天下の特等席を占めた浅井三姉妹
落城を生き延びたお市の方と娘たち
1573年に起きた小谷城の戦いにおいて、浅井長政が籠城する小谷城に対し、織田信長率いる軍勢が猛攻を加えていました。しかし、浅井長政の奮闘に関わらず小谷城は陥落し、戦国大名として名を馳せた浅井家はここに滅亡しています。
その戦いの最中、織田信長は浅井長政の妻となっていた妹・お市の方を心配し、彼女を場外へ脱出させるよう城内に交渉を持ちかけました。すると浅井長政も同様の思いを持っていたのか、家臣の反対を押し切って妻のお市の方と娘たちを城外へと送り出しています。
とりあえず、浅井三姉妹の母・お市の方についてはこちらからどうぞ。
浅井三姉妹の2度目の落城
戦後のお市の方と浅井三姉妹は静かに十年近い時を過ごしましすが、明智光秀の叛心から本能寺の変が起き、保護者だった織田信長が討ち取られてしまいました。しかしその直後の山崎の戦いにて明智光秀が討ち取られると、清州会議でお市の方はなぜか織田家の宿老筆頭・柴田勝家との再婚が決定し、北陸での新生活がスタートします。
ここでは浅井三姉妹も母と義父との時間を過ごしていましたが、今度は羽柴秀吉が北陸に襲来し賤ヶ岳の戦いが勃発、敗北した柴田勝家は居城である北ノ庄城に火を放って自害しました。この時お市の方も亭主と共に自害する道を選びましたが、三姉妹は今回も城から脱出し羽柴秀吉の保護を受けています。
それぞれが権力者の妻に
その後の浅井三姉妹は安土城で数年を過ごしていましたが、羽柴秀吉の提案によって三女・江与の婚約(これはすぐに破談)がまとまりました。それから3年後に次女・初と京極高次の縁談がまとまり、その翌年には羽柴秀吉が長女・茶々を側室として迎え入れています。
正室と側室について、その違いについてはこちらからどうぞ。
よくよく考えれば三姉妹にとっての羽柴秀吉は両親の仇ですので、そんなヤツに自分達の運命が翻弄されたことにどのような思いを抱いていたのでしょうか。戦乱の時代の宿命として割り切っていたのか、はたまた十分すぎる地位を得て安堵していたのか、それは彼女達自身だけが知るところでしょう。
浅井三姉妹をひとりずつ
淀の方こと浅井三姉妹の長女・茶々姫
関白・豊臣秀吉の側室に
1588年、茶々は豊臣姓を得て関白の職位を手にしていた豊臣秀吉の側室となりました。豊臣秀吉はこの後、九州征伐・小田原征伐を済まして天下統一を果たしていますので、まあこの段階でほぼ天下人と言っても過言ではないでしょう。
結婚当時の茶々は20歳くらいだったのですが、そんな年齢でトップレディ的な地位を手に入れてしまった訳です。その後の茶々は後継者となる豊臣秀頼を出産したことで権力が絶対化、豊臣家の実質的な主として君臨することになります。
大坂の陣までの茶々の生涯はこちらから。
淀城をプレゼントされたから「淀の方」
茶々には別称として「淀の方」とも呼ばれていたようですが、この「淀(よど)」という文字は水の流れがよどんでいる所を指しますので、あまり良い名前ではなさそうですよね。ですが、この「淀の方」という呼称はその意味ではなく、「淀城」というお城を保有していたためにそう呼ばれていたようです。
これは長男の鶴松を懐妊した際、豊臣秀吉があまりに喜んだために贈られたらしいのですが、お城を一個丸ごととは豪快すぎるプレゼントですよね。他にも大阪城西の丸に住んでいたから「西の丸殿」なんて呼称もあったようで、当時の人名呼称ルールはややこしいなと感じます。
諱や通称など、明治以前の呼称ルールについてはこちらからどうぞ。
浅井三姉妹の中で最も地味な次女・初
豊臣家の大名・京極高次の正室に
次女の「初」は豊臣秀吉の思惑により、京極高次という武将のもとに嫁ぐこととなりました。この京極高次と浅井三姉妹・豊臣家の血縁はかなりややこしいので、画像にてご確認ください。
つまり京極高次と初は従兄妹同士で結婚したことになりますが、ここでの問題は豊臣秀吉が妹婿になってしまったことでしょう。ということで、ほぼ天下人とただの一武将という身分差のある2人でしたが、義理の関係ではあれど初を仲立ちとして血縁になった訳です。
京極高次についての詳細はこちらからどうぞ。
血縁で京極高次の躍進を支える
武士は戦国時代に限らず血縁単位で動く事例が極めて多く、苗字が別々だったとしても先祖のどこかで分かれた同じ一族だったりします。室町幕府を樹立した足利尊氏も多くの同族と一緒に成功を成し遂げており、戦国時代にも登場する今川氏や斯波氏、細川氏なんかはちょっと遠い親戚くらいです。
ところが豊臣秀吉は下層民の出身でしたので、教養があって頼れる武士の親戚なんかほぼいません。そんな折にそれなりの武士が親戚になったということで、京極高次には謎の加増が相次ぎ、気付けばいっぱしの大名にまで成長しています。
将軍を尻に敷く浅井三姉妹の末っ子・江与
色々あって江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室に
長女の茶々もかなり波乱万丈な人生を送っていますが、荒れ具合ではこちらの三女・江与も全く負けておりません。江与は賤ヶ岳の戦いの翌年に佐治一成という人物と婚約させられていますが、羽柴秀吉の意向によってその年の内に離縁させられてしまいました。
次に江与は羽柴秀吉の養子・羽柴秀勝と再婚していますが、それから数年後に朝鮮出兵が始まってしまい、羽柴秀勝は遠征先にて病のために没しています。すると今度は徳川家の嫡男である徳川秀忠と再再婚、その後関ケ原の戦いを経て江戸幕府が成立すると、江与は2代将軍の正室というこれまたトップレディの地位に収まりました。
江与(院号は崇源院)についての個人記事はこちらから。
姉さん女房に徳川秀忠もタジタジか
江与は徳川秀忠から見て6つ年長となりますので、まあ世間で言うところの姉さん女房だった訳です。それに加えて江与自身の荒々しい性格もあり、徳川秀忠が大奥の女性に手を出そうものなら烈火の如く怒ったとか。
まあそんなバタついた夫婦生活も仲が良かった故なのでしょうか、江与は2男5女を出産し子だくさんな家庭を築き上げました。それは江与が家族と一緒に過ごした幼少期のように、賑やかで楽しい毎日だったのでしょうか。
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