安土桃山時代1 長篠の戦い | 騎馬の武田勝頼と鉄砲の織田信長

長篠合戦図屏風 安土桃山時代
長篠合戦図屏風

今回の記事では、足利義昭を追放した織田信長が、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼との戦いに臨む場面をご説明いたします。

当ブログでは室町幕府の滅亡をもって戦国時代の終わりとしておりますが、人によっては1590年の豊臣秀吉の天下統一までを戦国時代としているなど、解釈の違いによって結構まばらだったりします。また織豊時代(織田信長と豊臣秀吉の頭文字)といった時代呼称もありますが、当ブログでは1573年に足利義昭が滅ぼされてから、1603年の江戸幕府成立までの30年間を安土桃山時代と表記したいと思います。予めご了承の程お願いいたします。

徳川家康の武田家への反撃

武田信玄が15代将軍・足利義昭の要請に応える形で京都への進軍を始め、徳川家康の領土に侵攻したことで徳川家と同盟している織田信長との友好関係も消滅することになりました。その後武田信玄が病死したことで武田軍の京都上洛作戦は中断されますが、信玄が病死したことを知らなかった足利義昭は信長打倒の兵を挙げ、あっさりと敗北し京都から追放されています。

足利義昭追放と武田家と織田家の友好関係についてはこちらからどうぞ。

武田信玄が病死して武田軍が撤退したため、徳川家康は自国領土の奪還に動き、また信玄死後の混乱に乗じて有力な武将に寝返りの誘いを掛けています。

依然強国の甲斐武田家

武田信玄が病死した後、武田家はすでに後継者として周知されていた勝頼が家督を継いでいます。室町幕府を始めとして多くの強国が後継者争いで弱体化するケースが頻繁に見られますが、勝頼が家督を継ぐ際の内乱などはほとんどなかったようです。武田勝頼自身の能力や人格に拠るところもあったのでしょうが、武田家臣団の結束力もスムーズな相続の要因だったと考えられます。

それでも信玄死後に武田家から他家に移る者もチラホラとおり、その内の1人が奥平貞昌という人物でした。

武田家から徳川家に寝返った男 奥平貞昌

徳川家康は武田家から寝返ってきた奥平貞昌という人物を余程気に入ったのか、自身の娘・亀姫との婚約を約束し、また領地の加増を二つ返事で約束しています。そして奥平貞昌を対武田家の最前線であり重要拠点である長篠城に配備し、当時最新鋭の装備である鉄砲を200挺も預けています。現代日本の金銭感覚でいくと当時の鉄砲一挺は2億円くらいの価値があり、この200挺もの鉄砲を預けたという事実は徳川家康からの相当な信頼が感じられます。

奥平貞昌の裏切りを知った武田勝頼は激怒し、奥平家からとっていた人質を処刑し、1万5000もの大軍を引き連れて長篠城を囲みます。長篠城にはわずか500人程度の兵しかいなかったのですが、長篠城の周囲は守る側に有利な複雑な地形をしており、また大量の鉄砲が配備されていたため、奥平信昌は武田軍の猛攻を上手くしのぎ続けていました。

そうこうしている内に織田家と徳川家の連合軍4万が長篠に到着したため、武田勝頼は長篠城を落とすことができないまま織田・徳川連合軍を迎え撃つこととなります。

防御陣地の構築と鉄砲の集団運用

織田信長は長篠の戦いに出陣するにあたり、武田家を叩くチャンスと捉えていました。この戦いのために招集した武将だけでなく各地の守備についていた部隊からも鉄砲を供出させ、この戦いに持ち込まれた鉄砲の総数は3000挺を越えていたといわれます。

信長は鉄砲の火力を活かすため、長篠城から程近くの設楽原という地に野戦陣地を構築しました。騎馬の比率が高く機動力に勝る武田軍に対して、土を盛って馬が簡単に登れない急斜面を作り、さらにその上に馬防柵を作り鉄砲隊が落ち着いて狙うための環境を作り上げました。設楽原という土地は「原」とついている割に地形の起伏が多いため、武田軍から見えない場所に建築できたことも連合軍にとって追い風になったでしょう。

馬防柵

日本ではこれまで野戦築城という概念そのものがなかったのですが、この長篠の戦いで突然思いついたように用いられています。当たれば高確率で戦闘不能となる火縄銃の伝来により、この凶器の活かし方に悩んだ挙げ句の答えがこの野戦築城だったのでしょう。ちなみに織田信長はポルトガル人宣教師との付き合いの中で野戦築城の話を聞いており、ヨーロッパですでに使われていた鉄砲の運用方法を真似しただけ、という説もあります。

火縄銃の伝来についての記事はこちらからどうぞ。

設楽原決戦

織田・徳川連合軍が野戦陣地を築いている場所に誘い出された武田軍は、膨大な数の鉄砲に怯まず突撃を繰り返しました。ですが当然ながら騎馬は馬防柵に阻まれ、馬ごと鉄砲の狙い撃ちの的になります。それでも特攻とも言える突撃を繰り返した武田軍はそれなりに戦果を挙げたのですが、いかんせん4万対1万5000の人数差を埋めることはできず、多数の死傷者を出して長篠から敗退することになります。この戦いでの死傷者は連合軍も6000人程出ているのですが、武田軍は1万人を越える死傷者が出ています。

武田軍は3分の2以上の兵を失う大敗北だったのですが、軍の損耗以上に大きかったのが武将クラスの戦死です。武田4名臣に数えられる内藤昌秀・山県昌景・馬場信春の3人だけでなく、これまで武田軍を支えてきた重臣やベテラン指揮官をこの戦いだけで一気に失っています。

長篠の戦い その後

大勝利とも言える戦果を挙げた織田信長は、武田家の領内に侵入することはせず、当初の目的である長篠城防衛を果たして自国へ引き上げています。織田信長に対する諸大名の包囲は依然として続いているため、ひとまず武田勝頼の力を削いだだけで十分と判断したのかもしれません。

余裕の帰還を果たした織田信長に対して、大敗し重臣を失った武田勝頼は国としての方針を大きく転換する必要に迫られます。元々強国として他国からの侵攻を受けることがあまりなかった武田家でしたが、越後の上杉氏や里見氏、佐竹氏といった強豪国と同盟関係を結び、軍事力で他国を圧倒するのではなく外交による国防を強いられることになりました。

奥平貞昌 改め奥平信昌について考察

織田徳川連合軍の到着まで粘りきった長篠城の奥平貞昌は、織田信長の名前から1字もらって奥平信昌と改名し、当初の約束通り徳川家康の長女・亀姫を正室として迎えています。実は奥平信昌には長篠の戦いの前にはすでに正室がいましたが、この前妻は武田勝頼の元に人質として送られていたため、奥平信昌が徳川家に寝返った時点で処刑されています。人質を取られているにも関わらず徳川家へ寝返った奥平信昌は、この時点ですでに武田家に見切りをつけていたのでしょう。

奥平信昌は長篠の戦いでの功績により、徳川家康から奥平家の家臣も含めて末代まで地位を保証するというお墨付きをもらっています。実際に奥平家は江戸時代を通じて幕府に大切に扱われており、江戸幕府が滅亡するまで中津藩主として存続し続けています。

ちなみに現在でも大分県中津市で開催されている「たにし祭り」は、長篠の戦いに由来しています。長篠城で奥平信昌の軍勢が食料不足に陥った時に、堀にいたタニシを食べて飢えをしのぎ、戦い続けたことがお祭りのテーマとなっているようです。

祭イメージ

まとめ

今回の記事では、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の間で起きた長篠の戦いについてご説明しました。

次回記事は、織田信長と浄土真宗・本願寺勢力との戦いについてご説明いたします。

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