日本を大きく変えた「応仁の乱」
今回の記事では室町幕府の崩壊のキッカケとなった、応仁の乱についてご説明します。
室町幕府は15代将軍・足利義昭まで続いていますが、応仁の乱後はほぼ形ばかりの存在となっており、支配力の低下とともに各地で私闘が行われる戦国時代に突入しました。そのため室町幕府が存続する中で戦国時代が始まっており、時代呼称として室町時代と重複している期間も結構長かったりします。当ブログでは応仁の乱後を戦国時代としていますが、違う解釈の人も多くいることを予めお断りさせていただきます。
それでは8代将軍に足利義政が就任するところから見ていきましょう。
8代将軍・足利義政
将軍になる予定ではなかった義政
当時の足利家には後継者争いを避けるため、嫡男以外は強制的に出家させる慣習がありました。足利義政は6代将軍・足利義教の2番目の男児として生まれているため、京都の寺で僧侶として一生を終えるはずでした。周囲の人間もそのつもりでいたのですが、兄である7代将軍・足利義勝が若くして亡くなってしまったため急遽後継者となり、8歳の幼さで「室町殿」の呼び名で呼ばれることになります。ちなみに鎌倉幕府における鎌倉殿と同じ様に、室町殿という呼び名は将軍家の家長であることを示しています。
そして義政はしばらく後に、改めて8代将軍に就任することになります。
足利義満への憧れと現実
足利義政は祖父にあたる3代将軍・足利義満に強い憧れを持っていたのか、同じように幕府や朝廷を意のままにしたいという願望がありました。そのため各地で起きた反乱や家臣同士のいざこざに対して積極的に介入し、解決を試みています。また当時は守護大名達が幅を利かせていた幕府政治にも、側近たちと共に義政自身の意見を通すなど、かなりの頑張りを見せていました。
ですがそもそも力を持たない足利家にとっては、義満の時代が奇跡のようなものでした。大きな力を持つ守護大名は好き放題に振る舞い、各地では内紛が起こり続けます。いくら介入しても収まることのない情勢に義政はウンザリしてきたのでしょう、幕府政治に対して段々と興味を失っていくことになります。
足利義政の後継者問題
足利義政には日野富子という正妻がいました。2人の間に一度は男児が生まれたのですが、生まれたその日に亡くなってしまいました。その後も2人の間に男の子が生まれなかったため、室町幕府としては将軍の後継者を他に用意しておく必要がありました。
足利義政には弟の足利義視(よしみ)がおり、義政の幼い頃と同様に寺に入って出家している状態でした。義政は義視を寺から連れ戻し、自身の後継者として正式に発表しました。
ところがそれから2年後に、富子が男児を出産します。すでに将軍の後継者は義視と決まっていたため、富子の子供は後継者から外されるのが道理です。ですが富子は、生まれたばかりの男児が将軍になることを望みました。義視が後継者であることは決まっていたため、無理矢理義視を後継者から引きずり下ろす必要があります。そして富子は幕府内の実力者である山名宗全に協力を頼み、山名宗全はこれを引き受けます。
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双方一歩も譲らず闘争へ発展
一方の義視は、富子と山名宗全が手を組んだことを聞きつけ、対抗するために当時の管領である細川勝元と手を組みます。細川勝元としては義視を後継者とすることに関与していたため、体裁を保つためにも義視を将軍にする必要がありました。
こうして後継者問題で幕府内は2つに割れて大揉めに揉めていたのですが、当の義政はどちらともつかない態度を取り続け、毎日短歌を読むなどしていました。義政がとっくに幕府政治への意欲を失っていた中で、両陣営はついに戦争へと発展します。
将軍の後継者を巡る全国的な戦乱・応仁の乱
京都市街での小規模な戦いから
1467年に戦争が始まった当初の両軍の位置関係から、細川軍が東軍、山名軍が西軍と呼ばれていました。山城国(現在の京都府)に近い近畿地方と四国の守護に細川氏が多くいたため、開戦からしばらくは東軍が有利な状態でした。逆に西軍に付いた守護は中国地方や北陸といった、細川氏の拡大に対して懸念を持つ守護大名達ですね。
東軍と西軍は京都に軍を集めていたために、京都の市街で戦闘が始まることになりました。両軍ともに一歩も引かず、段々と各所から援軍が駆けつけてくるにつれて戦線は山城国全体に広がっていきます。
応仁の乱が全国的な戦乱に発展
ことの発端は将軍後継者を決めるための戦いだったのですが、細川勝元と山名宗全という幕府内の大物が絡んだことによって、ただの一地方の戦乱では事は収まりませんでした。
勝った側に味方していれば、戦乱が終わった時に恩恵に預かることができますから。そのため各地で両陣営に参戦を表明する武士が続出します。例えば元々細川氏と仲のよかった人が東軍に参戦するとします。するとその人と敵対していた人は、自然と西軍に味方することになります。こうした連鎖によって戦乱が全国的に広がっていったんですね。
中には後継者戦争の名を借りて、私的な戦いを仕掛ける人も数多くいました。そういった人にとっては東軍か西軍などさほど問題がないため、東軍と西軍を行ったり来たりするツワモノもいました。
足利義政の弟・足利義視が西軍に
日本中で戦いが始まってから1年程経った頃、将軍義政の気持ちに変化が起こり始めました。最初は自分で立てた後継者ということもあったのか、義視に味方する形で東軍を支持していたのですが、段々と自分の息子である義尚を支持するようになってきます。立場がなくなってしまった義視は、京都にいても仕方がないので出家しようと比叡山に向かったのですが、ここで義視に目をつけたのが西軍でした。
義視を呼んだ西軍は、なんとここで義視を新将軍として迎え入れます。そしてこの頃京都が西軍に押さえられていたこともあり、「西幕府」という謎の組織を形成します。「西幕府」では義視を中心とした有力な守護による合議制で命令がくだされ、独自の官位も授与するというちょっと本格的なものでした。
細川勝元と山名宗全死去
それからなんだかんだで4年ほどダラダラとした戦争が続きます。もうすでに将軍の後継者争いなどという戦争ではなく、派閥争いの延長のような戦いになってしまっていました。とっくに義視も西軍に入っていますしね。むしろここまで戦争が続いたことは、いかに幕府内での勢力争いがひどかったかを表しているでしょう。
ですがこの時点ですでに5年以上も戦争が続いており、戦争に参加している人々はとっくに戦争が嫌になっていました。それでも惰性で続いていたのですが、そんな中で山名宗全と細川勝元が急に相次いで病死します。
さりげなく9代将軍に足利義尚就任
2人の死を知ったからかはわかりませんが、しばらくしてから義政は義尚に将軍職を譲り、自身は隠居することにしました。そして空席だらけとなっていた幕府の各役職に役人を配置し、幕府の業務回復を図り始めます。長く続いた戦乱を終わらせるための行動でしょう。事の発端は後継者争いであり、その後継者問題を明確に解決することで事態の収束を図ったのではないでしょうか。
ですが各地で起こる戦闘行為は続きました。東軍と西軍のボスが死に、そして後継者問題もカタがついていたはずなのですが、各地ではまだまだ戦争が行われます。
応仁の乱が長期化した理由
元々幕府の中枢にいた有力な守護大名が、火付け役となって始まった戦乱でした。山城国で起きた戦いは間違いなく派閥争いの一環だったのでしょうが、全国のあちこちで起きている戦争はまた別です。
地方で戦争を起こす武士達も体裁として東軍西軍のどちらかに所属していましたが、頻繁に鞍替えする武士も多数おり、思想や理想などといったものを持っている武士はほとんどいません。要するに、日頃の恨みを晴らすためや自分の領土を拡大するための戦争をするための口実だったのだと思います。どちらの軍に所属するかも、「あそこの土地欲しいから、あいつ東軍だから自分は西軍」といった適当な理由だったのでしょう。幕府から禁じられていた私闘をするために、西軍と東軍という大雑把な括りは好都合だったんですね。そのため全国各地で正義のない戦いが延々と続くことになります。
筆者が応仁の乱からを戦国時代としているのは、大きな勢力による討伐を恐れない、私的な戦いが行われるようになったためです。幕府がきちんとしていた頃に私的な戦いをすれば、「朝敵」にされて討伐軍を向けられてしまうのがオチですから。土地欲しさに堂々と攻め込める環境が整ったこの時期が、戦国時代の幕開けであると考えています。
応仁の乱が収束するも
義尚が将軍に就任してから3年後、東軍と西軍はすでにそれぞれの子供に引き継がれていましたが、両者は和睦します。それに伴って京都に集まっていた各地の有力な守護大名は自分の領地に戻り、京都での戦いはようやく収束を迎えることになりました。
10年近く続いた応仁の乱で、京都の市街は荒れ果てました。度重なる戦闘で何度も火災が起き、貴族や武士の邸宅もあらかた燃え尽きている状態です。さすがに天皇の邸宅は残っていたのですが他の建物はほとんど燃えてしまったため、この時に歴史的な資料がかなり消失してしまっています。もったいないですよね。
応仁の乱の影響
この10年近く続いた戦乱は、これまで常識となっていたことが覆され、日本の在り方を大きく変えてしまうことになりました。ちょっと量が多いので、小見出しで小刻みにいきたいと思います。
国人の台頭
これは「くにびと」と読みます。国人とは、要するに地元民のことですね。その土地に元々住んでいた人たちのことを、国人と言います。国人が住んでいるところに、幕府から守護として任命された武士が統治者として現れる形が、鎌倉時代から続く当たり前です。本来の国人には、朝廷の官位や幕府での地位などは当然ありません。普通の地元民ですからね。
ですが長く続いた戦乱のため、東軍も西軍も戦力がどんどんと削られていきました。そこで東軍も西軍も削れ続ける軍に補充する兵として、武士ではない国人を入れたんです。国人は軍に編入される時に、役職に任命されました。武士というのは血縁関係からなるもので、武士になろうとしてなれるものではないんですよね。ですが応仁の乱では、武士ではなかった者が武士になるという、決まっていた身分が曖昧になるということが起こりました。これは現代に生きる我々からすると理解のできないことですが、当時の身分というのは絶対的なものです。その身分が崩壊し、「下剋上」が起きる土台になったと考えています。
守護が不在の間にドサクサに紛れて領主となる国人も現れました。今まで歴史の表舞台に出てこなかった国人が、ここで突然大きな力を持つことになります。
貴族層のさらなる没落
これまでもどちらかと言えば寂しい状態にあった貴族たちですが、「応仁の乱」が起きたことでわずかに残っていた利権がさらに失われることになりました。
日本における皇族や貴族層、つまり荘園の領有者達は室町時代に入ってから切ない立場に追いやられており、「応仁の乱」以前から生活していくのがイッパイイッパイな状況となっていました。このことは室町幕府が国ごとの監督者たる「守護」に特権を付与したことにより、荘園からの収入が激減したことに起因しています。それでも売官行為、つまり官職をエサにして金品をねだったり、また荘園から送られてくる僅かな収入でなんとか食いつないでいたのですが、「応仁の乱」が起きたことでさらなる困窮に追い込まれています。
当時の貴族で普通に食べていける人間はごく一握りでしかなく、大半は食事をとるためのお金にも困っていたようで、貴族身分を捨てて地方に活路を見出す者が続出しました。京都においてはシガない貴族だったとしても地方ではチヤホヤされることもあったようで、そんな噂を聞きつけた貴族達は続々と京都を後にしたようです。その結果京都の朝廷は空席だらけのスカスカな状態となり、もともと薄れていた天皇家の権威性がさらに低下する結果に終わりました。ちなみに困窮した貴族達の中には荘園経営のために自ら地方に下ったレアケースもあり、代表例として土佐国(高知県)の一条家が挙げられます。
戦争における軍の変化
これは国人が台頭したこととも関連性があります。応仁の乱までは戦争の主役は当然武士であり、むしろ武士以外は戦争に参加することはできませんでした。ですが兵を補充する必要性に駆られた東軍西軍共に、「足軽」という武士階級以外の歩兵を登用しています。
歩兵とは言うものの実際に軍に編入されていた「足軽」は、盗賊や無法者など軍の規律など全く気にしないタイプの人が多かったようです。そのため「足軽」が出撃した戦場では、略奪や放火などが頻発しました。
とはいえこれまで戦場に出る資格すらなかった武士以外の人間が、歴史の表舞台に浮上してきたことは間違いのない事実です。こういった「武士以外の人」が後の戦国時代に大成功した例こそ、ちょっと猿顔で人気の高いあの人ですね。
守護大名の在地化と「下剋上」
これまでの守護大名は、基本的に大名自身は京都に居続け、領地経営は守護代に任せるという形が一般的でした。ですが幕府の権威失墜や国人の台頭、そして守護代による私物化などの要因で、領地を奪われかねない状態になってしまったんですね。守護大名達は京都にいる場合ではなくなってしまい、領地を自分の手で安定させるために次々に帰国していきます。
帰国した守護大名達の中には自身で領内を掌握して権力を強化し、戦国大名として生き残るというケースもありました。ですが守護代や家臣、国人に領地を奪われ、滅亡したケースも多々あります。こういった生存競争に勝ち抜いた者が、戦国大名として次の時代を戦うことになります。
ちなみにこの当時の「身分が下の者が上の者に克つ(勝つ)」という、本来あり得ないことが平気で起きる風潮を、「下剋上」という言葉で表現されています。現代人にはわかりづらい感覚なのですが当時の身分というのは絶対的で、決して乗り越えられない壁だったんですね。その壁を乗り越える者が多く出たということで、「下剋上」という言葉がブームになったようです。
絶賛崩壊中の室町幕府
京都から有力な守護大名がいなくなり、残った守護大名は摂津(現在の大阪)や丹波(現在の京都府北部)に領地を持っていた細川氏だけという有様になりました。そのため幕府は運営自体がままならなくなってしまい規模を縮小し、全国的な政権ではなくなってしまいます。なんとか近畿地方にのみ影響力を持てる程度であったため、地方のことに関与する力もなくなってしまいました。地方に関与できなくなってしまった室町幕府は、全国からの税金を徴収することもできなくなっています。
こうして幕府の力が衰え、逆に守護大名や横領した家臣や国人が独自の勢力を強化していくことで、戦国時代の幕がゆっくりと開いていきます。
応仁の乱のまとめ
今回の記事では応仁の乱についてと乱後の影響についてのご説明をしました。この後も幕府自体は存続しますが、規模のあまりの小ささと細川氏による専横により、足利将軍家は存在が希薄になっていきます。そして全国で群雄たちが割拠する、戦国時代の到来ですね。
次回からはギリギリ残った室町幕府を中心に時代を追いながら、各地で活躍する英雄たちの物語を混じえてご紹介したいと思います。
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