平安時代3・薬子の変と藤原良房の摂政就任

藤原良房と藤原氏の家紋・下り藤 平安時代の時代史
藤原良房と藤原氏の家紋・下り藤

薬子の変

平城天皇の宮女とその母・藤原薬子

徳政相論で国軍が解体されて数年後、桓武天皇の皇子である安殿親王が一人の娘を宮女として迎え入れました。この宮女となった娘は藤原縄主と藤原薬子の間に生まれた女性でしたが、まだこの段階では幼く、また宮中のしきたりも全くわかりません。それじゃあマズいだろうということで、引率のように薬子も宮仕えすることになり、皇太子が居住する東宮の女官達を束ねる役目に就いています。

この頃30歳手前くらいの年齢だった安殿親王は宮女となった娘よりも、すでに3男2女をもうけていた薬子に惹かれてしまったらしく、2人で密会する関係にまで発展しました。ですがこの不倫関係を知った桓武天皇は激怒して追放、安殿親王の居住地である東宮から薬子は姿を消しました。強制的に引き離されることで2人の不倫関係は解消したかに見えましたが、桓武天皇が亡くなると薬子はまたもや宮中に舞い戻ることになります。

不倫のイメージイラスト
妻のお母さんとの不倫はドロドロ感高めですね

平城上皇の平城京遷都計画

桓武天皇が亡くなったことで、皇太子だった安殿親王が平城天皇としてそのまま即位しました。平城天皇は目の上のタンコブだった父がいなくなったのを良いことに、以前に引き離された藤原薬子を宮中へ呼び戻し、以前以上に寵愛し身近に置き続けました。薬子は天皇の寵愛を受けて調子に乗ってしまったのか、兄の藤原仲成と共に政治の問題にまで介入し出し、旦那の藤原縄主をも太宰府へと左遷しています。

薬子と藤原仲成兄妹がやりたい放題に振る舞っている最中、2人の庇護者だった平城天皇が重病のために倒れてしまいます。この病はかなり重かったようで、平城天皇は位を弟の嵯峨天皇に譲り渡し、上皇に退いて体の回復に努めました。その甲斐あってか平城上皇は見事復活、そして自身による再度の政治主導を望みますが、すでに権力の座は弟の嵯峨天皇がガッチリ握り込んでいます。それでも諦めのつかない平城上皇は、父・桓武天皇によって廃都とされた奈良時代の都・平城京への再遷都を目論み、幾名かの貴族と薬子を引き連れて平城京に赴いて自身の政権づくりに着手します。

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坂上田村麻呂出陣と乱の収束

平城京に辿り着いた平城上皇は、平安京から平城京への遷都を行う詔勅を発しました。現職の天皇である嵯峨天皇を差し置いたこの詔勅に平安京は騒然としましたが、ひとまず従うフリだけしておこうということで、ひとまず坂上田村麻呂や藤原冬嗣(ふゆつぐ)といった重臣を様子見のために平城京に派遣しています。そして平城京の様子を確認した両名が報告を上げると、勝利を確信した嵯峨天皇は強硬手段で乱の収束を図ります。

まず嵯峨天皇は平城京に隣接する国々の関所を閉鎖し、平城上皇の退路をガッチリと塞ぎました。次いで平安京に残っていた薬子の兄・藤原仲成を捕縛、そして平城京にいる薬子の官位を剥奪し、政治的な影響力を削ぎ落としました。嵯峨天皇に先手を打たれた平城上皇はさすがに不利を悟ったようで、ここでひとまず東国に退くことを決意しますが、すでに隣国への関所は完全封鎖されています。ここで平城上皇の前に登場したのは英雄・坂上田村麻呂、この状況に観念した平城上皇は出家し、罪人扱いされるのを嫌った藤原薬子は自ら毒を飲み自害しました。ちなみに藤原仲成は流罪に処される予定だったのですが、急遽変更され射殺という形で処刑されています。

藤原薬子を含む日本三大悪女についてはこちらからどうぞ。

ちなみにこの「薬子の変」と呼ばれる一連の事件での嵯峨天皇は、絶対に失敗などあってはならないということで、当時の中国王朝・唐から帰国したばかりの密教僧に勝利を祈願するよう依頼していました。この密教僧こそが空海であり、この事件をキッカケにして密教は平安京の貴族の間で大ブームを巻き起こしています。

空海こと弘法大師に関連することわざはこちらからどうぞ。

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藤原北家の台頭

人臣で始めて皇女を妻とした藤原良房

自害した藤原薬子とその兄である藤原仲成は、「藤原式家」に属していた人物達です。そして嵯峨天皇に味方した藤原冬嗣は「藤原北家」の人物であり、薬子の変という事件は藤原氏氏族内の内紛という側面もありました。この変事で勝者の側についた冬嗣は、嵯峨天皇の元で急激な昇進を遂げ、公卿の仲間入りを果たしています。

嵯峨天皇が弟の淳和天皇に位を譲った後、冬嗣の長男・藤原良房と嵯峨天皇の娘・源潔姫の婚姻が決定しました。この源潔姫という女性は皇族から源氏の姓を貰い受けて臣籍に降りた人物の一人ではありますが、「貴族の妻となった初めての皇女」だったりします。律令では皇女として生まれた人物は天皇家の中でしか結婚できないものとされているため、臣籍に降りているとは言え天皇家の人間を妻に迎えたことで、藤原北家は血縁的に天皇家に近づいたとも言えます。この前代未聞の婚姻を結んだことで、藤原北家は数ある名家の中でも頭一つ抜けた特別な家柄として認知されることになります。

藤原北家の他氏排斥・承和の変

嵯峨天皇が淳和天皇に譲位した後も、藤原良房は舅に当たる嵯峨上皇の強烈な後押しを受けて出世街道をひた走りました。そして天皇が仁明天皇に移り変わった後も良房の昇進は留まることを知らず、30歳に差し掛かる頃には公卿に列するというスピード出世を果たしています。この頃になると他の有力貴族達も良房に対抗するのは得策ではないと感じたのか、良房が主導する政治に口出しすることなく、やりたい放題に振る舞うのを静観している状況でした。

そんな中で30年もの間権力を振るい続けた嵯峨上皇が亡くなると、皇位継承に端を発する「承和の変」が起きています。この事件での良房は仁明天皇と結託し、橘逸勢など藤原北家以外の有力氏族を処罰と称して左遷しています。また藤原北家に属する同族の家系もついでに排除し、誰も逆らうことのできない良房の一強状態を作り出しました。そして皇太子には甥に当たる道康親王を立てることに成功し、この事件をキッカケに良房の家系は天皇家と密接な関係を持つことになります。

藤原良房周りの家系図
藤原良房は仁明天皇の義理の弟・文徳天皇の叔父・清和天皇の祖父です

藤原良房の人臣初の摂政就任

ライバル達が左遷され朝廷からいなくなった承和の変から8年後、藤原良房の甥・道康親王は文徳天皇として即位しました。文徳天皇は良房と源潔姫の間に生まれた藤原明子を妻として迎え、2人の間には惟仁親王が生まれました。生まれたばかりの惟仁親王には3人の兄がいましたが、良房の強力なバックアップがあったことで3人の兄を飛び越して皇太子に指名されています。

良房はその後も積極的に国政に関与し続け、朝廷での頂点とも言える太政大臣に就任しました。この太政大臣という位は常設ではなく臨時職であり、良房の前にこの職に就いた人物と言えば奈良時代の弓削道鏡まで遡ります。そして頂点に立った良房は弟の藤原良相を右大臣に置き、盤石の体制を築き上げました。

奈良時代に出家した身の上ながら太政大臣に就任した道鏡についてはこちらからどうぞ。

良房が太政大臣に就任してからさらに8年後、文徳天皇が病のために亡くなってしまいます。ここで良房の孫に当たる惟仁親王が順調に清和天皇として即位していますが、この時まだ9歳でしかない清和天皇は当然自身での政治判断はできません。ということで良房は清和天皇の国政をサポートするために、日本史上で初となる人臣での摂政就任を果たしました。人臣初の元皇女との婚姻、そして人臣初の摂政就任という快挙尽くしの良房の家系は、これ以後200年もの間日本の頂点に君臨し続けています。

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