にあったにも関わらず、近衛前久は上杉謙信を助けるために越後国へ向かいました。この頃の上杉謙信は関東地方の平定にやたらと熱を入れていたので、近衛前久もこれに付き合って関東へと向かっています。

この時の近衛前久は危険な前線の城に入るなどして色々と働いていましたが、上杉謙信は武田信玄や北条氏康といった大名達に苦戦しており、その戦いは泥沼と言うに相応しい状態となっていました。すると、そんなニッチもサッチもいかない状況に飽きてしまったのか、近衛前久はわずか2年で越後国を後にしています。

怒った上杉謙信のイラスト
これには上杉謙信も怒った模様

三好三兄弟の罪をモミ消す

勝手に越後国から出て京都に戻った近衛前久でしたが、しばらくすると室町将軍・足利義輝が暗殺される「永禄の変」が起きています。この事件の首謀者は三好三人衆だったのですがが、この兄弟はとんでもないことをしたにも関わらず、罪に問われることを恐れて近衛前久に泣きつきました。

永禄の変、そしてその後に起きた両細川の乱についてはこちらから。

すると近衛前久は関白の権限を利用して方々に根回しし、三好三人衆がやらかした罪のモミ消しに成功、さらに新たな将軍として足利義栄(よしひで)を擁立しています。しかし、この事件から三年後、京都に戦国の革命児・織田信長がやって来ました。

織田信長と近衛前久

足利義昭と織田信長との敵対

そもそも織田信長が京都上洛を目指した理由ですが、それは足利義輝の弟・足利義昭に「将軍になりたいです!」と頼まれたためです。まあ織田信長としても室町幕府に利用価値があると踏んだのでしょう、ペロッと三好三人衆を撃破して入京し、ここで無事に足利義昭が将軍に就任しました。

織田信長の京都上洛戦についてはこちらから。

しかし足利義昭としては、兄の仇・三好三人衆をやっつけたのはいいのですが、この悪党共の罪をモミ消した近衛前久を許せなかったようです。ということで、足利義昭は「あいつどっかやってくれ」と織田信長に頼み込み、そのまま近衛前久は京都から追放されてしまいました。

鷹狩で織田信長と意気投合

京都から追放された近衛前久はしばらくフラフラしていましたが、それから4年立った頃に今度は足利義昭が織田信長に追放されてしまいました。ちなみに、近衛前久はその4年の間に関白を解任されていますので、このタイミングでは無職となっております。

そもそも近衛前久は足利義昭に恨まれていただけで、織田信長との間に個人的な怨恨はなかったのでしょう。そのため帰京した近衛前久はまず織田信長と面会したのですが、たまたまお互いに趣味が鷹狩だったことが分かり、意気投合して織田陣営に参入することとなりました。

やはり持つべきは趣味ですね

織田信長の覇業を助ける

この当時の織田信長は周囲の大名ほとんどと敵対していましたが、中でも中国地方の覇者たる毛利輝元、そして浄土真宗信徒が立て籠もる石山本願寺が脅威となっていました。こんな状況化で近衛前久ができることはやはり交渉ということで、まずは毛利輝元に対抗するための下ごしらえに掛かります。

ここで近衛前久は対毛利包囲網を構築するために九州へと向かいましたが、この当時は島津家・大友家といった大物大名はお互いにバチバチであり、織田信長の意向を実現するどころではありません。という訳で、近衛前久は2年がかりで両家の関係を修復し、毛利輝元に南からプレッシャーを掛けることに成功しています。

石山合戦を終結させた近衛前久

毛利輝元を大人しくさせた後は浄土真宗への対策ということで、ここで織田信長は石山本願寺攻めに本腰を入れ始めました。しかし、この石山本願寺はお寺とは名ばかりの要塞であり、しかも海に面しているため毛利家から食料や弾薬の補給も容易です。

そこで織田信長は海上封鎖に乗り出し、鉄甲船という鉄砲玉が効かない船まで用意、これによって海からの補給路を断絶させることに成功しました。それでも石山本願寺は頑強な抵抗を続けていましたが、ここで近衛前久が降伏の使者として向かうと本願寺顕如はこれを承諾、この時10年もの間続いた石山合戦がようやく終結しています。

織田信長と浄土真宗の10年に渡る戦い、石山合戦についてはこちらからどうぞ。

本能寺の変でプチ巻き添え

たまたま利用された近衛前久の屋敷

その後も近衛前久は織田信長と行動を共にしており、甲州征伐が行われた際にも仲良く一緒に同行しています。しかし、この甲州征伐から約半年後にいきなり明智光秀が謀反、この本能寺の変で織田信長は急逝してしまいました。

本能寺の変では織田信長の嫡男・織田信忠も巻き添えを食っていますが、この変事での織田信忠は二条城での籠城戦の末に亡くなっており、それまでは頑強な抵抗を続けていました。しかし、二条城の隣にあった近衛前久の屋敷から砲撃が始まると、抵抗しきれずに自害したという経緯があります。

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冤罪に巻き込まれた近衛前久

本能寺の変を聞きつけた羽柴秀吉はすぐさま京都へ帰還し、山崎の戦いにて明智光秀は討ち取られてはいますが、ここで近衛前久には謀反に加担した容疑が掛けられてしまいました。つまり、「明智光秀が近衛前久の屋敷から砲撃した=グル?」みたいな感じでしたが、もちろん本人は無実であり、少なくとも記録上ではそう扱われています。

それでも近衛前久は京都に居残り続けるのに気が引けたのでしょうか、今度は徳川家康を頼ってトボトボと遠江国(静岡県西部)へと向かいました。とは言え、徳川家康も本能寺の変における近衛前久の無実は承知していたようで、しばらくすると徳川家康の執り成しによって無事に京都帰還を果たしています。

徳川家康のイラスト
今回は善人役で登場の徳川家康さん

羽柴秀吉の関白就任

上位の官職に就くには血筋が必要

近衛前久が京都に戻った頃、すでに天下の趨勢は羽柴秀吉に傾いており、この段階での残る敵は九州の島津家、そして関東の覇者・後北条氏くらいです。そんな無敵状態の羽柴秀吉は「幕府」の創設を望みましたが、幕府設立には「征夷大将軍」の位が必要条件となり、この役職は源氏の血筋を引いている者しか就任できない慣例があります。

ということで幕府は断念する方向となりましたが、次に羽柴秀吉は朝廷で最上位となる「関白」の位を望みました。しかし、この「関白」についても藤原道長の子孫たる「五摂家」しか就任できないのですが、ここで近衛前久が持つ血筋が大きな意味を持ち始めます。

羽柴秀吉を猶子にして豊臣姓を創設

近衛前久はその苗字が示す通り五摂家の人間であり、まあクビになっているとは言え以前に関白を務めてもいます。そこで羽柴秀吉はこの近衛前久の猶子(養子みたいなものです)になるという名案を思い付き、本人に「子供にしてよー」と依頼しました。

養子のイメージ写真

すると近衛前久は快く承諾し、百姓出身の羽柴秀吉も堂々と関白就任を果たしました。ちなみにこのタイミングで「豊臣姓」が創設されていますので、日本史に名高い「豊臣秀吉」という名乗りには近衛前久が関与していたという訳です。

関ヶ原の戦いを見届けて

近衛前久は豊臣秀吉の関白就任を助けて以降もアクティブで、草津に湯治に行ったり北陸を旅したりと、日本中をウロウロし続けていました。しかし、すでに天下は豊臣秀吉が完全に握り込んでおり、もはや近衛前久が政治的に関与できる余地はほとんどありません。

その後に起きた関ヶ原の戦いにおいても近衛前久はほとんど動いておらず、ただ静かに徳川家康の天下取りを見守り続けただけでした。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、この「三英傑」と積極的に関わりながら流浪を続けた近衛前久でしたが、その終幕だけは我が家で静かな最期を迎えています。

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