そんなに悪くなさそうな日本三大悪女 | 藤原薬子・北条政子・日野富子・淀の方

悪女のイメージイラスト その他考察

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日本三大悪女は悪事少なめです

今回の記事では、日本史において悪女として扱われがちな女性達を一人ずつご紹介したいと思います。一口に悪女と言っても日本の場合はとんでもないことをしでかした人物はおらず、明確に悪意があったと断定できないケースがほとんどです。また悪事のスケール的にも他国の悪女たちに全く及ばず、中国三大悪女あたりと比べると余りに小さいことが印象的です。

このことの背景には、日本史の中で女性が権力を持った例がいかに少なかったか、を表してもいます。どれほど悪趣味な性癖を持っていようとも、それを大規模に発揮する地位がなければそもそも事件に至ることすら稀でしょう。逆に言えば権力を持てば持つほど他者への影響が大きくなるということで、現代風に言えば「責任のある立場」という表現になるのでしょうか。ですがこの日本という国の歴史では女性が国家レベルの責任を持った例は非常に少なく、現代日本における女性議員の割合も世界的に見て最下位クラスだったりします。

そんな女性の活躍しづらいお国柄ではありますが、一応悪女として扱われている女性も存在しています。平安時代の藤原薬子、鎌倉時代の北条政子、室町時代の日野富子、戦国時代の淀の方、の4人のうち3人が日本三大悪女として挙げられていることが多いので、せっかくなので4人まとめてご紹介したいと思います。中国の清末期に一千万単位の死者を出した西太后あたりと比べると、あまりに些細な悪事の数々を御覧ください。

日本と比べて相当に悪い、西太后や妲己を含む中国三大悪女はこちらからどうぞ。

平城天皇の寵愛を受けて夫を九州に追放・藤原薬子

藤原縄主の妻として3男2女をもうけた藤原薬子は、娘が安殿親王(あて、後に即位して平城天皇)の宮女となることが決まると、まだ幼い娘のために自身も宮仕えし始めました。ですが安殿親王は娘よりも薬子を気に入ってしまい、妻の母との禁断の関係に耽ったとされています。このことを聞きつけた桓武天皇は藤原薬子を宮中から追放しますが、桓武天皇が崩御し安殿親王が平城天皇として即位すると、薬子は再び召し出され宮中に舞い戻ります。

藤原薬子のイメージイラスト

宮中へ戻った薬子はまず旦那をどうにかしたいということで、藤原縄主を九州の大宰府へと左遷しました。そして薬子の宮中入りに伴って兄の藤原仲成も調子に乗り出し、気に入らない皇族を自害に追い込むといった事件も起きています。

そんな中で平城天皇は重い病に罹ってしまい、弟の嵯峨天皇に天皇位を譲って自らは上皇となり病気治療に尽くしました。順調に病気が回復した平城上皇にはまだまだトップに返り咲く気持ちがあったようで、奈良時代の都・平城京へ薬子と移動し、かつて天皇であった頃のように政治を執り始めました。ですがさすがに天皇のマネ事をしたのはまずかったようで、嵯峨天皇は平安京にいた藤原仲成を捕縛、さらに薬子の罪を挙げて捕縛のために坂上田村麻呂を送ると、平城上皇はあっさりとギブアップして出家し、捕縛されるのを嫌った藤原薬子は自ら毒を飲み自害しました。

この「薬子の変」と呼ばれる事件での薬子の罪は、平城天皇と男女関係になり、旦那を九州に追いやったことだけです。それでも充分悪いだろうという気もしますが、そもそもの原因は薬子に手を出した平城天皇にあるため、十分に弁護の余地はあるかなという感じがします。どちらかといえば平城天皇と、妹の宮中入りに合わせて調子に乗った藤原仲成の方が悪人感強めですね。

薬子の変についてはこちらからどうぞ。

尼将軍として鎌倉殿の地位に立った北条政子

嫉妬心はかなり強め

北条政子のイラスト

日本三大悪女にしばしば名が挙がる北条政子ですが、この人物が悪女の汚名を着せられているのは風評被害でしかありません。嫉妬エピソードこそ結構多くあるのですが、嫉妬する女性を全て悪女にしていたら大半の人が該当してしまいます。そもそも京都の貴族文化の中で育った源頼朝と、地方育ちの政子では婚姻の概念そのものがズレていたため、政子からすれば京都の貴族達は皆一様に許しがたい浮気者に見えたことでしょう。頼朝と政子の感覚は結局埋まらなかったようで、頼朝は政子の目を恐れながらも、それでも足繁くコソコソと他の女性の元に通っていたようです。

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政子は流罪で伊豆国にやってきた頼朝の妻となった後、嫡男源頼家や次男の源実朝を出産しています。政子が妊娠すると頼朝の悪い虫が騒ぎ出し、ここぞとばかりに他の女性を物色し始めました。そんな中で頼朝はお気に入りを発見、「亀の前」という女性の家に頻繁に通っていましたが、これを知った政子は当然のごとく激怒、「亀の前」の実家・伏見家の屋敷を襲撃し打ち壊すという怖い行動もとっています。ここだけ見ると結構ヤバい奴でしかないのですが、この事件では死人が出ていないのでギリギリセーフでしょうか。

母として・尼将軍として

源頼朝の死後に鎌倉殿の地位を嫡男・源頼家が受け継ぐと、北条政子は亡くなった旦那を弔うために出家しています。この時まだ18歳の頼家は急に偉くなって気が大きくなってしまったのか、有力御家人・安達盛長の嫡男である安達景盛の妾を奪うという騒動を起こしています。この騒動での政子は両者の間に入って取り成すとともに頼家をキツく叱責、政子のあまりの剣幕にむしろ安達景盛が引いてしまう形で決着しています。いくら鎌倉殿の地位にあった頼家とはいえ、さすがに御家人の女を奪うのはやりすぎな気もしますが、ここは政子のお母ちゃんパワーでなんとか事なきを得ています。

3代将軍である源実朝が暗殺された後は、次の将軍が決まるまでという取り決めの中で政子が鎌倉殿の地位を代行しています。他に適切な人物がいなかったからこその「尼将軍」でしたが、初代将軍である頼朝の妻という肩書が効果的だったのか、幕府御家人達は意外な程にまとまり反乱などは起きていません。その後に起きた承久の乱でも御家人達を叱咤激励、執権職にあった弟の北条義時と共に幕府の勝利に大貢献しています。このように政子はどちらかと言えば偉人レベルの功績を残しているのですが、嫉妬心が強いことと「権力を持っちゃった女性」という点がマイナスになってしまったのか、なぜか日本三大悪女に入る不名誉な評価を受けています。

北条政子についての記事はこちらからどうぞ。

我が子可愛さに応仁の乱を起こした日野富子

室町幕府8代将軍・足利義政の正妻として迎えられていた日野富子でしたが、義政との間に長く子供ができないことに悩みを抱えていました。実際は妻となってから4年後に第一子が誕生しているのですが、その子が産後すぐに亡くなるという不幸もあり、富子が妻となってから10年近くもの間跡継ぎが誕生しませんでした。そのため義政は跡継ぎの誕生を諦め、出家していた弟の足利義視を還俗させ、後継者として決定したところで突然富子の妊娠が伝えられます。

すでに将軍の後継者として義政の弟・足利義視が決定していましたが、富子は自身の息子・足利義尚の将軍就任を望みました。富子は義尚を将軍にするために室町幕府の実力者・山名宗全と結託すると、足利義視を支持する派閥が反応し、両者の対立はあっという間に深刻化し戦いに発展しています。当初は小競り合い程度だったにも関わらず、両者が負けじと味方を募って規模が拡大、気付けば全国そこら中で戦いが起きる事態にまで発展しました。

この「応仁の乱」と呼ばれる戦いは決着など付かなかったのですが、色々あって結局9代将軍には義政の弟・足利義視が就任しています。ですがその次となる10代将軍にはちゃんと富子の息子・足利義尚が就任しているため、「最初からそれでよかった」感は拭えません。ちなみに富子は戦乱の真っ只中で米の投機など商売にも勤しんでおり、莫大な利益を上げた状態で終戦を迎えています。息子のために戦乱の引き金を引いておきながら自身はちゃっかりお金儲けするという、このしたたかさこそが日本三大悪女に入ってしまった理由なのかもしれませんね。

豊臣家滅亡の原因?淀の方

気付いたら成り行きで権力者

戦国時代末期の浅井長政と織田信長の妹・お市の方、「茶々」はこの2人の間に産まれた三姉妹の末っ子です。3人の姉妹は浅井家の滅亡、そして後にお市の方が再婚した柴田勝家の滅亡と、若くして2度の落城を体験するというキツい人生のスタートを切っています。後に「淀の方」と呼ばれる茶々は、この2度の落城に深く関わった人物・豊臣秀吉の側室となったことで不本意な権力を手にしてしまいます。

豊臣秀吉と淀の方の間には長く子供が産まれませんでしたが、朝鮮出兵の前半戦・文禄の役が終結してすぐに後継者となる秀頼が誕生しています。後に秀吉が病死すると実母である淀の方は豊臣秀頼の後見人となり、日本全土を統治する豊臣家の中で大きな決定権を持ってしまいました。そんな中で石田三成と徳川家康が対立し始め、それに合わせて2人の派閥はそれぞれ肥大化していきます。

関ヶ原の戦いと大坂の陣

石田三成と徳川家康の対立が激化し戦争が避けられない状態になると、淀の方は豊臣秀吉が残した遺言の通り、家康を支持し三成討伐を命じました。石田三成は挙兵を起こした後の事後承諾で淀の方の支持が取り付けられると踏んでいましたが、結局豊臣家の旗を掲げられないまま東軍・徳川家康の前に敗北を喫しています。この関ヶ原の戦いが終わった後の徳川家康は豊臣家を無視し、江戸に自らの政権を構築し始め幕府の樹立に至っています。

淀の方としては東軍が戦いに勝ったところまでは良かったのですが、その後の家康の行動は不可解そのものだったでしょう。豊臣家に従属しているはずの徳川家康がなぜか征夷大将軍となり、なぜか他の大名たちも家康に服従している素振りを見せ始めました。そんな中でも福島正則や加藤清正といった豊臣家譜代の大名は秀頼に挨拶に来ていましたが、家康本人は大阪に挨拶にも来ず、独自の政令を全国の大名に発布し天下人であるかのように振る舞い続けています。もはや徳川家の全国統治が盤石になった頃、方広寺鐘銘事件をキッカケにして大阪の陣が勃発、淀の方と豊臣秀頼は大阪城落城と共にその命を落としています。

もはや悪女の紹介では全くなくなっていますが、世間的には大阪の陣は淀の方が原因というイメージが持たれているようです。ですが関ヶ原後の徳川家康にとって豊臣家の存在はただの目障りであり、大規模な反乱の火種になる可能性のある厄介者です。そのため大阪の陣はいつか必ず起きたはずの戦争であり、淀の方がどうこう以前に豊臣家は滅亡する運命だったものと思われます。一応淀の方の悪女要素としてヒステリックな性格だった事が挙げられますが、女性の身の上で豊臣家を背負うハメになったことを思えば、そうならざるを得なかったのかなという気すらしてしまいます。

淀の方についての記事はこちらからどうぞ。

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