日本三大美人 | 小野小町・常盤御前・静御前

小野小町の雛人形 その他考察
小野小町の雛人形

日本史を彩る美女?日本三大美人

今回ご紹介する小野小町・常盤御前・静御前を調べて思ったことは、「美人感が全然ない」ということでした。この3人は現代から1000年も昔、平安時代から鎌倉初期の人物ということもあり、肖像どころか記載されている資料もほとんどありません。

しかもその僅かにある資料にも美人の根拠となる記載はないため、もはやなぜ美人と言えるのかは完全に謎です。どうして美人扱いされているのか分からない日本三大美人、その理由はほとんどありませんが、とりあえず一人ずつご紹介したいと思います。

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平安時代の女流歌人・小野小町

美人の代名詞となった美人さん

「日本史上で一番の美人は誰?」と言われたならば、真っ先に出てくる名前はこの小野小町ではないでしょうか。現代でも美人さんに「〇〇小町」なんて呼び名が付くこともたま~にありますので、この女性が「キレイな人の代名詞」として認知されている訳ですね。

小野小町は平安時代初期の女流歌人としても名を知られており、「六歌仙」やら「三十六歌仙」にも名を連ねています。つまり美貌と才能を兼ね備えた、まさに才色兼備な女性設定ということです。

小野小町と百人一首
百人一首にも入る小野小町の短歌

名前以外は全て謎です

とは言え、小野小町についての情報は名前以外に分かっていることはなく、現代に残っている肖像も実は全て後世の作です。つまり肖像を描いた画家さんも想像で書いただけですので、顔形どころかどんな着物を着ていたかすら全く分かっておりません。

小野小町の肖像
この小野小町も江戸中期の作です

ちなみに小野小町という名前の由来についても実は全然解明されておらず、小野一族からの出自説、または地名に由来している説など諸説紛々です。しかも現代においても小野小町の生誕地だの最期の地を謳っている地域は非常に多く、なんと全国で10箇所以上が名乗りを上げていますので、もはや伝説上の女性と言っても過言ではないでしょう。

源義経の母・常盤御前

1000人から選ばれた美女中の美女

常磐御前(ときわごぜん)は武士の時代が盛大に始まった時期、平安末期から鎌倉初期を生きた女性です。この女性は当時の源氏の棟梁たる源義朝の側室として日本史に登場しますが、かの有名な源義経の母としても知られ、なおかつガッチリ目の美人エピソードを持っています。

常盤御前の浮世絵
浮世絵に描かれた常盤御前

もともと近衛天皇の后の召使い的な立場だったのですが、その選考の際に京都中から1000人の美女が集められ、その中で最も聡明な美人ということで常磐御前が選ばれたそうです。これは小野小町も同様なのですが、両者ともキレイというだけでなく、知的要素も兼ね備えている設定なところがちょっと興味深い気がします。

平清盛に子供の助命を願う

旦那さんである源義朝が平治の乱で敗北したため、常盤御前と3人の男の子たちは平清盛にとっ捕まってしまいました。すると常磐御前が「殺すのであれば最初に私を」と自ら進み出たため、平清盛は母の迫力に押されたのか、4人全員を処刑することなく開放しています。

敵将の男児というのは将来的に敵になるケースが多いため、武士の慣習として処刑される場合が大半です。ところがこの平清盛は源頼朝(源義朝の嫡男)も伊豆への流罪で済ませているため、案外情け深い性格だったのかもしれませんね。

ちなみに、この続きとして子供を助けてもらった常盤御前と平清盛のラブストーリー、みたいな後日譚もあったりします。

平清盛のイラスト
常盤御前と良い仲疑惑の平清盛

源義経の愛妾・静御前

美しき白拍子の踊り子

常盤御前と源義朝の子供である源義経の妾になった女性、それがこの見出しでご紹介する静御前です。つまり源義経は日本三大美女の一人を母に持ち、その上でもう一人と結ばれたということで、かなり美人に恵まれていたと言えるかもです。

静御前の肖像
後世に描かれた静御前、白拍子舞は刀を差す男装が特徴的

静御前はもともと「白拍子(しらびょうし)舞」の踊り子をしていた芸能民ですので、身分的にも小野小町や常磐御前など貴族層とは一線を画しています。まあ言ってしまえば平民出身ということになりますが、この女性は他の2人より遥かに重く悲しいエピソードを持っています。

生後間もない赤ちゃんを・・・

源平合戦で英雄となった源義経でしたが、戦後は源頼朝に背いたという理由で一転してお尋ね者にされました。その後源義経は奥州藤原氏によって討ち取られてしまいますが、残された静御前も捕縛され、源頼朝の元へと連行されています。とは言え源頼朝は静御前自身を罰するつもりはなかったのですが、ここで問題になったのはお腹にいた子供です。

この子が女の子であれば全く問題ないのですが、もし男児だった場合には、当時の慣習に照らせば処分せざるを得ません。ということで、生まれてみるまで待ってみようということになったのですが、悲しいかな、産声を上げたのは元気すぎる男の子でした。

静御前は産後の疲労も忘れて泣き叫んだそうですが、その手から奪い去られた赤子は鎌倉の由比ヶ浜に投げられてしまいました。その後の静御前は母とともに京都へ戻ったということですが、それ以降は消息不明となっています。

鎌倉由比ガ浜の写真
現代の鎌倉由比ヶ浜は海水浴場としても有名です

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