一夫多妻制における正妻の最初の男児・嫡男

用語集

嫡男とは

正妻から産まれた長男を意味します

古代から中世、そして近世までの日本は一夫多妻制でしたが、正式な妻である正室から産まれた最初の男児は「嫡男」として扱われていました。基本的には「嫡男」が相続に関して優先的な立場を持ち、後継者として父の地位を継承することになります。正室以外の女性が先に男児を産んでいた場合でも、正室が産んだ男児が「嫡男」として扱われるため、「長男」と「嫡男」が異なっていたケースも非常に多くあります。

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一夫多妻制の中で高貴な血脈を保つために

重婚が禁じられている現代では全く馴染みのない単語ですが、「嫡男」は一夫多妻制の時代であったことと、貴族という血統を根拠にした特権階級ならではの発想だったりします。一夫多妻では妻の身分もそれぞれ違うことになりますが、身分の低い女性から産まれた男児が「」の跡継ぎということになれば、「家」の格が落ちると考えられていました。

ですが貴族にとっては血筋こそが出世の糸口であり、身分を保証してくれる大事なファクターだったため、その血脈を誰もが「高貴ですね!」と感じる純度に保ち続ける必要があった訳です。要するに「良質な血統」を維持することで、一族が繁栄できるようにするために「嫡男」という考え方があったということですね。

高貴な人×高貴な人=高貴な人ということですね

日本史における嫡男の扱い

律令の蔭位制で優遇された嫡男

そもそもなぜ正妻の長男が優先的な相続権を持っていたかと言えば、このことは飛鳥時代末期から始まった大化の改新に起因しています。この政治改革は唐の律令制をモデルとして進められており、唐では父の位に応じた位階を嫡男に与える制度があったのですが、これをそっくりそのまま輸入したという訳ですね。この制度は日本で「蔭位の制」と名付けられていますが、意訳するならば「父のお蔭で位階をもらえる制度」くらいの意味になります。

ですが飛鳥時代当時の日本は一世帯単位での活動よりも、もう一つ上の括りとなる氏族単位で行動を決めるケースが大半でした。つまり親戚内での話し合いで「誰を出世させよう」だの決めていたため、「家」を基準とする「蔭位の制」は当時の風潮からすれば、ちょっと的を外した制度だったようです。そのため結局「蔭位の制」は全く機能せずに廃れてはいますが、「嫡男が家を継ぐ」という概念だけが後の時代に持ち越されています。

古来より続く日本の社会システム・家制度についてはこちらからどうぞ。

意外と実力主義な平安時代の家督相続

平安時代頃になるとようやく氏族よりも一個の「家」が強調されるようになり、それに伴って家督を相続するべき「嫡男」の座を巡る競争が繰り広げられています。というのもこの頃は血筋だけでなく個人の能力がモノを言う時代だったようで、親は子供の能力を見極めた上で、最も才能のある男児に「立嫡の儀」を行い「嫡男」の座を与えていました。要するに「正室が産んだ最初の男児」が必ずしも「嫡男」ではなかった訳で、平安時代では最初に産まれたからといって安泰ではなかった訳ですね。

この時期の朝廷は「慣例」が重視されていたため、過去に詳しい者の方が優位な立場を得ることができていました。そのため親は「嫡男」に対してのみ代々受け継いできた記録文書を譲り渡し、その知識を活用して順調に出世できるよう願いました。もちろんその「嫡男」が順調に出世した後に男児が産まれたのならば、またその子供達の中から優秀な男児を選び、「家」が代々守ってきた記録を継承させることになります。つまりこの発想はあくまで「家」を残すためにあった訳で、土地や財産は兄弟にある程度分散させたとしても、社会的な地位は「嫡男」に受け継がせようとしていたことになります。

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鎌倉時代の後期からは嫡男が一括相続

鎌倉時代に入った直後はまだまだ平安時代の延長でしかなく、人々の考え方や慣習はあまり変わっていなかったようです。家の代表となる嫡男が父親から社会的な地位を継承し、そして土地財産は分割して相続するのが割と一般的でした。例としては幕府創立に関わった有力御家人、大江広元中原親能が亡くなった際にはそれぞれの子供にキッチリ土地が与えられており、その子孫がそれぞれ戦国時代に名を馳せる毛利家や大友家へと成長しています。

ところが鎌倉時代も後期に差し掛かると、嫡男が一括して財産を相続するケースが増加していきました。このことは元寇というハードな国難が訪れたこともあり、武士にとって「家」を存続させるのが難しくなったことが主な理由でしょうか。このことは鎌倉幕府が倒れて以降も続き、室町幕府が興った後も変わらず続いていたようです。そして地位と財産を嫡男に集中させていった結果、守護の中には肥大化し守護大名への成長を遂げた例も多くあります。

下剋上の時代においては例外多数

武田信玄のイラスト
父・武田信虎を追放して国主になった武田信玄

応仁の乱を経て日本の社会秩序が崩壊し始めると、日本の古代から続く相続の制度自体が揺らぎ始めています。時代によって変遷はあれど、これまではあくまで親から認められた子供が相続する、という原則は基本的に守られていました。ですが「下剋上」という上下秩序を無視した風潮が流行り始めると、嫡男による相続どころか親を追い落として自らが家長の座に立つ者すら現れています。

こういったケースの有名どころとしては甲斐国(山梨県)の武田信玄が挙げられますが、お隣の美濃国(岐阜県南部)でも斎藤道三を嫡男の斎藤義龍が倒した例もあったりします。戦国時代は大名同士の戦いも熾烈ですが、内輪の戦いも激化していた訳ですね。

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