武士の世を形作った男・大江広元

大江広元の肖像 鎌倉時代の人物録
大江広元の肖像

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兄・中原親能の縁で源頼朝と合流

大江広元という人物は源頼朝の幕府創建に関わってはいますが、武士の家柄に生まれたわけではありません。戦国時代あたりになると家柄という考え方が若干緩めになっていますが、この平安時代から鎌倉時代へと移り変わった時期では、「氏族」こそが人の身分や職種を示すステータスです。そもそも広元は長く「中原姓」を名乗り続けており、「大江姓」に改めたのは承久の乱が起きる数年前、70歳を越えてから改姓しています。中原氏は本来中国の儒教や律令の研究をする家柄であるため武士の世界とは一切関係がなく、広元はどちらかと言えば下級貴族という家柄に生まれています。

そんな広元の兄にあたる中原親能(なかはらのちかよし)は、京都にいた頃の源頼朝と異様な程仲が良かったようで、平治の乱で源氏が敗北し頼朝が伊豆国に流刑に処され、後に平氏打倒の兵を挙げるとすぐに頼朝を追いかけて関東へと旅立っています。広元はその後も京都に残り続けたのですが、兄と頼朝の関係を知った平氏に尋問を受けそうになると、慌てて京都から逃げ出し鎌倉へと向かいました。そんなこんなで鎌倉に来てしまった広元は、親友の弟ということで頼朝に歓迎され、武士としてのキャリアをスタートさせることになります。

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国地頭の任命権取得を進言

鎌倉幕府の成立年については、過去には源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年とされていましたが、現代では源頼朝が全国の「国地頭」を任命する権限を得た、1185年の「文治の勅許」とされています。「地頭」という職務は現代で言うとこ町長や市長くらいになりますが、「国地頭」とは一国の徴税権や警察権・人事権を持つ職掌であり、イメージ的には県知事くらいになるのでしょうか。源頼朝が県知事を任命する権利を持った=もう源氏の天下ってことでいいですよね、というのが鎌倉幕府1185年説の決め手になっています。

この文治の勅許を実際に京都で得たのは北条時政ではありますが、実はこの「国地頭の任命権を得る」という着想は大江広元から出ています。源氏の前に平氏も武士政権らしきものを作ってはいますが、平清盛は朝廷の官位を独占する道を選んでおり、実際にやったことは平安中期の藤原氏とほとんど変わりません。その点で広元の発想は過去に例がなく斬新であり、そしてその後の武士政権の在り方を決定づけたとも言えるでしょう。広元は元々中原氏という学者の家で育っているため、中国の歴史から影響を受けていたからこそのアイデアだったのでしょうか。実際に鎌倉時代以降の室町幕府や江戸幕府も規模こそ違いますが、「任命権」を持つことで圧倒的な権力を手にし、日本の国で絶大な影響力を持ち続けています。

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北条親子のハラスをいなし続ける大江広元

源頼朝が亡くなり鎌倉殿の地位をまだ十代の源頼家が継承すると、サポートのために十三人の合議制が発足、大江広元も兄・中原親能と共に「鎌倉殿の13人」の一員となっています。この13人には北条時政北条義時親子も含まれており、他にも比企能員や梶原景時など当時有力だった御家人の名前が連なっています。ですが武士のサガというものなのでしょうか、この13人は熾烈な内輪揉めを繰り広げることになります。

源頼朝の頃からの側近・梶原景時が鎌倉から追放され亡くなると、2代目将軍・源頼家の舅となる比企能員も北条親子に謀殺されるという、大物御家人をターゲットにした事件が立て続けに起きています。そして源頼家が亡くなり3代将軍に源実朝が就任すると、後見役になった北条親子に誰も口出しできない状況が出来上がり、北条時政が初代執権として独断で幕府を切り盛りしていきます。

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並み居るライバルを蹴落とし続ける北条親子でしたが、大江広元はターゲットにされず、むしろ北条親子寄りの立場をとっていました。単純に仲が良かったなどの理由もあったのかもしれませんが、その後も和田氏や三浦氏が北条義時によって排斥されていくにも関わらず、広元だけは平然と大物御家人としての地位を保ち続けています。しかも他の御家人と揉めた形跡もないということで、人付き合いと立ち回りの上手さは相当なものだったと思われます。

北条義時のイラスト
他氏排斥に余念がない北条義時さん

承久の乱で大江広元の長男がまさかの寝返り

鎌倉幕府の3代将軍・源実朝が暗殺事件で倒れると、討伐のチャンスということで後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵しました。この「承久の乱」が勃発すると、大江広元は鎌倉で待ち構える防衛策ではなくむしろ京都へ攻め込む積極策を提案、北条義時はこの積極策を採用し見事に後鳥羽上皇軍を打ち破っています。

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本来であれば勝ってよかったねで終わるところなのですが、広元にとって誤算だったのは長男である大江親広が後鳥羽上皇側に付いていたことでしょう。息子の寝返りについては戦前から知っていたようなのですが、広元はあくまで鎌倉側の人間として、北条義時と連携しながら幕府軍の勝利に貢献しています。長男が敵に寝返ったという事実は割と処罰の対象になりそうなものですが、広元にはなぜか一切のお咎めがなかったようです。他の御家人の排斥に積極的な北条義時からも、人柄や能力も含めて余程の信頼を受けていたのでしょう。

戦国時代の雄・安芸毛利氏の祖先に

承久の乱のスッタモンダをしのぎきった大江広元は。78歳という当時としては珍しい年齢まで生き、そして静かに亡くなっています。長男の大江親広が承久の乱の影響で隠居していたため次男の時広が跡を継ぎ、その後も大江家は幕政の心臓部となる評定衆を務めています。そして広元の子孫達は自身の氏族を次々と打ち立て、日本各地でそれぞれ別の家として独立しています。

鎌倉の地には大江広元の墓所が現代も残されていますが、この墓は鎌倉時代に作られたのではなく、江戸時代に入ってから長州藩によって改めて作られています。長州藩の藩主・毛利家は広元の4男・季光は毛利姓を名乗っており、その子孫が安芸国(広島県西部)に移り住み、戦国時代に中国地方の覇者となった毛利元就にまで繋がっています。ちなみに広元の子孫達は「広」や「元」の字を名前に入れるケースが多く、毛利元就や毛利輝元、そして長州藩の歴代藩主達も同様となっています。毛利元就と言えば数々の困難を知恵で解決してきた人物で有名ですが、ひょっとしたら名前の1字と共に大江広元の頭脳が受け継がれたのかもしれませんね。

毛利元就のイラスト
「三矢の教え」でも有名な大江広元の子孫・毛利元就

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