戦国時代3 天文法華の乱 | 比叡山延暦寺は他宗派を許さない

戦国時代の宗教史

戦国時代の宗教紛争・天文法華の乱

視点によって呼称が異なります

今回の記事では、戦国時代に京都で起きた仏教宗派間の紛争についてご説明をいたします。このドタバタ劇はあくまで宗派間の紛争ではあるのですが、舞台が京都ということで室町幕府もちょっとだけ絡んでおります。

ちなみに、記事タイトルは天文法華の乱とさせておりますが、ややこしいことに視点によって呼び方が変わります。日蓮宗の視点からは「天文法難」、つまり天文年間に起きた「災難」という扱いになっており、他宗派からの呼び方が「天文法華の乱」となります。まあどちらにも属していない人にとっては「わざわざ呼称を変えるな」くらいに思ってしまいますが、やられた側とそれ以外の人で現代に至るまで呼び方が違っている訳ですね。

戦国時代の仏教は武闘派

ちなみに予めお伝えしておきますが、この頃の仏教勢力は現代人が想像するような平和的な団体ではありません。彼らは立派な武力を持ちながら十分に組織化されており、もはや戦国大名も真っ青の完全な武闘派集団です。

まあ「信者の数=武力・経済力」であるのは今も当時も同様で、だからこそ各宗派はこぞって信者を獲得しようと必死になっていた訳です。それではまず天文法華の乱が起きた背景として、登場する仏教宗派について確認してみましょう。

天文法華の乱に登場する宗派

戦国時代に大きく拡大・浄土真宗

戦国時代を席巻した浄土真宗の開祖・親鸞

浄土真宗鎌倉時代初期に興った鎌倉仏教の一つであり、親鸞によって開宗された宗派です。この宗派の特徴は「戒律がない」点であり、信者だけでなく僧侶の妻帯・肉食をも許容していました。

まあ縛りがない点は誰からも受け入れられやすかったようで、室町時代頃から一気に日本全国へ広まり、戦国時代には大名による干渉すら拒否できる程に成長しています。浄土真宗は別名として一向宗とも呼ばれ、この宗派による一揆は一向一揆と呼ばれます。

浄土真宗についての詳細はこちらから。

日蓮が興した日蓮宗(法華宗)

日蓮宗開祖・日蓮

鎌倉時代の中期に日蓮という僧によって興された宗派です。この宗派では「法華経」という経文を非常に重んじるようで、そのため法華宗という名称でも呼ばれます。「南無妙法蓮華経」という日蓮宗のフレーズは結構有名ですが、この意味は「妙法蓮華経に帰依する」、つまり「妙法蓮華経を信じる」というだけのストレートな意味です。

当時の日蓮宗の特徴として、他宗派に対して批判的なスタンスをとっていた点があります。これはただ「良くないねー」とか言っていただけでなく、通行人が多い大通りでいきなり他宗派の僧に宗教問答を挑み、論破して恥をかかせるといったことをしていたようです。

平安時代から受け継がれる天台宗

最澄が開いた密教宗派

天台宗の開祖・最澄

この天台宗は遣唐使に随行した最澄によって日本に輸入されましたが、現代においても中国や日本、朝鮮半島やベトナムにまで信徒を持つ巨大な宗派です。日本天台宗の本山は比叡山延暦寺とされていますが、実は比叡山全域が延暦寺の境内とされているため、つまり山そのものが聖域というドでかいスケールを持ってたりします。

天台宗という宗派は密教という括りに入るらしいのですが、本山である比叡山では仏教全般の幅広い研究が行われており、仏教の総合大学のような状態になっていました。そのため「日本仏教の母山」なんて言われ方をされる程で、まあ要するに当時の仏教界ではとてつもなく大きな存在だった訳です。

比叡山の迷惑要素

ページの上部でもご説明しておりますが、当時の寺はどこも独自の軍事力を持っています。しかも宗教的な組織であるため朝廷幕府も簡単に討伐しにくい訳で、まあ権力者からすればかなり厄介な集団でした。

その比叡山は討伐されない立場をいいことに、時の権力者にたびたび無茶苦茶な要求をしました。経済的な利権を確保するための要求もあったようですが、さらに「役人の誰々が気に入らないから追放しろ」なんて要求もあったようで、まあ要するにやりたい放題だった訳です。

聞いてくれなければ「強訴」

それでも歴代の権力者の中には比叡山からの要求を拒否した強者もいたのですが、そうすると僧兵と呼ばれる比叡山の軍隊が京都や各所で暴れ始めるといるため、どちらかと言えば要求よりも「脅し」でしょうか。この脅しは「強訴(ごうそ)」と呼ばれますが、これは平安時代から事あるごとに行われていたようで、結果ほぼ全ての要求が通ったという悲しい記録が残っています。

そのため比叡山は時の権力者にとっては悩みのタネであり、腫れ物に触るかのようにいつでもご機嫌を伺われている状態でした。もちろん要求は時代を追うごとにエスカレート、そのため比叡山は誰からも嫌な意味で特別扱いされていたようです。

室町幕府と宗教組織が入り乱れる天文法華の乱

日蓮宗と細川晴元の結託

戦国時代の中期頃、当時の京都では日蓮宗が多くの庶民に受け入れられ、信者数ナンバーワンのメジャー宗派となっています。しかし、この頃険悪な間柄だった浄土真宗が日蓮宗の排除に動き始め、一向一揆の大軍が京都へと進軍しました。

もちろん日蓮宗は浄土真宗の京都進出に対応するため、この頃室町幕府の重鎮となっている細川晴元に防衛を依頼しました。この時の細川晴元としても何をやらかすか分からない一向一揆は脅威だったようで、京都に入れたくはないという結論だったようです。

日蓮宗が山科本願寺に放火

ということで細川晴元と日蓮宗は力を合わせて一向一揆に対抗、まずは両者の軍で一向一揆を追い払いました。そして浄土真宗の本拠をも潰してしまおうということで、山科本願寺という寺院とその周りの町を全て焼き払っています。

これによって一向一揆はあっという間に雲散霧消し、日蓮宗は京都でさらに勢力を拡大して信徒を増やすことに成功しました。そんなイケイケになってしまった日蓮宗はさらなる勢力拡大を志向し、次なるターゲットとして比叡山延暦寺をターゲットにします。

日蓮宗と比叡山延暦寺の宗教問答

浄土真宗を倒した4年後、日蓮宗は比叡山延暦寺に対して宗教問答という謎の勝負を持ちかけました。筆者は宗教問答というものをしたことがないので具体的にはわからないのですが、きっと宗教的な知識や理論で相手を言い負かすことを言うのでしょう。挑まれた延暦寺側はこれに応じ、宗教問答を行うことになります。

ここでどういった論争が行われたのか、そしてどうやったら決着になるのかもよくわからないのですが、この宗教問答では一応日蓮宗側の勝利で幕を閉じました。ですがこの問答の勝敗が世間に広まってくると、比叡山側は日蓮宗のために面目を失ったと感じ始めます。そして日蓮宗の別の名称である「法華宗」という呼び名を使わないように要求し、室町幕府にも日蓮宗に「法華宗」の名称を使わせないための裁決を要求しました。宗教問答に負けて恥をかいたから、別のところで負かしてやろうという比叡山の意図を感じますね。

でも幕府は日蓮宗側につく

比叡山から日蓮宗に「法華宗」という名称を使わせない、という裁決を迫られた室町幕府でしたが、まあ実は細川晴元にとっては日蓮宗と比叡山が争っている方が都合いいんですよね。一向一揆との戦いでは共闘してはいるものの、ぶっちゃけると扱いが難しい寺社勢力は幕府にとってただの邪魔者です。

つまり仏教宗派間で潰し合ってくれる状況こそがベストですので、細川晴元にとっての最善策は紛争を助長することになります。そのため、幕府が出した裁決は日蓮宗の勝訴とし、「法華宗」という名称はそのまま使用可能ということになりました。まあ要するに火種を残すどころか、わざわざ燃料を投下したという訳です。

当然のことながら比叡山延暦寺は仏教界の大御所という自負がありますので、このまま黙っているわけにはいきません。という訳で打倒日蓮宗の決意を固め、着々と準備を進めていきました。こうして天文法華の乱は報復の連鎖で泥沼化し、舞台となった京都の街はどんどんと荒れていくことになります。

比叡山延暦寺の逆襲

日蓮宗が勝訴してからしばらく後に比叡山にいた僧兵達が集結し、京都近辺に有る有力な日蓮宗寺院に対して比叡山の傘下に入り、上納金を納めるよう迫りました。当然ながら日蓮宗はこの無茶な要求を拒否しますが、比叡山はさらに行動を続けます。

比叡山延暦寺は朝廷や幕府に使者を出し、日蓮宗の信徒を討伐する許可を求め、さらに援軍を出すよう迫りました。もうナリフリ構っていられない状態だったのでしょう、以前から敵対していた浄土真宗などの他宗派にまで協力を要請し、共闘して日蓮宗を討伐するよう申し入れています。さらには近畿や北陸の大名達にも援軍を要請し、比叡山は徹底的に日蓮宗を叩き潰す狙いでした。

比叡山からの援軍要請にはほとんどの勢力が軍を出さなかったのですが、かといって日蓮宗に肩入れするわけでもありませんでした。そんな中で、近江(おうみ、現在の滋賀県)の大名である六角定頼が比叡山側につき援軍を送ります。

京都市内での戦闘と結果

六角定頼の援軍を得た比叡山の僧兵達は京都の市内になだれ込み、日蓮宗の信徒達を攻撃しました。元々京都市内は日蓮宗の信徒が多く、防衛のための溝を掘るなどして用意はあったのですが、いかんせん数が違いすぎたため結局は比叡山延暦寺が勝利を収めます。

比叡山は京都近辺にあった21の日蓮宗寺院を全て焼き払い、一万人にも及ぶ日蓮宗の信徒を殺害しました。さらに比叡山の軍が放った火は寺院だけでなく、京都の大半を焼き尽くす大火事となりました。応仁の乱でもかなり荒れた京都でしたが、天文法華の乱での大火事や破壊による被害は、応仁の乱を上回る程だったといいます。

結局これまで京都で支配的な宗派であった日蓮宗は壊滅し、残った日蓮宗の信徒は京都を追放されました。そして京都限定ではありますが日蓮宗は禁教とされ、ここから6年の間日蓮宗は京都での布教すら許されなくなります。

ちなみに6年後、比叡山側に援軍を出していた六角定頼の仲介により、ようやく比叡山と日蓮宗の間で和議が成立しました。6年間が長いと見るか短いと見るかは人それぞれですが、6年間もの期間許さなかった比叡山は相当頭にきていたんでしょうね。

天文法華の乱のまとめ

今回の記事では、日本では割と珍しい宗教紛争である天文法華の乱についてご説明しました。

次回は室町幕府で長いこと権力を誇っていた細川氏が、家臣である三好氏に敗れる場面をご紹介します。

次回記事

前回記事

twitterフォローでさらっと日本史の新着記事をチェック!

コメント