安土桃山時代2 決着! 本願寺石山合戦

安宅船 安土桃山時代

今回の記事では、織田信長と浄土真宗勢力が10年に渡って戦い続けた石山合戦が終結する場面をご説明いたします。

10年もの間続いた石山合戦

信長の京都上洛後から対立

織田家と浄土真宗勢力との対立は、織田信長が京都に上洛したあたりから始まっています。この頃の浄土真宗勢力は三好家との親交が深かったため、三好三人衆を追い払って京都に乗り込んだ織田信長と交戦状態に入っています。この時の戦いは織田信長が勝利しており、そのまま和睦が成立し一旦は小康状態となっています。この時から10年の間に何度も摂津国・石山近辺で行われた戦いは、「石山合戦」と呼ばれています。

信長の京都上洛についての記事はこちらからどうぞ。

和睦を結ぶとほぼ同時に伊勢国(現在の三重県)長島願証寺で一向一揆を起こし、信長の弟を討ち取るなどかなり大規模な攻撃を仕掛けています。信長はこの一向一揆に対して当然反撃を加えますが長島願証寺の守りは固く、攻め落とすに至らず数年に渡って戦い続けています。長篠の戦いの前年になると織田信長は8万という過去類を見ない大軍で攻撃し、長きに渡って織田家の本拠・尾張国を脅かしてきた長島願証寺を滅ぼしています。

すると今度は朝倉義景を滅ぼして奪った越前国で一向一揆が蜂起し、一国丸ごと奪われるという事態が起きてしまいます。このように信長にとって浄土真宗勢力は、ゲリラ的に各地を攻めてくる頭痛の種となっていました。

長篠の戦いが終わって

織田信長は徳川家康と武田勝頼の戦いに便乗する形で長篠の戦いに参戦し、武田軍に壊滅的なダメージを与えて勝利しています。東側の脅威だった武田家が一気に衰退したことで余裕が生まれた信長は、今度は浄土真宗勢力の支配下に入っていた越前国の奪還に成功しています。

長篠の戦いについてはこちらからどうぞ。

この頃中国地方では毛利家が東に大きく領土を伸ばして播磨国(現在の兵庫県南西部)まで進出し、対織田の戦いを見据えて味方を模索し始めます。こうなると摂津国・石山に本拠を構えており、織田家と親密とは言えない本願寺顕如はまさにうってつけの存在でした。

毛利家当主・毛利輝元は自身が庇護していた元室町幕府将軍・足利義昭を通じて顕如との同盟を提案、顕如はこれを承諾します。中国地方の大半を占める毛利輝元との同盟が成立すると顕如は近畿周辺の信者を招集し、反織田の旗を掲げて挙兵します。

天王寺合戦

本願寺顕如の挙兵を聞きつけた織田信長は即座に織田家の主力となる明智光秀などの武将を派遣し、浄土真宗勢力の一大拠点となっていた石山本願寺を海以外の3方向から包囲しました。ですが石山本願寺は寺という名称こそついていますが完全に要塞化されており、そこらの城郭とは比べ物にならない防衛力を持っていたため、攻めきれずにいた織田軍は寺院内の食料が尽きるのを待つ兵糧攻めに切り替えます。

ですがここで本願寺軍と協力関係にあった毛利輝元は水軍を用意し、瀬戸内海に近い立地の石山本願寺へ海上から食料や弾薬を送り続けました。この動きを見た織田軍は補給の拠点となっていた木津の制圧に乗り出しますが、ここで要塞に籠もっていた本願寺軍が突如1万を越す軍勢で反撃、織田軍は敗走して天王寺砦まで撤退します。

この敗北を聞いた信長は反撃のために織田家諸将に招集を掛けますが、急すぎたためか思うように兵が集まりませんでした。ですが兵の招集が遅れていることに痺れをきらした信長は、京都にいた3,000の兵のみで急いで援軍に向かいます。この時天王寺砦を包囲していた1万を越す本願寺軍には、鈴木孫一率いる鉄砲傭兵集団・雑賀衆も参加していました。その雑賀衆の鉄砲による迎撃を突っ切るように織田軍は突撃を敢行、双方に多大な死傷者を出しながら包囲を突破し、砦内の明智光秀と合流し本願寺軍を撃破することに成功します。

天王寺砦を落としきれなかった本願寺軍は寺院内に戻り、強固な城壁を背景に籠城し延々と海上から補給を受け続けるという、結局元通りの状況となりました。信長は石山本願寺攻略のためには海上を封鎖する必要があると考え、水軍で補給を断つ作戦を開始します。

鉄砲隊

第一次木津川口海戦 毛利水軍大活躍

織田信長はまず石山本願寺の周囲に砦を築き、徹底的な陸上封鎖をした後に海上の制圧に乗り出します。元は伊勢国の海賊だった九鬼嘉隆が持つ水軍を大阪湾に回し、毛利輝元からの補給地点となっていた木津川の河口を封鎖しました。この状況を見た毛利輝元はやはり元海賊の村上武吉率いる水軍を動員し、補給路を確保するために九鬼水軍へ攻撃を仕掛けます。

この時の村上水軍は「炮烙火矢」という武器を使っていたと伝えられています。火矢という単語が入っていますが実際は手投げ弾のような武器だったらしく、導火線に火をつけた後に相手側に投げ入れ、数秒すると爆発する仕組みだったようです。炮烙火矢は爆発で敵兵を殺傷するため作られた武器だったのですが、爆発時に木造船に火が着くこともあったようで、海上戦では敵兵を攻撃しつつ船も燃やせるという一粒で二度美味しい武器となっていました。

300艘の船を木津川の河口に浮かべていた九鬼水軍に対して、700艘もの軍船を持っていた村上水軍は躊躇なく攻撃を仕掛けました。ただでさえ数で負けていた九鬼水軍に対して新兵器・炮烙火矢を使った村上水軍が圧勝し、石山本願寺への補給に成功します。

傭兵集団・雑賀衆を征伐

石山本願寺を直接攻め落とすこともできず、また海戦でも負けてしまった織田信長は、直接的な攻略ではなくまずは浄土真宗勢力の力を削ぐことを考えました。そのためまずは紀伊国(現在の和歌山県)を根城とし、天王寺合戦でも織田軍を苦しめた雑賀衆の征伐に向かいます。

紀伊国には鉄砲伝来後すぐに鉄砲が伝わっており、日本で有数の鉄砲の産地となっています。そのため紀伊国を拠点としていた雑賀衆は鉄砲の扱いに習熟しており、その技術を各地の戦国大名に買われて戦闘に参加する傭兵集団となっていました。

鉄砲伝来についての記事はこちらからどうぞ。

当時の紀伊国には浄土真宗が浸透しており、一般民衆だけでなく雑賀衆もかなりの割合で信者となっていました。雑賀衆の頭目・鈴木孫一も信者の1人として天王寺合戦に参加していましたが、自身の領土に織田軍が向かっていることを知りすぐに帰国し、迎え撃つための準備を整えます。

信長は紀伊国に入るとすぐに鈴木孫一の居城に向かわず、ゆっくりと侵攻しながら周囲の雑賀衆の内応を誘いました。雑賀衆には戦国大名家のような主従関係が薄かったためか、ここで信長からの誘いに乗る人々が続出し、戦わずして雑賀衆の戦力を削ぐことに成功した信長はここで一気に侵攻の速度を早めます。雑賀衆は本拠地での戦いということで地形を生かした鉄砲狙撃で織田軍を迎撃しますが、物量の力には敵わずに結局降伏し、この時から鈴木孫一は織田家寄りの勢力として立ち回っていくことになります。

第二次木津川口海戦 鉄甲船でリベンジ

木津川で大敗を喫した織田信長は炮烙火矢への対策として、「鉄甲船」の建造に着手します。「鉄甲船」は当時の基準としては破格の全長24メートルという大きさで作られており、さらに高さを作るために船上に楼閣が作られています。そして船体を爆発や火から守れるよう鉄板が張り付けられ大砲まで搭載しているという、まさに水上の要塞と言える戦艦でした。この「鉄甲船」を7隻も建造した信長は、改めて石山本願寺への補給を断つために意気揚々と大阪湾に水軍を派遣します。

いつも通りに石山本願寺への補給に向かった毛利水軍にも、「鉄甲船」は遠目にも異様とわかったことでしょう。それでも石山本願寺への補給のために数で圧倒的に勝る軍船で完全に包囲し、前回と同様に鉄砲や焙烙火矢で攻撃しました。ですが水上の要塞と化した「鉄甲船」にはほとんど効果がなく、むしろ接近した船から大砲での砲撃を受けて撃沈され、全く手が出せないままに敗退します。結局毛利水軍は海上に張られた防衛戦を突破するに至らず、石山本願寺は補給を受けることができず完全に孤立することとなります。

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終結

毛利輝元や荒木村重といった他の反織田勢力も徐々に勢いを失っていたため、補給を断たれた本願寺顕如は戦争の継続をここで断念し、織田信長と和睦の道を探します。顕如は朝廷を通して織田信長との和睦を打診し信長は条件付きでこれを承諾、ついに織田家と浄土真宗勢力の戦いが幕を閉じることになります。

信長が出した条件には、浄土真宗が持っていた領土の大半を渡すことや石山本願寺からの退去などが含まれていました。顕如はこの条件を受け入れて早々に退去したのですが、顕如の長男・教如はこの条件に反対し抗戦を主張、そして教如に同調した多くの人々と共に石山本願寺に居座り続けようとします。

ですが摂津国で反織田の旗を掲げていた荒木村重が敗北すると教如は態度を一転させ、逃げるように石山本願寺を後にしました。教如が出る際に火を放ったのかはわかりませんがこの直後に石山本願寺から出火し、長く反織田の拠点となっていた石山本願寺はここで文字通り燃え尽き、織田信長と本願寺顕如の戦いは幕を下ろすことになります。

浄土真宗勢力の分裂

本願寺顕如にはすでに織田信長に抵抗する意志はなく、紀伊国へ移動し教団の主としての仕事をこなしていました。ですが教如は顕如と袂を分かち、いまだ抵抗を続けていた加賀の一向一揆をけしかけ、越前を領有していた織田家の重臣・柴田勝家との抗戦は継続することになります。

顕如はいまだ抵抗を続ける教如を後継者から外し、3男の准如を後継者として決定しました。ですが教如は相変わらず自身を後継者であると主張し続け、浄土真宗教団はこれ以降真っ二つに割れることになります。豊臣秀吉の時代をまたいで江戸時代に入っても、浄土真宗内の対立は相変わらず続きます。この対立関係を見た徳川家康は浄土真宗が今後団結しないよう、教如の東本願寺と准如の西本願寺を別々に建てることで、さらに対立を煽るという政策を採っています。

まとめ

今回の記事では、織田信長と浄土真宗勢力・本願寺顕如との戦いの場面をご説明いたしました。

次回は織田信長が宿敵・武田勝頼との決着をつける場面をご説明いたします。

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