大江広元の忠実な部下・三善康信

算盤の写真 鎌倉時代

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下級貴族の出身者

三善康信という人物が所属する三善氏は、元はと言えば朝廷で書記官を世襲するしがない下級貴族の家柄です。三善氏は代々「算道」を家業としていた学者家系であり、当然ながら武士の世界とはまったく関係などありません。ですが唯一の武士世界との薄っすらとした接点は、康信の母親が鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の乳母の妹であることでした。

頼朝の乳母絡みで御家人化した人物は割と多く、康信同様に「鎌倉殿の13人」に名を連ねる比企能員も乳母の子供パターンです。ちなみに当時の慣習として乳母が何人もいるケースが多いため、比企能員と康信の血縁上の接点があるかは残念ながら不明です。

京都の様子を鎌倉にマメに連絡

平治の乱で源氏の棟梁・源義朝が敗れると、跡継ぎの源頼朝は斬首だけは免れて伊豆国への流刑に処されています。伊豆国へ辿り着いた頼朝は虎視眈々と再起を狙いますが、そのためには京都の情勢や平氏の動きを見極める必要がありました。そんな中で三善康信は月に3度も使者を送り、平氏の動きを頼朝に伝えるという諜報員のような役割を果たしています。

諜報員のイメージイラスト
※あくまで諜報員のイメージです

大江広元や中原親能といった康信と同じ下級貴族出身者が御家人になった後、康信は満を持して鎌倉へと向かい、鶴岡八幡宮の回廊にてついに頼朝との面会を果たしました。頼朝はこれまでの情報能力を評価して改めて勧誘し、康信はこれに快諾、以後は御家人となり武士としての人生を歩んでいます。

戦争には行かずに内務専門

いくら武士になったからと言っても、急に槍や弓の扱いが上手くなるわけでもありません。ましてや三善康信はどちらかと言えば学者寄りの貴族出身ということで、平氏討伐軍に編成されたりすることはなく、同じような前歴を持つ大江広元の下で事務仕事に携わっています。元貴族なのに普通に戦争に向かった中原親能という人物もいるにはいますが、彼はフットワークの軽さからしても例外中の例外です。

中原親能についての記事はこちらからどうぞ。

康信が鎌倉に到着してから数カ月後、源家の家政を取り仕切る「公文所」という部署ができています。この公文所の長官に大江広元が就任し、そしてその中の裁判事務を担当する「問注所」の長官に康信が就任しています。当時の東国武士の教養レベルはお世辞にも高いとは言い難い水準だったため、大江広元や康信といった事務に強い貴族あがりの人材は重宝されたのでしょう。

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十三人の合議制に名を連ねる

平家を打倒し幕府が成立してから十数年後に源頼朝が亡くなり、2代目鎌倉殿の地位をまだ20歳に満たない若者の源頼家が継承しています。ですが若者の頼家は武家の慣習を無視した独裁政治を行ったため、有力な御家人達が集まってこれを押し留め、「鎌倉殿の13人」による合議によって政務を執ることに決定しています。

三善康信もここで発足した十三人の合議制の一員となっていますが、残りの濃いめのメンツが揃った12人と比べれば薄味感が否めません。元々役職として大江広元の部下という立場もあり、あまり政治的な影響力を持っていなかった可能性すらあります。自身の意見を述べ合う合議とは言え、上司が同席していたらある程度同調せざるを得ないでしょうから。ですがそんな忖度の必要性を心配する間もなく、合議制はすぐに解体への道を辿ることになります。

忖度Tシャツのイラスト
大体の人が忖度しながら生きていますがこれは着れないですね

梶原景時の変から始まる十三人の合議制解体

初代将軍・源頼朝の代から側近として仕えた梶原景時という御家人は、2代目・源頼家の代になっても同様に強い政治力を持っていました。当然のごとく十三人の合議制にも参加しており、これまで同様かそれ以上に強い影響力を持ち続けています。ですがその姿が横暴に見えたのか、御家人達が梶原景時追放のために結託し、66人という膨大な人数の署名がある連判状を作り頼家に提出しました。この連判状を受け取った頼家は景時を呼び出し問いただしますが、梶原景時は沈黙したまま退席し、自身の領国へと戻っています。そして梶原景時が一族郎党を連れて京都へ向かおうとすると、待ち伏せの兵に取り囲まれ討ち死にしています。

梶原景時についてはこちらからどうぞ。

この「梶原景時の変」で頼家に提出された連判状には、三善康信の名前は記されていません。また大江広元や中原親能の二人の名もないため、元貴族の御家人達は蚊帳の外に置かれていたものと思われます。そしてこの事から3年後、今度は逆に連判状に名がある比企能員が、北条時政北条義時親子によって滅亡に追いやられる激しい内部抗争が繰り広げられています。そして安達盛長や三浦義澄といった13人のメンバーも次々と病死し、合議制という当時として画期的な制度はあっという間に解体しています。

承久の乱の直後に病死

三善康信が80歳の大台に乗った頃、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺される事件が起きています。この事件に最も過敏に反応したのは、鎌倉から遠く離れた京都の後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は日本の政治を鎌倉から取り戻すため、幕府討伐軍を編成し錦の御旗を掲げて出陣しました。

この後鳥羽上皇の朝廷軍に対して、多くの御家人達は鎌倉での防衛戦を主張しています。そんな中で大江広元だけは、むしろ攻勢に出て京都まで制圧するという大胆な作戦を提案しました。康信も80歳の身を引きずりながらこの会議に参加しており、大江広元の作戦を支持するというプチ貢献を果たしています。結局会議で決まった大江広元の作戦が成功して大勝利、鎌倉幕府は京都に六波羅探題という京都の監視機関を置き、これ以後は京都を始めとして西日本にも強い影響力を持つことになります。鎌倉に来てから大江広元にベッタリだった康信でしたが、最後の最後まで広元の意見を支持し、この「承久の乱」が終わるとすぐに役割を果たし終えたかのように息を引き取っています。

大江広元についてはこちらからどうぞ。

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