織田家の後継者決定戦!賤ヶ岳の戦い

柴田勝家の肖像 安土桃山時代の時代史

賤ヶ岳の戦いに至るまで

清州会議の余波で織田家が分裂

織田家の宿老が集った清州会議にて、織田信忠の嫡男・三法師を家督相続者に、そして羽柴秀吉が新たな宿老筆頭に、ということで決着しました。この時の羽柴秀吉は丹羽長秀や池田恒興といった他の宿老達を味方に付け、それに織田信雄や三法師(正確にはお守りの堀秀政)も加わり、ここで秀吉派が出来上がっています。

ですがこの決着は元宿老筆頭の柴田勝家にとって納得できる訳もなく、もうひとりの宿老・滝川一益や織田信孝を味方に引き込んで反秀吉派を形成しました。ざっくりと言えば、会議で得をした側が秀吉派、損をした側が反秀吉派に加わっています。波乱含みの清州会議はなんとなく穏便に終わったかに見えましたが、会議終了後の反秀吉派はすでに戦いを意識していたようで、国元に戻った各武将は着々と軍備を整えました。

柴田勝家の秀吉批判

清州会議から三ヶ月ほど経った1582年10月、柴田勝家は整いつつあった戦力を背景に、反秀吉派の代表として批判の書状を送りつけました。さらに柴田勝家は配下となっていた前田利家らを派遣、ひとまず話し合いで決着をつけようというスタンスで交渉にあたらせています。

ですがこれは北陸方面に領土を持っている柴田勝家なりの防衛策だったようで、雪が降り積もる冬季に軍を動かしづらいため、他所の反秀吉派が攻撃されないよう配慮したものだったと思われます。6月末の会議を終えて数ヶ月に及ぶ味方集めの結果、折悪く冬が訪れるタイミングだったのでしょう。

雪景色の写真
ここを数万人で行軍するのはなかなか難しそうです

羽柴秀吉も対決に乗り気

こうした柴田勝家の事情を察知したのか、羽柴秀吉は使者たちを体よく追い返し、前線にあたる城の防備を固めました。そして同年12月、秀吉は反秀吉派の討伐に乗り出します。

羽柴秀吉は討伐に向かう前、清州会議での決定事項を全て破却することを秀吉派に通達しました。そして織田信長の次男・織田信雄を織田家の新当主として安土城に居住させ、その命令によって柴田勝家を討伐するという名目で出陣しています。6月に会議があって10月には勝手に破却するという、もはや織田家は自分の物と言わんばかりの秀吉の行動ですね。

織田家の頂上決戦!賤ヶ岳の戦い

羽柴秀吉の先制攻撃

反秀吉派が主に陣取っている地域として、織田信孝がいる美濃国(岐阜県)、滝川一益の伊勢国(三重県)、また勝家自身が持つ越前国(福井県北部)と清州会議で譲渡された北近江(滋賀県北部)があります。ですがこの段階ですでに北陸地方の雪は深く、越前国から北近江へ向けて軍を動かすには大きなリスクがありました。それを見越した羽柴秀吉は12月、まずは北近江を守っていた柴田勝家の養子・柴田勝豊を攻撃します。この秀吉の猛攻に対して柴田勝豊はほとんど抵抗できず、わずか数日で降伏し城を明け渡しています。

北近江を制圧した秀吉は雪で柴田勝家が出撃できないのを良いことに、そのまま美濃国・岐阜城にいた織田信孝を攻撃しました。織田信孝もこの攻撃に耐えきれず降伏し、秀吉は反秀吉派を各個撃破する形で連勝を飾っています。このまま秀吉派の勝利で全て終わるかと想いきや、清州会議に参加できなかったあの男が立ち上がります。

伊勢で挙兵した滝川一益

織田信孝が降伏したのとほぼ同時期に、伊勢国で滝川一益が反秀吉派の立場を明確にして挙兵しました。一益は伊勢国内に多くいた秀吉派を、武力を背景とした交渉によりあっという間に味方につけています。ここらあたりの手腕については、さすがに信長の下で各地を転戦してきた歴戦の猛者感があります。そして一益は伊勢国内の諸城に信頼の置ける武将を配置、自らは長島城という難攻不落の名城に入り、万全の構えで羽柴軍を待ち受けました。

滝川一益のイラスト
柴田勝家に味方した滝川一益

織田信孝を降伏させた後に一旦京都へ戻っていた秀吉は、準備を整えてから再度伊勢国に侵攻を始めました。秀吉軍は滝川軍が全て城に籠もっていることを確認すると、他の城と連携できないよう一つずつ包囲、一益の居る長島城を始めとしてそれぞれの城を攻撃します。ですが滝川軍は攻撃に対して頑強に抵抗し、秀吉が攻めあぐねている内に越前国にいた柴田勝家がついに出陣します。

柴田勝家・ついに出陣

賤ヶ岳の戦いの地図
3方向に敵を抱える羽柴秀吉

滝川一益が伊勢国で粘り続けている頃、越前国・北ノ庄城で雪解けを待ち続けていた柴田勝家が満を持して出陣します。勝家は3万もの大軍で賤ヶ岳付近に布陣、待ち受ける構えで砦や柵を建設しています。勝家が出陣してきたことを知った秀吉は、滝川軍の抑えとして1万の兵を残し、決戦の地となる北近江へと向かいました。ここには丹羽長秀も参戦しており、織田家の宿老同士が争い合う凄惨な現場となっています。

秀吉が北近江に到着するとほぼ同時に、序盤で降伏したはずの織田信孝が息を吹き返し、美濃国で2度目の挙兵をしました。北の勝家、東の織田信孝、南の一益と3方向に敵を抱えることになった秀吉は、ひとまず東の美濃国討伐に向かいますが、国境を越えた辺りで川の氾濫に遭い足止めを食ってしまいます。この秀吉の動きを察知した勝家は、佐久間盛政に命じて残っていた羽柴軍にすぐさま攻撃、中川清秀という武将を討ち取り砦を制圧しました。佐久間盛政はそのまま別の砦にも攻撃を加えていますが、ここは黒田官兵衛隊の奮闘により辛くも防衛に成功しています。

「美濃大返し」と前田利家の寝返り

美濃国で足止めを食っていた羽柴秀吉は、柴田軍攻勢の報告を聞くとすぐさま軍を反転させ北近江へ舞い戻っています。この時の移動は「中国大返し」ならぬ「美濃大返し」と呼ばれており、50キロもの距離を5時間で数万の大軍が移動したとされています。数万の兵全員がマラソンランナー並のスタミナを持っていたとは考えられないため、さすがにこれは誇大広告すぎるものと思われます。本当に実現できていたとしたら驚くことしかできませんね。

中国大返しについてはこちらからどうぞ。

美濃大返しを成功させた秀吉は、勢いのままに佐久間盛政隊に猛攻を仕掛けました。ですが佐久間盛政は砦や地形を巧みに使って奮戦、羽柴軍をうまく撃退し続けました。ですがそうこうしている内に、佐久間盛政を支援していた前田利家の部隊が急に戦線離脱、戦線のバランスが崩れ一気に羽柴軍が攻勢に転じます。この状況を見た反秀吉派の武将が次々に戦線を離れたため、孤軍となった佐久間盛政はついに敗北、羽柴軍はついに柴田軍本隊へと殺到します。多方面から攻撃を受けた本隊は脆くも崩れ、勝家は本拠・北ノ庄城へと退却しました。

北ノ庄城で柴田勝家自害

敗走した柴田勝家が北ノ庄城に逃げ込むと、追いついた羽柴軍が手早く綿密な包囲網を作り上げました。ここで柴田勝家は連れ子として城中に置いていた浅井三姉妹を逃しましたが、結婚してから半年ほどの正室・お市の方は心中を選んだようで、城に火を放ち共に自害して果てています。武田家を滅亡させた甲州征伐から一年と少し、本能寺の変からまだ一年も経っていないこの時期に、宿老筆頭として華々しく活躍し続けた柴田勝家は、織田家中の内紛によって散るという儚い最期を遂げています。

その後、美濃国で挙兵していた織田信孝は2度目の降伏をしたのですが、しばらく後に切腹を命じられてしまいました。また伊勢国の滝川一益はまだまだ抵抗を続けていましたが、1ヶ月ほど抵抗を続けた後ついに降伏、頭を剃り上げ出家し武将としての人生に幕を閉じています。

賤ヶ岳の戦いが終わって

羽柴秀吉はこの戦いで勝利したことにより、織田家の中で逆らう者などいない絶対権力者として君臨することになりました。戦いが終わるとすぐさま自身の居城とするべく大阪城の建築を始めており、もはや天下人であるかのような振る舞いを見せています。

賤ヶ岳の戦いが終わるまでの秀吉は、あくまで織田家の家臣として振る舞っていましたが、戦争が終結し状況が落ち着くと織田信雄への態度を一変させています。織田家の当主として安土城に居住させていた織田信雄を、なんと追放という形で締め出す暴挙に出ていますが、周囲の家臣達もこの暴挙を認めるという異常事態が起きています。また徳川家康を始めとして旧織田家と友好的だった大名家も、織田家ではなく秀吉に挨拶に来ているため、この織田信雄を追放した時点で「秀吉は完全に織田家を乗っ取った」と言えるでしょう。

ですが追放されたお坊ちゃん・織田信雄はこのまま引き下がらず、友好国である徳川家にヘルプを求めます。この織田信雄が原因となって起きた「小牧・長久手の戦い」は、次回記事にてご説明いたします。

若手育成のための賤ヶ岳七本槍

加藤清正像の写真
加藤清正像

羽柴秀吉が旧織田家を完全に手中に収めるキッカケである、「賤ヶ岳の戦い」では羽柴家に多くの英雄が誕生しています。この戦いで特に活躍があった7人の武将たちは「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれ、出世街道をひた走ることになります。有名武将からマイナー武将までおりますが、一通り名前をリストでご紹介いたします。

  • 加藤清正
  • 福島正則
  • 脇坂安治
  • 片桐且元
  • 平野長泰
  • 糟屋武則(かすやたけのり)
  • 加藤嘉明(よしあきら)

実は以上7名の中でも大した功績がない者もいたようなのですが、秀吉は構わずに過大に喧伝し優秀さを猛烈にアピールしています。秀吉が織田家の跡を継いだ後には当然政権構築のための人材が必要であり、また信長にとっての柴田勝家のように他の部下をまとめあげる人材も必要となります。ですが元々の出自がアレな秀吉には親族に武将などおらず、また譜代と呼べる頼りにできる家臣などおりません。だったら自分で作ってしまえということで家臣達を過大に評価し、少しでも名声を得させようとしたわけですね。

7本槍のメンツはこの段階で全員30歳以下であり、加藤嘉明に至っては10代で参戦していますので、これからの羽柴家を支えるための人材を作り上げる意図だったのでしょう。秀吉の想いが通じたのか、この7名は長きに渡って羽柴家と豊臣家を支えていくことになります。

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