第六天魔王となりて | 崇徳天皇が怨霊になってしまった理由

讃岐に流された崇徳上皇 その他考察

後世にまで影響を及ぼした崇徳上皇

日本三大怨霊の中でも「最恐」

皆さんは、日本三大怨霊と呼ばれる存在を知っていますか?

一番有名なのは、平将門でしょう。京都で晒されていた首が胴体を求めて飛び去ったという伝説は有名です。さらに平将門を祀る首塚を移築しようとしただけで災厄が訪れたという、情報が少なかった時代の話題を攫うには充分すぎるインパクトを残しています。平将門は祟り部門の日本三大怨霊だけでなく、天皇家に仇なす悪人部門「日本三大悪人」にも数えられるマルチな活躍(?)を見せています。

日本三大怨霊についてはこちらからどうぞ。

次のエントリーは、意外な怨霊・菅原道真です。菅原道真公と言えば学問の神様として知られており、どちらかといえば「良いイメージ」を持つ人物でもあります。しかし菅原道真は、急速な出世を妬んだ藤原時平の讒言(ざんげん・嘘の告げ口のことです)によって大宰府へ左遷され、不遇のうちに死去するという悲しい最後を遂げています。

その後怨霊となって京都に現れた菅原道真は、自分を左遷した首謀者たちを次々と呪い殺すという、かなりアグレッシブな怨霊となっています。ちなみにこの「呪い」を恐れた京都の平安貴族達は太宰府天満宮という大掛かりな神社を建て、「神として祀る」ことで菅原道真の怒りを鎮めようと必死の努力をしています。

新年の太宰府天満宮
新年の太宰府天満宮

古代の日本では怨霊がいて当たり前

現代では全く現実的ではありませんが、平安時代では「呪い」はあって当然のものと考えられていました。そのため経済的に余裕がある貴族や皇族は、陰陽師を雇い入れて寺院に進んで寄付するなど、真剣に「呪い」や「怨霊」から身を守る防衛策を検討していました。

そんなファンタジーなご時世の中で「最恐」という称号(?)を得た怨霊こそが、最後に挙げさせていただく今回記事の主役・崇徳上皇です。日本で最も高貴な天皇家の生まれである崇徳が、「最恐」の怨霊と言われるようになったのは何故でしょうか。その理由を見ていくことにしましょう。

崇徳上皇が怨霊となった理由

幼くして天皇に即位した崇徳天皇

崇徳天皇は元永二年(1119年)に鳥羽天皇の第一皇子として誕生しており、普通に育てば皇位継承は確実、という非常に強い立場を持って生まれています。普通に育つだけで天皇に即位できるポジションにいたのですが、当時強い権力を握っていた白河法皇の強い意向により、わずか3歳7ヶ月という政治どころか日常生活すらままならない幼さで天皇に即位しています。

この時期は藤原氏主導の摂関政治から、白河法皇による院政が主流となり始めた政治の転換期でもあります。崇徳の父である鳥羽も5歳で天皇に即位しており、幼い天皇を即位させて裏でガッチリ権力を握る、という構図を作り上げたのも白河法皇です。

崇徳天皇の父は鳥羽天皇?白河法皇?

実は、この崇徳天皇即位には朝廷内である噂がささやかれていたのです。崇徳の母である藤原璋子(ふじわらのたまこ)は、絶世の美女として有名な人物でした。しかしその美貌が故に悪い噂が絶えなかったようで、その噂の一つに白河法皇との関係がありました。

着物の女性

噂の真偽は不明ではあったのですが、問題は崇徳の父である鳥羽もその噂を信じてしまったことです。噂を信じた鳥羽天皇にとっては、圧倒的な権力者である白河法皇に妻を奪われた上に、天皇位から引きずり下ろされたと感じたことでしょう。そのため鳥羽は公然と「この子は祖父の子だ」と言い放ち続け、まだ幼い崇徳天皇に対して冷淡な態度で接していたと言われています。

崇徳が即位したことで天皇位を自身の子供に譲った鳥羽は上皇となり、本来であれば「院政」を行うことができる地位を手に入れるはずでした。ですがこの頃は絶対的権力者の白河法皇がまだまだ存命であり、むしろ崇徳の後見人としてより一層権勢を強めました。その影で鳥羽は院政を行うこともできず、不満を溜め込みながら悶々とした日々を送り続けることになります。

崇徳上皇の系譜図

白河法皇の崩御と鳥羽上皇の復権

立派な青年となった崇徳天皇が23歳の頃に白河法皇が死去すると、鳥羽上皇はそれまでの鬱憤を晴らすかのように権力を振るい始めます。目の上のコブがいなくなった鳥羽は、まずは自身の子かどうかわからない(むしろ違うと確信しているような振る舞いですが)崇徳を天皇の座から引きずり下ろすことを考え始めます。

鳥羽には3人の男児がおり、一番下の男の子として体仁(なりひと)親王という子供が生まれていました。体仁親王は不倫疑惑のあった藤原璋子の子供ではなく、藤原得子(ふじわらのなりこ)という別の女性が生んだ子供です(前の見出しの系譜図参照)。鳥羽は自分の子として確信できる体仁親王を天皇に即位させ、その上で自身に権力が集中する体制を望みました。ですがこの時点で23歳の崇徳はこれからが政治家として本番という時期であり、鳥羽が院政を行うには成長しすぎていました。

院政は「上皇が子供や孫となる天皇を後見する」ことで、結果的に権力を得るというシステムです。もし天皇が自身の考えで行動できるとすれば、院政という仕組み自体が無価値というより存在しないことになります。そのため鳥羽はなんとしてでも崇徳を譲位させ、体仁親王を即位させるために強引な手段に出ます。

「院政」のシステムを使った鳥羽上皇の騙し討ち

鳥羽上皇は崇徳天皇に、体仁親王を養子にするよう提案をしました。次代の天皇を養子に迎えた上で譲位すれば崇徳は新たな天皇の「父」となるため、後見人として院政を行うことができるという大きなメリットがあります。この提案を崇徳は喜んで承諾し、譲位の儀式の日を楽しみに待っていました。

譲位の当日に儀式が始まると、崇徳は父・鳥羽に拒絶され続けていたことを改めて思い知らされることになります。儀式に用いられた文書では、体仁親王は崇徳の「皇太子」ではなく、「皇太弟」として明記されていました。

「院政」は上皇の「息子」や「孫」を後見するという建前であるため、「弟」である体仁親王が即位するということは父・鳥羽が「院政」の主体者となり、崇徳は何の権力も持たない置物になることを意味します。崇徳にとってはそうならないために体仁親王を養子として譲位する提案を飲んだのですが、鳥羽はそんな崇徳の裏をかき、自身だけが権力を手に入れる形で事を進めています。こうして近衛天皇が誕生し、崇徳は権力を全く持たない上皇となってしまいました。

崇徳上皇 政治から離れて和歌に没頭

父・鳥羽上皇の冷酷な態度に絶望したのか、崇徳上皇は和歌の世界に没頭し始めます。天皇に在位中も歌会を頻繁に催していた崇徳は、自他ともに認める和歌の達人でもありました。崇徳は和歌の才能に恵まれていたようで、百人一首や他の歌人が選集した歌集にも崇徳上皇の歌が採用されています。

瀬を早み 岩にせかるる 瀧川の われてもすえに あはむとぞ思ふ(百人一首)

また『久安百首』という歌集を作成したり、『詞花和歌集』を撰集するなど、天皇位を退いた後は和歌に対して情熱的に活動しています。3歳という幼い頃から政権闘争のど真ん中にいた崇徳上皇にとって、和歌の世界に没頭していたこの時期だけが心安らかな時期だったのではないでしょうか。

滝の写真

崇徳上皇「呪い」を掛けた疑惑を掛けられる

しかしこの和歌に傾倒していた安息の時間も、近衛天皇が17歳の若さで崩御してしまったことで終わりを告げます。近衛天皇にはまだ子供がいなかったため、崇徳上皇の息子である重仁親王が有力な皇位継承候補とされていました。しかし、ある噂がまことしやかにささやかれるようになります。

「近衛天皇は呪い殺されたのだ」

ただの噂ではありますが、呪いの首謀者は譲位の件で騙された崇徳上皇とされました。このあくまで噂でしかない話を知った鳥羽上皇は、すでにガッチリと作り上げていた院政の強権を行使、今回も崇徳の弟にあたる雅仁親王(後の後白河天皇)を即位させてしまいます。ただの噂に過ぎない話も、長く確執を続けてきた親子の間では看過できないものとなってしまっていたのです。

父・鳥羽上皇の死去

そうこうしているうちに崇徳上皇の父・鳥羽上皇が病に倒れ、もはや助かりそうもない危篤状態に陥ります。崇徳にとってはいくら確執があったとはいえ、やはり肉親の危篤を心配したのでしょう、鳥羽のもとに面会へ出向きました。しかし鳥羽は病床の中でこの面会を拒否し、結局親子の間の溝は最後の最後まで埋まることなく、崇徳の想いは宙ぶらりんのまま亡くなってしまいます。

鳥羽がまだ存命中に側近に伝えた命令では、崇徳に自身の遺体を見せないように、という死後の面会すら許さない徹底したものでした。この命令の内容を聞いた崇徳は落胆し、そして怒りに震えながら亡くなった鳥羽上皇の元を後にしました。

棺桶のイラスト

保元の乱の首謀者に

鳥羽上皇が亡くなった直後、京都にまた新たな噂が流れ始めます。

「崇徳上皇と左府(藤原頼長)が共謀して軍を集め、国を傾けようとしている」

この噂は不思議なほど多くの人に信じられたようで、崇徳は父を失って悲しむ間もなく、あっという間に謀反人に仕立て上げられてしまいます。急転直下で謀反人とされた崇徳は、同じように謀反人とされてしまった藤原頼長と結託し、結局噂通りに挙兵するハメになってしまいます。この崇徳が後白河天皇に対して挙兵した兵乱こそが、後に平清盛が台頭するキッカケとなった「保元の乱」でした。

この戦いには崇徳上皇の元にも源氏や平氏など多くの武士が集っていますが、力及ばず崇徳側が破れています。一旦は逃亡することに成功した崇徳は乱が鎮まってから自ら出頭しましたが、後白河天皇は乱の首謀者を許すことはありませんでした。そして崇徳は朝廷への謀反人として、讃岐国(現在の香川県)への流刑を受けることになります。天皇・上皇に在位している人物に流刑が執行されることは日本史上でも非常に珍しく、同様のケースとなる藤原仲麻呂の乱から数えて約400年振りの大事件となっています。

崇徳上皇の祈りと呪い

保元の乱を描いた『保元物語』の中で、崇徳上皇が讃岐へ配流されてから仏教へ傾倒していったことが記述されています。崇徳上皇は五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)という膨大な量の経文を自らの手で書き写し、戦没者の供養と反省の証として朝廷へ送りました。

この崇徳上皇が供養を祈願し、そして後悔の念で必死に書き写した経文に対して、後白河天皇は呪詛が書いてある可能性があるということで受け取りを拒否、そして崇徳上皇へ送り返すという行動に出ます。後白河天皇からすれば「まだ許していないぞ」という意思表示だったのかもしれませんが、送り返された崇徳上皇にとっては絶望するに充分な出来事だったでしょう。

自分の気持ちを踏みにじられた崇徳上皇は激怒して自身の舌を噛み切り、口から流れ出す血を指ですくい、送り返された経文に次のような文を書き加えたとされています。

血のイメージ

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

「この経を魔道に回向す」

第六天魔王波旬となって皇室を民の地位にまで落とし、民に支配される側にしてやる、そしてこの経文を魔の世界に捧げてやる。

思いつく限りの怨みと呪詛の言葉を書き連ね続けた後、力尽きた崇徳上皇は天皇家への恨みを募らせながら崩御します。

崇徳上皇は崩御するまでの間は爪や髪の手入れなど一切しなかったため、伸び放題伸び続け、さながら夜叉のような姿に成り果てていたと言われています。また崇徳上皇が崩御した後に棺に収められると、蓋を閉めているにも関わらず大量の血が溢れ出たという、オカルトホラーな話まで伝わっています。

第六天魔王となりて皇を取って民とし民を皇となさん

崇徳上皇が崩御した後、後白河法皇に近しい人物が相次いで亡くなり、比叡山延暦寺の強訴や安元の大火・鹿ケ谷の陰謀など、世間を混乱に陥れる大事件が続くようになります。後白河天皇ら朝廷の権力者たちはこの事件を崇徳天皇の祟りとして恐れ、それまで「讃岐院」とされていた崇徳上皇の諡(死後の名前を意味します)を「崇徳院」と改め、崇徳院廟を建立して祀るようになったのです。崇徳院廟を建てて怨霊を鎮めたためか、これ以降は大きな事故や事件があまり起きなくなっています。ですがこの怨念は700年もの間続いたという見方もできてしまうのが、崇徳上皇のかなり真剣に怖いところでもあります。

保元の乱の後には平清盛が急激に台頭し始め、後白河天皇に代わって日本の政治を取り仕切るという、いわゆる武士の時代へと急速転換しています。平清盛以降も武士達は生まれた身分に関係なく暴力で朝廷を圧倒し続け、江戸幕府が倒れ明治政府が発足するまでの700年間、天皇家はずっと日陰の身に追いやられ続けています。

日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん

(第六天魔王波旬となって皇室を民の地位にまで落とし、民に支配される側にしてやる)

源氏や平氏など武家となった氏族は、元は皇族とは言え臣籍に降りた、つまり一般人となった一族です。天皇家が武士に従うようになった平清盛台頭後の日本は、まさに崇徳上皇の呪詛の言葉そのものと言えるでしょう。

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まとめ 噂話に翻弄され続けた歌人・崇徳上皇

崇徳上皇自身はこれといったアクションを起こさぬままに、朝廷内での噂話で全て事が進んでいることが非常に興味深いと筆者は考えております。貴族や皇族達はごく当たり前のように噂を垂れ流し、また噂話で意志まで決めつけられてしまうという、いかに他人からの評判を気にしなければならない社会だったかを窺い知ることができます。生まれた時点で父が誰かという問題を抱えていた崇徳上皇は、噂で構築された社会からは槍玉に挙げられやすく、また味方を作りづらい状況にあったことも確かでしょう。

和歌に優れた崇徳上皇は非常に感受性が強く、またとても純粋であったが故に、様々な事件に巻き込まれ悲しみのうちに亡くなった人物のように思えます。どれほど嫌われ冷たくあしらわれても父である鳥羽上皇を信じ、和歌の世界に没頭するほど悲しみに暮れ、何もしていないのにあらゆる悪事の首謀者のように見られてしまう。それでも保元の乱後には戦死者を弔うために、祈りを込めながら写経に没頭する。崇徳上皇の生涯には誠実であるが故の切ない印象がつきまとい続けており、華やかな平安時代の終わり際を象徴しているかのようです。

崇徳天皇は自身が書き写した経文に呪いを残し、もしかしたら当時だけでなく後世まで天皇家に復讐したのかもしれません。ですが崇徳天皇の歌にはいずれの時期にも恨み節などなく、気品に溢れた優雅な和歌を数多く現代にまで残しています。

桜の花
桜についての歌も多く残っています

何でも商品化される現代日本では、怨霊となった崇徳天皇といえどもスマホケースになってしまいます。

ですが全体的に暗めな色合いの中で、崇徳帝と百人一首の和歌が妙なシブさを醸しています。

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参考サイト様

カクヨム 崇徳天皇~史上最強の怨霊と守護神~(日本史・平安時代)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881574141/episodes/1177354054881614799

まなれきドットコム

https://manareki.com/sutoku_emp

令和和歌所 崇徳院~ここではないどこかへ~

https://wakadokoro.com/learn/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E9%99%A2%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%81%B8%EF%BD%9E/

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