鎌倉時代3 承久の乱 | 朝廷と武士の立場が逆転するキッカケとなった事件

承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇 鎌倉時代の時代史

今回の記事では、3代将軍源実朝が暗殺され、その後に起きた朝廷との争いの一部始終をご説明します。

暗殺された3代将軍・源実朝

12歳で将軍になった源実朝と北条時政の執権就任

鎌倉幕府の2代将軍・源頼家が「比企能員の変」の巻き添えを食って追放されると、北条時政・義時親子の強い後押しによって源実朝が3代目の征夷大将軍に就任しました。この時の源実朝はまだ12歳の子供でしかなかったということで、御家人達の統率やら政治なんかは当然できるはずもありません。という訳で「孫を補佐するよ!」という建前で北条時政が執権に就任、ちゃっかりと幕府のNo.2の座を手に入れています。

源実朝の暗殺と将軍不在の幕府

ところが北条時政は急に偉くなって思い上がってしまったのか、将軍であり孫でもある源実朝の暗殺を企てました。ですがこの事件は北条義時北条政子姉弟の活躍もあって未遂に終わり、晴れて(?)北条時政は鎌倉から追放されています。ところが源実朝が28歳になった頃、源頼家の子供・公暁(くぎょう)によって今度は本当に暗殺されてしまいます。

源実朝には子供が生まれていなかったため、源頼朝の直系子孫はここで途絶えてしまいました。突然訪れた幕府存続の危機ではありますが、2代目執権に北条義時、そして北条政子が鎌倉殿の地位に就く急場しのぎの体制がなんとか成り立っています。とは言えずっとこのままという訳にもいかないため、御家人総出で次の将軍候補を思案していた頃、源実朝の騒ぎを聞きつけた後鳥羽上皇が不穏な空気を漂わせ始めました。

承久の乱:後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした兵乱

承久の乱が起きるに至った背景

もともと鎌倉幕府は東国武士の援助によって成立したため、当時の御家人の大半は当然のごとく関東の人間だった訳です。逆に西日本にはほとんど幕府の手が及んでおらず、まだまだ朝廷の皇族や貴族の縄張りと言っても過言ではありません。

源平合戦とも呼ばれる「治承・寿永の乱」も、朝廷からすれば平氏源氏が勝手にガチャガチャ戦っていただけであり、その結果「たまたま源氏が勝っただけ」程度の認識でしょう。朝廷としては一応幕府を認めた体裁をとっているだけで、感覚的には「最近やたらと武士がイキガッとるな」くらいでしょうか。

つまり朝廷からすれば武士なんか取るに足らない存在な訳で、いつでも蹴散らせるくらいの認識だったものと思われます。とは言えいつまでものさばらせておく訳にもいかないということで、時の権力者・後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒のタイミングを窺っていました。そんな折に源実朝暗殺の知らせが朝廷に届いたため、やる気満々の後鳥羽上皇は「待ってました!」くらいに思ったのではないでしょうか。

後鳥羽上皇のイラスト
やる気満々(?)の後鳥羽上皇

「院宣」による優位を確信していた後鳥羽上皇

とは言え後鳥羽上皇も自前の軍事力は大して持っておらず、もし鎌倉幕府と戦うのであれば戦力不足は否めません。むしろ相手は源平合戦や奥州合戦をくぐり抜けた戦闘のプロであり、互角の兵力でも心もとないくらいでしょう。ところがこの時の後鳥羽上皇は自信タップリ、なぜなら幕府御家人達を根こそぎ寝返らせる秘策を持っていたためですね。

ここでの後鳥羽上皇の秘策とは「院宣(いんぜん)」を用いることだったのですが、こちらは天皇位を譲った人物である上皇が用いる命令書を指します。この「院宣」は平安時代の「院政期」に猛威をふるい、なぜか天皇の命令よりも優先される絶対的な命令書となっていました。つまりこの「院宣」を武士達の前にチラつかせてやれば、「みんな寝返ってくるだろう」というのが後鳥羽上皇の目論見だった訳ですね。

動揺する御家人と北条政子の大演説

後鳥羽上皇は「院宣」を各地の御家人にバラまき、鎌倉幕府を打倒するための戦力を募り始めました。実はこの院宣は御家人達にかなり刺さったようで、動揺が動揺を呼んでパニック状態に陥り、実際に多くの御家人が後鳥羽上皇と内通した記録が残っていたりします。ここまでは後鳥羽上皇の思惑通りではありますが、このことを知った尼将軍こと北条政子は御家人達を集めて大演説を行いました。

故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い。逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい

引用元:Wikipedia「北条政子

この演説は「吾妻鏡」という歴史書では他の御家人が代読したとされていますが、「承久記」では北条政子本人が涙ながらに、そして必死の形相で叫んでいたとされています。どちらが事実かは今となっては分かりませんが、この演説はやはり御家人達の心にブッ刺さったようで、後鳥羽上皇と共闘する約束をしたにも関わらず改心した御家人すらいたようです。そして大江広元の作戦「迎撃ではなくむしろ京都侵攻作戦」をチョイス、北条泰時を総大将として鎌倉を出発しました。

余裕の構えで待ち受ける後鳥羽上皇

この時の後鳥羽上皇は相当余裕だったようで、「武士だってオレに味方したいはず」くらいの楽観的なムードが漂っていたようです。もともと朝廷からすれば幕府将軍だろうがあくまで「臣下」でしかない訳で、「鎌倉幕府(笑)」くらいに思っていても不思議ではありません。

それ程後鳥羽上皇は「院宣」の効果を信じきっていた訳ですが、朝廷という箱庭で生きてきた温室育ちですので、まあこの辺は感覚の違いというヤツでしょうか。そんな余裕綽々の後鳥羽上皇とは対象的に、北条政子の演説に焚きつけられた幕府軍は凄まじい勢いで西に向かってきました。

超大軍に膨れ上がった鎌倉武士団

朝廷軍は慌てて美濃国(現在の岐阜県)で迎撃体制をとったのですが、この時点での朝廷軍は日本史的にもかなりの大軍である2万の兵力を持っていました。ところがこれに対する幕府軍は20万という超大軍、この数字は若干というかかなり盛っている気もしますが、事実であれば戦国時代に日本を統一した豊臣秀吉の朝鮮出兵とほぼ同等の動員規模です。

しかも戦国末期から比べて鎌倉時代の人口は3分の2程度であり、また当時は人口の大部分が近畿圏に集中していたことを考慮すれば、関東武士の大半がこぞって京都を目指したことになります。こんなとんでもない兵力差もあったことでこの戦いは幕府軍が勝利、そして勢いに乗った幕府軍はそのまま京都まで攻め上がり、出陣から約3週間で京都制圧に成功しています。

承久の乱の兵力比率図
兵力比率でいうと大体このくらいです。こりゃ勝てませんね。

承久の乱の結果と影響

後鳥羽上皇ら首謀者を島流し

晴れて「承久の乱」に勝利した北条義時でしたが、もちろん首謀者たる後鳥羽上皇を放ったらかしたりはしませんでした。後鳥羽上皇及びその長男である順徳天皇は流刑という形で朝廷から追放、これによって反幕府の立場を取っていた貴族達もすっかり大人しくなりました。ここで全てカタがついて一件落着しましたが、武士にとっての勝利とは「戦果の取得」、つまり勝ちによって得るモノが無ければなりません。

「六波羅探題」の設置と新補地頭の任官

これまでの鎌倉幕府は主に中部地方より東側が主な統治範囲であり、西日本での影響力はやや薄めでした。このことは皇族や貴族が「地頭」職の設置を認めていなかったことが大きく影響していますが、ぶっちゃけ「鎌倉」から離れすぎている土地に影響力を持ちようがなかったことも確かです。ですが「承久の乱」に勝利した鎌倉幕府は皇族やら貴族に対して高圧的に出れるため、「あんなことが今後起きないように」という監視の意味を込めて「六波羅探題」という監視役を常設しました。

この「六波羅探題」という部署は朝廷の監視を目的として設置されてはいるのですが、実際は戦勝した側という優位な立場を背景に、官職の任官や皇位継承にまで介入していたようです。つまり次に天皇になりたい、または高い官職に就きたいといった面々にとっては、この戦乱のせいで鎌倉幕府へのゴマスリがマストになってしまった訳ですね。こうなれば出世を望む者は否が応でも鎌倉幕府に従うことになり、「地頭」職の設置についてもなかなか断るわけにもいきません。ということで北条義時は西日本にも多くの「地頭」を設置していますが、この時新たに補任されたという意味で「新補地頭」と呼ばれています。

実は日本史上で唯一の「天皇家の敗北」

最強の地位を保持し続けた天皇家

錦の御旗の写真

承久の乱でも使われた錦の御旗

この「承久の乱」が起きる前の「天皇家」は無敗であり、「承久の乱」後も負けたことなんか一度だってありません。奈良時代の「壬申の乱」は天皇家の間の争いであり、江戸時代から明治時代にかけての「戊辰戦争」だって新政府軍の側にいました。つまり先程ご紹介した「錦の御旗」が掲げられれば基本的に負け知らずなのですが、この「承久の乱」だけが唯一の例外だったりします。

これまでの日本は基本的に「天皇家」だけが支配階級であり、貴族達はいかに「天皇家」と仲良くなり、あわよくば娘を差し出し血縁的に近づくことで出世を図っていました。つまり「天皇家」ありきで社会システムが成り立っており、その権威性は絶対的なものだったと言えるでしょう。その絶対的な権威の出どころは、日本神話における「天照大御神」の子孫という触れ込みもありますが、ぶっちゃけ戦争にメチャメチャ強かったからに他なりません。戦っても勝てそうにないから誰もが従った、というのが平安時代までの日本社会であり、要するに「天皇家」が無双していたからこそ絶対的な存在だった訳です。

「天皇家」の権威失墜は崇徳上皇の呪いか

「承久の乱」は後鳥羽上皇という「天皇家」の人間が敗北していますが、この戦乱の結果は日本史で非常に大きな意味を持ちます。この戦いは単純に鎌倉幕府が勝ったというだけでなく、これまで誰もが従い続けた「天皇家」、また「天皇家」が主体となる「朝廷」の権威が失墜するキッカケとなってしまいました。そして「承久の乱」後は「天皇家」が日本をリードするケースはほぼなく、後醍醐天皇を除いて明治時代まで歴史の表舞台に現れることはありません。

平安時代末期頃に「天皇家」同士の争い「保元の乱」が起きていますが、この戦いでは崇徳上皇という人物が敗北した側の中心となっていました。崇徳上皇は負けた後に罪を着せられ流罪に処されていますが、亡くなる前に「天皇家」に対して呪いの言葉を放って亡くなったそうです。「天皇家を民の地位まで貶めてやる、民に支配される側にしてやる」という内容だったのですが、実はこれ、「承久の乱」後の「天皇家」の状況にピッタリだったりします。まあ「承久の乱」は「保元の乱」の60年後くらいですので、たまたまだったのでしょうが妙な一致がちょっと怖いですね。

日本三大怨霊の一角・崇徳上皇についての記事はこちらからどうぞ。

「承久の乱」のまとめ

今回の記事では承久の乱によって朝廷の権威が失墜し、幕府による全国統治するところまでをご説明しました。

次回は北条氏が行った御家人統治、また源氏が絶えて以降の将軍に関係するご説明をします。

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