上皇を中心とする政治体制は院政と呼ばれます

白河天皇のイラスト 用語集
白河天皇(白河上皇)のイラスト

院政とは

「院政」とは天皇摂政関白ではなく「院」、つまり上皇が中心となった政治体制を意味しています。次世代に皇位を譲った天皇は上皇と呼ばれますが、この上皇は別称として「院」とも呼ばれていました。「院」という言葉は本来は大きな建物を意味していますが、天皇が住まう御所が「院」と呼ばれ、転じて御所の主である上皇が「院」と呼び表されるようになっています。平安後期に藤原北家が衰退して以降、武家政権が立ち上がった鎌倉時代までの間は「院政期」とも呼ばれています。

病気を治すための大きな建物ということで「病院」ですね

藤原氏主導の摂関政治から院政へ

天皇をサポートする職位を独占していた外戚の藤原氏

日本の頂点に位置するのは本来なら天皇であるはずなのですが、律令では「上皇は天皇と同等の権限を持つ」として位置付けられていました。とは言え「天皇は終身制」というのが基本であるため、この条項は本来であれば形式的な決まり事でしかなかった訳です。

ところが平安時代の中期を境にして、天皇位を若い皇太子に生前譲位するケースが増加しました。これは天皇が元気なうちに権力を若い世代に移行する目的があったことも事実ですが、「若くて頼りない天皇」を必要とした摂関家、つまり藤原北家の要望でそうなったケースが大半だったりします。

藤原道長に代表される藤原北家はこの「若くて頼りない天皇」を補佐するためということで、摂政や関白という権力の座に君臨し続けました。その根拠は天皇の「外戚」という立場であり、つまり天皇の母方のお祖父ちゃんが孫を助けるよ!、という建前で数代に渡ってやりたい放題をしていた訳です。とは言え実は院政も似たようなもので、要は「誰が天皇を補佐するか=権力を握るか」という問題だけだったりします。

藤原氏を外戚としない後三条天皇の登場

1,068年、後三条天皇が即位したことで藤原北家の優位性が大きく崩れました。この後三条天皇は外戚を持たない、つまり藤原氏のお祖父ちゃんがいない天皇であったため、藤原北家が摂政や関白になる根拠が一切なかった訳です。実は外戚を持たない天皇というのは170年ぶりの出来事であり、天皇家からしてみれば藤原北家から権力を奪い返す千載一遇のチャンスだった訳ですね。

この降って湧いたチャンスに後三条天皇は即刻でリベンジ開始、「延久の荘園整理令」で藤原北家が不当に持っていた荘園を回収しています。そして次に即位した白河天皇も天皇家主導の政治を志向し、早めに堀河天皇へ譲位して自らは上皇となり、若い堀河天皇を補佐するという建前で政治の主導権を握り続けました。ここで始まった「院」による政治、つまり「院政」は平清盛の登場で一旦衰退していますが、清盛が病で倒れると同時に後白河法皇による院政が最スタートしています。

後白河法皇のイラスト
ややこしいですが白河法皇と後白河法皇は別人です

院政は日本独自の概念です

日本の価値観は大体中国からの輸入です

日本は古代の時代より中国からの文化流入が盛んで、政治の制度や農耕を含む技術、そして儒教や仏教といった「ものの考え方」までも輸入されていたりします。どこの国でも目上の人を敬おうみたいな考え方は存在していますが、年配者や上長への敬意を持たなければならない、と明確にされているのは儒教の影響がある国々ならではです。また個人よりも家、つまり家系の存続を優先する「家制度」という概念も中国からの輸入であり、我々現代人が意識していない所にすら中国の文化が根づいています。

中国にはなかった「隠居した権力者」

そんな中でも日本オリジナルの概念が存在しており、その内の一つが「隠居」を巡る考え方だったりします。律令では天皇位を譲り渡した、つまり隠居した上皇も天皇と同等の権限を持つとされていますが、このことは中国を含め世界的に見ても非常にレアな考え方であり、普通は権限ごと譲るのが一般的です。まあ現代日本人から見ても、普通は隠居したら権限を失うのが当然と思ってしまいますが、平安時代当時の考え方では「隠居しても同じ身分」という考え方だった訳ですね。

ですが平安後期の院政だけでなく江戸時代の後期頃には隠居した将軍、いわゆる大御所が権力を振るった例もあり、なぜか日本では「隠居してからが本番」という謎の考え方が存在していたりします。なぜこんな考え方が存在しているかを知るにはまだまだ勉強不足ではありますが、このことが他国にはない日本史独自の深みをもたらしていることもまた事実でしょう。

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