応仁の乱で大きく弱体化した室町幕府
応仁の乱があらゆる階層の人間を巻き込んだことにより、日本の秩序はこれまでと大きく変わることとなりました。元から弱かった室町幕府の権威はさらに弱体化、それに伴って全国各地の守護大名が相対的に力を増しています。
現代の日本史解釈では今回の記事でご説明する「明応の政変」からを戦国期の始まりとすることが多いのですが、当ブログでは国人や守護代の乗っ取りが起こり始めた応仁の乱以降を戦国時代としています。他の資料とは解釈が違う場合があるため、予めご了承ください。
「明応の政変」前夜
応仁の乱後の室町幕府
日本中を巻き込んだ応仁の乱が収束した頃、室町将軍は8代将軍・足利義政と日野富子との間に生まれた子供、9代将軍・足利義尚(よしひさ)です。まあ応仁の乱は最終的にグダグダのまま終わっていますが、どちらかと言えば足利義尚を支持していた東軍が優勢だったようで、この戦果を反映した結果そうなった訳ですね。
ちなみに西軍は足利義政の弟・足利義視(よしみ)を支持して戦っていたのですが、負けてしまって将軍にもなれなかったことで、この足利義視は居心地が悪すぎて京都にいられなくなってしまいました。ということで、足利義視は息子の足利義稙(よしたね)と逃亡し、共に地方へと落ち延びることになります。
応仁の乱についてはこちらからどうぞ。
足利義尚の死去と将軍候補者
応仁の乱の中で幼くして将軍に就任した足利義尚でしたが、戦乱が収束する頃には立派な青年くらいになっていました。自分の考えで動けるようになった義尚は、幕府や貴族の領地を横領していた守護大名を討伐しに行くのですが、討伐が長引いた中で病死してしまいます。急な将軍の死去に慌てた者たちは次の将軍を決めるために、まず候補者を挙げていくことになります。
候補に上がった人物は、管領である細川政元や8代義政(すでに隠居中)が推薦する足利義澄(よしずみ)と、日野富子が推薦する足利義稙の2人でした。後継者を誰にするかという問題は毎回戦乱の火種になってきましたが、今回は決めている間に義政が亡くなってしまったため、10代将軍に足利義稙就任が決定しました。
ただしこの時義稙を将軍にするにあたり、義稙の父である義視を出家させることが条件とされました。仮にも将軍後継者だった義視がいることで、幕府政治に口を出されての混乱を防ぐためだったのではないかと筆者は思います。それにしても出家している所を将軍後継者として呼び戻された義視ですが、また出家させられてしまうのはちょっとかわいそうな気がしてしまいますね。
足利義視の死去
無事に足利義稙が朝廷から征夷大将軍に任命され、弱まったなりに幕府が安定するかと思いきや、出家していた義視がここで病死してしまいます。将軍が亡くなったわけではないのですが将軍義稙にとっては父親であり、また応仁の乱を生き延びた多くの経験を持つ頼れる人物がいなくなってしまったことで、将軍就任直後から途方に暮れることとなりました。
悩み、そして頼れる者がいない状態をキッチリと自覚した義稙は自身の影響力を強めるため、当時はそこら中にいた反抗的な守護大名討伐を決意します。
管領・細川政元の反乱計画
足利義稙は各地の討伐を順調に成功させていき、目論見通り幕府内での発言権を増していきました。近畿周辺の守護大名達に号令を出し、従わせながらの討伐を成功させることで、自信と強さを身につけていったことでしょう。
そんな順調な滑り出しを見せた義稙でしたが、この状況を管領細川政元は冷ややかな目で見守っていました。細川政元は義稙の出兵要請にも応じず、むしろ討伐自体に反対するスタンスをとっています。
そもそも細川政元は義稙が将軍であることに納得しておらず、むしろもう一人の後継者である足利義澄を後援していたんですよね。義稙にとっても細川政元は味方というよりも身近な敵であるため、反対意見を振り切って自身の意見を通し、そして政元に対抗できる味方を作る方向で動いていました。
そんな義稙の動きを見た細川政元は、元々義澄を後援していた者達や応仁の乱で義尚側についていた(=義視の敵になっていた)者達と結託し、さらに義稙に不満を持ち始めた守護大名達をかき集めて反乱を企て始めます。この時の反乱計画には、なんと後継者選びの段階で義稙側にいたはずの日野富子すら加わっていました。
明応の政変
京都制圧と11代将軍義澄
反乱計画など知らない義稙は順調に討伐を成功させ続け、次の討伐をしようと軍を出発させました。ここで味方を募りタイミングを図っていた細川政元はついに挙兵し、義稙を支援していた関係者の邸宅を攻撃することで明応の政変は幕を開けます。
義稙がおらず軍も手薄になっていたため、政元の攻撃を受けた関係者達は無抵抗のまま降伏しました。こうして政元のクーデターはあっさりと成功を収めることとなります。そして京都全体を制圧した政元は義稙がいない間に、11代将軍に義澄が就任することを宣言しました。
誰も足利義稙に味方しない
細川政元によって足利義澄が将軍に立てられた知らせは、すぐに足利義稙が率いていた討伐軍にも届きました。当然のように激怒して細川政元へのリベンジを計画した義稙でしたが、義稙と一緒にいた諸大名の気持ちはまた別だったんですよね。
このまま義稙に従い続けて細川軍と戦争をするか、または細川政元と義澄に従うかの2択を迫られている状態だった諸大名達でしたが、そんな折に政元から味方になるよう誘いの書状が送られてきます。そして書状を受け取った大半の大名達はあっさり義稙を見限り、細川政元に味方するために軍を引き連れて京都へ引き上げていきました。
大半の大名達が去ってしまい途方に暮れていた義稙に、細川政元は当然のごとく軍を向けて攻撃を開始します。義稙も抵抗はしたのですが、やはり多勢に無勢ということであっさり敗北し、降伏することとなりました。
そして降伏後に京都へ送られた義稙は、細川政元によって幽閉されることとなり、幕府将軍が惨敗する形で明応の政変は幕を閉じます。
明応の政変の影響
この事件は家臣であるはずの細川政元が、現職の将軍を引きずり下ろし新しい将軍を立てるという、とんでもない反逆行為がまかり通ってしまった事件でもあります。本来であれば諸大名の支持を得られるような行為ではなく、むしろ討伐案件になるべき事件でしょう。ですが大名達は一斉に義稙を見限って政元にこぞって味方しており、このことはいかに足利家が弱体化していたかを表していると思います。もうこの時点で諸大名の気持ちとしては将軍なんかどうでもよく、力のある政元に味方するほうが得、という判断だったのでしょう。
ここで細川政元が管領として権力を握り込み、そして今後は細川氏が幕府内を牛耳ることになります。義稙が連れていた足利家直属の軍も壊滅したため、新しく就任した11代義澄以降の将軍にも権力などまるでなく、細川氏の影のようにひっそりと存続することとなります。
そして明応の政変が日本全国に知れ渡ると、全国各地で「下剋上」ブームが巻き起こります。上の立場の人間がやることは、下の立場の人間も真似するものですよね。どのようないきさつがあったにせよ、家臣である細川政元が将軍を打ち破ってしまったんですから。これも立派な「下剋上」です。
今回のまとめ
今回の記事では、戦国時代初期の出来事として明応の政変についてのご説明をしました。
次回は政変で勝利した細川政元の行く末と、その後の細川氏族内での内輪もめについてのご説明をします。
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