織田家3代に仕えた名脇役・河尻秀隆

河尻秀隆の肖像 戦国時代の人物録
河尻秀隆の肖像

織田家3代に仕えた忠臣

河尻秀隆という武将は全くもって有名ではありませんが、織田家の中で重要な役割を演じ続けた名脇役とも言える人物です。柴田勝家や羽柴秀吉といったド派手な活躍でノシ上がるような華やかなタイプではなく、どちらかと言えば誰かを地味に補佐する縁の下の力持ちでしょうか。戦場での活躍も意外に多いですが、地味な仕事や要人の捕縛といった汚れ仕事も厭わずこなすという、優秀なサラリーマンのような働きを見せています。どんな仕事も嫌な顔ひとつ見せずに取り組む部下は、世代を問わずどのような上司にとっても頼りになる存在ですよね。

信長の父・織田信秀の代から織田家に仕え始めた河尻秀隆は、ひとつずつ着実に功績を積み上げ、信長から家督を相続した織田信忠の副将を務めるに至りました。地味な武将すぎてそこまで多くの記録が残されている武将ではありませんが、織田信秀の時代から彼の功績を辿ってみたいと思います。

織田信秀の家臣として

小豆坂の戦いでいきなり敵将を打ち取る

河尻氏がどのような一族であったかは現代に伝わっておらず、河尻姓を持つ人物自体が日本史全体で見てもレアだったりします。一応源氏の末裔という触れ込みにはなっていますが、他に河尻姓を持つ有名人がいないため真偽は全く不明です。とは言え河尻秀隆は相当織田信秀に気に入られていたようで、「秀」の一字は主君から与えられた偏諱だったりします。

秀隆は若くして尾張国の織田信秀に仕え始め、織田家と今川家の三河国を巡る戦い・小豆坂の戦いには16歳という若さで参戦しました。この戦いでの秀隆は敵の足軽大将を打ち取っており、初陣にして大将首を取るという鮮烈なデビュー戦を飾っています。16歳という年齢も数え年のことですので、現代で言えば中学生くらいの子が戦場で敵将を討ち取ったことになります。

躍進する織田信長と共に

エリート集団・黒母衣衆の筆頭

織田信秀が病死すると、戦国の風雲児こと織田信長によって織田家の家督が継承されました。河尻秀隆は信長からも厚い信頼を受けていたようで、織田家選りすぐりの親衛隊・黒母衣衆の筆頭を務めています。織田家で母衣(ほろ)を背負う名誉を持った部隊は黒母衣衆と赤母衣衆の2つですが、地味に黒母衣衆の方が格上扱いだったようで、河尻秀隆は実質的に親衛隊長のような役目を果たしていた訳です。

母衣衆はこんな感じの母衣を背負った目立つ部隊です

黒母衣衆や赤母衣衆は他家では旗本と呼ばれる立ち位置であり、戦場では信長の身辺警護、また各部隊への伝令も務める重要な役目を持ちます。そのためか母衣衆に任命されていたのは織田家の将来を支える若きエリート達であり、いわゆるイイトコ出のボンボン達だった訳です。

そういった濃い目のメンツを押しのけて筆頭の座を手に入れているということで、織田信長からの信頼が伺える人事でもあります。ちなみに若い頃の佐々成政や蜂屋頼隆など後に大名となる人物も黒母衣衆に所属しており、赤母衣衆には塙直政や加賀百万石の祖となる前田利家がいます。

桶狭間の戦いで河尻秀隆が今川義元を討ち取った?

1,560年、駿河国を拠点としていた今川義元が京都上洛作戦を開始しました。織田家の尾張国は京都側に位置する隣国ということで、やる気満々・戦力十分の今川義元にとって初戦であり、小手調べ程度に思っていたものと思われます。完全に戦力で劣る織田信長は最前線の砦からの援軍要請をすべて無視、今川義元の首一つに狙いを定めて機会を窺い続けていました。

今川軍は総勢で2万もの兵力がありましたが、尾張国に侵入している軍と今川義元がいる本軍はかなり離れてしまっていました。その状況を見極めた信長は今川義元の本陣に奇襲を掛け、局地的な2000対300の戦いを作り上げました。折しも突然の豪雨で奇襲部隊の接近に気付かなかったこともあり、本陣は無防備なまま奇襲を受け、今川義元は織田軍の手で討ち取られています。

今川義元のイラスト
今川義元の首は誰の手に?

この時誰が今川義元を直接討ち取ったか、なのですが、記録によっては河尻秀隆だったり、また別の資料では秀隆と同じ黒母衣衆の1人・毛利新介とされています。桶狭間の戦い後に2人共特に昇進しているワケでもないので、かなり有名であるにも関わらず意外と曖昧さの残る戦いだったりします。

織田信忠の副将として

甲州征伐で武田家を滅亡に追い込む

河尻秀隆は桶狭間の戦い以降も各地で転戦、大功こそありませんが姉川の戦いや長島一向一揆にも出陣しています。そして織田信長の長男・信忠が元服すると独自の軍団が編成され、この軍団の補佐官には滝川一益と河尻秀隆が任命されました。信長は経験豊富な両名に補佐させて信忠に実績を積ませるつもりだったのでしょうが、秀隆は信長からの期待に応えたのか、長篠の戦い石山合戦で「織田信忠が」大きな武功を上げています。

石山合戦で畿内の平和が取り戻されると、織田家の目線は長年のライバル・武田家へと向きました。ここで信長は7万人からなる大軍を編成し、織田信忠はその先鋒として武田領への侵攻を始めました。すでに武田軍は長年に渡る徳川家康との戦いで疲弊していたため、信忠軍は順調すぎるスピードで次々と城を奪取しました。

そして武田家の本拠・甲斐国の新府城に迫ると、武田勝頼は逃亡した後に天目山にて自害し、信忠は信長の本隊が到着する前にこの甲州征伐を完了させています。織田信忠はここで帰還していますが、ここからの滝川一益は関東方面の攻略に着手、そして秀隆は甲斐国を統べる代官として居残りました。

甲州征伐についての記事はこちらからどうぞ。

状況を一変させた本能寺の変

甲州征伐の後も旧武田領に居残った河尻秀隆でしたが、武田家という由緒正しい家が数十代に渡って統治してきた土地柄だったためでしょうか、武田の遺臣達は織田家に従うことを拒み続けていました。そのためか秀隆はかなり強硬な弾圧を加えたらしく、武田の遺臣狩りのために略奪や放火をした記録が残っていたりします。そんな秀隆の弾圧にも武田家の遺臣達は屈することなく、雌伏の時を過ごしながら機会を伺っていると、本能寺の変で織田信長と織田信忠が明智光秀によって討たれました。

本能寺の変が起きると武田家の遺臣達が一斉に反乱を起こし、信濃国・甲斐国の2国は突然修羅場と化しました。ここで多くの織田家の家臣が逃亡していますが、滝川一益・河尻秀隆の両名は踏みとどまり事態の収拾に努めました。ですがこのタイミングで徳川家が混乱に乗じて横槍を入れ、本多忠政という家臣を使って織田家に反抗する武田遺臣をまとめ上げ、甲斐国への侵攻のために秀隆に寝返り工作までしています。徳川家は長年に渡って武田家との戦いを繰り広げていたため、甲斐国を織田家に丸ごと持っていかれてしまったことに不満を持っていたのかもしれませんね。

本能寺の変の余波で起きた天正壬午の乱

秀隆は徳川家の裏切り行為を知って即座に行動、徳川家を完全に敵であると認識し、本多忠政を探し出し斬り伏せました。ところが本多忠政が討たれたことを知った武田家の遺臣による一揆が勃発、ここで河尻秀隆は襲撃され敢え無く殺害されています。これによって甲斐国・信濃国は統治者不在の無政府状態となり、上杉景勝・徳川家康・北条氏政、そして武田家遺臣の代表となった真田昌幸による争奪戦・天正壬午の乱へと発展しています。

天正壬午の乱での真田昌幸の立ち回りはこちらからどうぞ。

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