今回の記事では、浅井長政と織田信長の妹・お市の方の間に生まれた3人姉妹の長女・茶々についてご説明したいと思います。
浅井三姉妹それぞれをあっさり目に紹介している記事はこちらからどうぞ。
お市の方についての記事はこちらからどうぞ。
豊臣氏の頂点に立った淀の方
羽柴秀吉の側室に
賤ヶ岳の戦いの結果、お市の方が柴田勝家と共に自害すると、3人の姉妹は羽柴秀吉の元で保護を受けることとなりました。それから5年後程経った後、長女の茶々は秀吉の猛烈なラブコールを受けて側室となります。そんな日々が一年ほど続いた後、茶々は羽柴秀吉との間にできた男児を無事出産しました。
天下人の後継者を生む
この子供が羽柴秀吉にとっての初子だったためか、大喜びした秀吉は「捨」(すて)という名前をつけて溺愛したようです。この名前は「捨て子は元気に育つ」といった俗説にちなんだ訳ですが、まあ現代的な感覚からするとなかなかシュールな気がしますけどね。ところがそんな秀吉の喜びも束の間、「捨」は生まれてから二年後に病死してしまいました。
喜んだ分の反動でガッカリしていた羽柴秀吉でしたが、そのまた2年後にまたもや茶々が懐妊、今回も男児を出産しました。この時の秀吉には今度こそ!という強い気持ちがあったのでしょう、今度は「拾い子は〇〇〇〇」という話にあやかって、「拾丸」(ひろいまる)という名前をつけてこれまた溺愛します。ちなみにこの「拾丸」こそが後の豊臣秀頼であり、天下を巻き込んだ関ヶ原の戦いや大坂の陣に臨むことになります。
淀城の主だから「淀の方」
秀吉の正室・高台院には子がないことと茶々が2児も産んでいるという事実は、茶々を側室という身分から正室と同格扱いにさせるには十分でした。特に正室・高台院がすでに高齢で子を産む可能性がなかったため、無事に育ちさえすれば「拾丸」は秀吉の後継者として確定することになります。後継者本人が権力を握るのは当たり前のことではありますが、その後継者に頼られる生母もある程度の権力を持つのも必然と言えるでしょう。
そしてあまりに喜んだ秀吉は、なぜか茶々に城をプレゼントします。このプレゼントされた城が山城国の淀城だったため、茶々はこれ以降に「淀の方」といった呼び名で呼ばれるようになります。この記事内でもここからは、茶々を淀の方と表記したいと思います。
ここで淀の方と秀頼が巻き込まれる関ヶ原の戦いについて触れる前に、ひとまず「正室」と「側室」についての話を挟みたいと思います。
「正室」と「側室」の違い
当時の日本で身分の高い男性は、ほとんどの人が多くの妻を持つ一夫多妻となっていました。自身の子供(特に男子)という信用できる部下が増えることや、後継者がいないといった事態を防止する手っ取り早い解決策が、たくさんの妻を持つことであったのも確かです。もちろん純粋に女好き、といったことも大いにあったでしょう。
この一夫多妻制の中での「側室」という単語は、本妻である「正室」との区別をつけるためにあります。「正室」は正式な妻として家族の一員となり、基本的には1人だけとなります。この「正室は1人だけ」という概念は江戸時代に入ってから武家諸法度で明記されますが、戦国時代やそれ以前においてもかなり一般的な考え方となっていました。「正室」にも本来は政治や軍略といった部分に口出しすることなどできないのですが、女性とはいえ立場が強いため亭主や息子をガンガン言い負かし、間接的に方針を転換させる例も少なくはなかったようです。そのため「正室」は組織としての家ではなく、家庭としての家の中でかなり強い立場を持っていました。
一夫多妻制や正室・側室についてはこちらから。
それに対して「側室」は家族ではなく、当時の感覚としては使用人扱いとなっていました。「側室」になれるのも身分のある女性だけでしたが(側室としても認めてもらえない女性は数多くいました)、やはり「正室」と比べると段違いに扱いが低くなりがちです。もちろん男女間のことですから、正室より側室の方が大事です、といった人も中にはいたでしょう。ですが基本的には「正室」の方が、身分としては圧倒的に上ということになります。
「捨」と「拾」を産んだ淀の方が「正室」並の待遇を得たためこの後大阪城内で大きな発言力を持ち、淀の方の意志が戦局を捻じ曲げていくことになります。
淀の方の関ケ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いでは五奉行の石田三成を中心として、毛利輝元を総大将に迎えて西軍が形作られます。そして西軍は淀の方と秀吉の息子・秀頼を主君と仰ぎ、徳川家康率いる東軍との戦いに臨みます。石田三成は主君である秀頼を守るため、戦争での天下統一を企む徳川家康と戦うつもりでいました。
ですが淀の方はこの西軍の石田三成の主張に対して反対しており、むしろ家康に石田三成達が謀反を起こそうとしているとの報告をしています。そもそも秀吉が臨終する際に残した遺言では、秀頼をトップとして家康を含めたメンバーでの政治運営を指示しており、淀の方はその遺言にただ従う意志を見せていました。つまり淀の方と豊臣秀頼は、どちらに付いたかと言えば東軍です。
徳川家康としても自身の天下統一を望んではいるものの、豊臣家全てを敵に回してはかなり分の悪い戦いとなってしまいます。ですが家康は淀の方から石田三成謀反との報告を受けたため、この関ヶ原の戦いには「豊臣秀頼を守るための戦い」という大義名分をもって臨んでいます。そのため豊臣家の家臣だった大名や縁の深かった大名達が多く家康の東軍に味方しており、西軍を最初から数で圧倒するという家康にとっておいしい状況が作られます。
石田三成は徳川家康の持つ野望に気付いていながらも、戦争に至るまでの過程を誤ってしまったとも言えます。豊臣秀頼を守るために徳川家康を討つつもりが、気づけば豊臣家への謀反人に仕立て上げられてしまいました。謀反人の烙印を押された石田三成は、東軍についていた豊臣家と親密だった大名を味方につけ直そうと、淀の方に西軍を豊臣軍であるとの承認や、秀頼自身の出陣を要求しますがことごとく拒絶されます。この時点での淀の方にとって、石田三成は豊臣秀吉の遺言を破ろうとする罪人であり、徳川家康は遺言を守り秀頼を助ける人物として映っています。そのため淀の方と秀頼が西軍に一切関与しない状況のまま、関ケ原の戦いが始まってしまいます。
結果的には西軍からは多くの離反者が出てしまい、徳川家康率いる東軍の勝利で関ヶ原の戦いは幕を閉じます。石田三成や小西行長といった西軍の主要メンバーは、豊臣家への忠誠心も虚しく市中引き回しの上で斬首となりました。
そして戦後すぐに行われた酒宴では、淀の方は家康を秀頼の父親代わりであるとその場にいた諸将に宣言します。こうして淀の方は秀頼と家康の結びつきを強調し、家康を最良の部下としての日本統治を期待していましたが、家康は当然こんなゴールは望んでいません。
淀の方の大坂の陣
家康との対立
豊臣政権の2番手となった徳川家康は、関ケ原の戦いの恩賞として豊臣家の領地を大名達に大盤振る舞いをしました。豊臣家のための戦いという大義名分だったため、これは当然と言えば当然と言える出来事ではあります。ですが元々領地の少なかった豊臣家はここで大きく支配地を減らし、一気に力を落とすことになります。淀の方や秀頼にとっても痛い出来事ではありますが、父親代わりとしている人間のすることを否定せず、むしろ頑張っているくらいに思っていたのかもしれません。
ですが徳川家康は自身の野望を叶えるため、本拠である江戸に幕府を構築し始めます。ここらあたりで淀の方はキナ臭い匂いを感じたのか、家康を大阪に呼びつけて事情を聞き出そうとしますが、家康はこれを拒否します。家康にとっては人や領地を吸い尽くした後の豊臣家に呼びつけられて、応じる理由がありませんから。ですが淀の方にとっては臣下であるはずの家康の態度に不信感を募らせ、ここでようやく家康の野望に危険を感じます。
大阪の陣前夜
家康に対して敵対心を持ち始めた淀の方でしたが、豊臣家の支配地は削られきっており、また古くからの家臣もとっくに徳川家康になびいている状態です。すでに徳川家康は征夷大将軍に就任しており、各種の法令を定めて幕府統治の体制を着々と整えています。淀の方は期待から大きく掛け離れた状況に歯噛みをしながら数年を過ごしていましたが、ついに徳川家康の側から豊臣家を追い詰めるべく動き出します。
家康は豊臣家が建立した寺の鐘の文言にイチャモンをつけ、無理矢理大問題にして豊臣家を追い詰めます。淀の方にとっての家康はあくまで臣下であり、あまりに無礼すぎる言い分に怒ったのでしょうか、ここで戦争を決意します。大阪城に蓄えていた金銀を放出して兵を雇い入れ、戦争の準備を整えていきます。そして全国の豊臣家と親しかった大名や武将と連絡を取り、味方を集めて豊臣家の天下を取り戻す戦いを始めようとします。
ですが淀の方の想像とは大きく違い、すでに徳川政権下で安定していた大名達は誰ひとりとして豊臣家に味方することはありませんでした。参集して来るのは関ケ原で負けた西軍に属していた者たちばかりで、この時点では浪人となっていた人達です。領地を持っている大名が味方に付かないということは、大阪城は孤立無援のまま籠城戦をするという、先行きなど全く無い絶望的な戦争でした。
大阪冬の陣
この画像はウィキペディア「大阪の陣」のページのものを流用させていただいています。
冬に始まった戦いでは家康は大阪城の兵力の倍以上を用意しており、さらに画像を見れば分かる通り大阪城は完全に包囲されています。誰がどう考えても豊臣秀頼や淀の方の負けなのですが、ここで淀の方は兵の士気を高めるため、自ら薙刀を持って兵を鼓舞して回ります。そういった淀の方の努力が実ったのか、あるいは大阪城が余程守りやすい城だったのかはわかりませんが、家康はなかなか攻め落とせずにいました。
家康は各国の大名にも大阪に兵を出させているため、あまりに戦争が長引いた場合に地方で反乱が起きるのを恐れて作戦を変更します。淀の方や秀頼が居住する天守閣に長射程の大砲を撃ち込み、淀の方を直接攻撃する戦法へと切り替えました。この大砲での攻撃が淀の方の侍女数人に命中し死亡、これを恐れた淀の方は家康に和議を申し入れます。
大阪夏の陣
淀の方からの和議の条件としては、秀頼の身柄の安全と領地の現状維持、そして参集した浪人達を罪に問わないというかなり平和的なものでした。
それに対して家康側は、大阪城の外周に張り巡らされた堀の埋め立て許可を要求します。戦わないなら堀はいらないでしょ、といういかにも真っ当な提案なのですが、堀がなくなった大阪城の防衛力はかなり低下してしまいます。ですが大砲の威力を恐れた淀の方はこの要求を飲み和睦が成立、そして堀の南側は全て埋め立てられることになります。
一旦は落ち着いた家康と大阪城でしたが、家康はこのまま済ますつもりなど毛頭ありません。家康は戦争の備品や食料を整えた後、今度は淀の方に浪人の解雇か大阪城を退去するよう要求します。このような条件を飲めるはずもない淀の方はここでまた戦争を決意、支度を始めますが大阪城防衛の要である堀はすでに埋め立てられています。
そのため城外での決戦を選び、迎え撃つ構えを取りました。いざ戦いが始まると、真田幸村などの奮闘もあったのですが、所詮は数の力には敵わず豊臣勢は敗北します。そして豊臣秀頼と淀の方は落城となった折に自害し、大阪の陣は幕を閉じます。
淀の方の人物考察
この見出しでは、歴史的な記録を踏まえて筆者の推測を書かせていただいています。
テレビドラマや小説などに登場する淀の方は、わがまま放題に振る舞い辛辣な言葉を吐く悪女として描かれることが多いのですが、筆者としては実際にそういった部分はあったと考えています。
関ヶ原や大坂の陣での淀の方は、豊臣家のための判断というよりも、その都度ただ秀頼を守るためだけの判断をしていたような印象を受けます。特に関ケ原の時にはわずか8歳の秀頼を生かすために豊臣家の忠臣・石田三成を切り離すなど、かなりドライな判断も下しています。淀の方も戦上手で有名な家康の有利を知っており、石田三成のバックについた時のリスクを考慮した上での判断だったのではないでしょうか。
そういった息子のためだけに振る舞う姿は、いくら長く豊臣家に仕えた家臣とはいえ気持ちのいいものではなかったでしょう。要するに、息子を守るために必死に頑張る母ちゃん、だったのではないでしょうか。ただそういった普通の家庭では当たり前ともいえるスタンスは、多くの人間を束ねる立場の人間に許されるものではないでしょう。そういった意味で、淀の方の悪女感はかなり高かったのではと思います。
大坂城落城の際に自害したと伝えられる淀の方と豊臣秀頼ですが、実は2人とも生き延びていたという説もあります。この説は都市伝説のようなものだとは思いますが、大坂の陣の後にどこかで2人で仲良く暮らしていたとしたら、きっと幸せな毎日を過ごしたことでしょう。
浅井三姉妹の末っ子・江与についての記事はこちらからどうぞ。
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