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姉・北条政子と源頼朝の婚姻
伊豆国の武士・北条時政の次男として生まれた北条義時は、姉の北条政子が源頼朝の妻になったことで劇的な人生を送るハメになっています。この頃の義時には兄がいたため北条家の嫡男ですらなく、分家として伊豆国の江間に所領を与えられ江間姓を名乗っていました。頼朝が平氏打倒の兵を挙げると一家総出でこれに付き従っていますが、石橋山の戦いで敗北した際に兄の北条宗時が戦死、この瞬間から義時の運命は過酷な方向へと突き進んでいきます。
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戦いに負けた頼朝が海路で阿波国へ逃亡すると、和田義盛や三浦義澄と合流し再起を図りました。その間時政・義時親子は別行動で甲斐国(山梨県)へ向かい、隣国となる駿河国(静岡県中東部)に侵攻し勢力を拡大、ここから頼朝軍の巻き返しが始まります。そして頼朝が掻き集めた軍勢との合流を果たすと、富士川の戦いで大勝利を収めて平氏方の軍勢を締め出し、鎌倉を本拠として定め関東の支配権確立に成功しています。
源頼朝の個人的な側近として
鎌倉新政府では徐々に政権内の役職が整備され、それぞれの建物が立ち並びました。そんな中で当時二十歳前の北条義時は、源頼朝の寝所を警護する役に選ばれています。この鎌倉殿の寝所警護役は「家子」と呼ばれ、頼朝の側近としてプライベートな付き合いができる立ち位置だったようです。この時に家子は11人選出されていたのですが、義時は頼朝に気に入られていたのか筆頭格の地位を手にしています。
義時と頼朝の関係は非常に良好だったようで、父の北条時政がとある事件で鎌倉を去った際にも義時は居残り続けています。この事件は妊娠中の北条政子が浮気した頼朝にキレたという微笑ましい発端から、北条一族を巻き込んだ大騒動に発展、最終的には時政が一族を引き連れて故郷の伊豆国へ去るという結果に終わっています。ですがこの時も義時だけは父・時政に従わず、鎌倉に残って頼朝から称賛されたというエピソードが残っています。発端が発端だけに頼朝も時政を罰することはなかったようなのですが、そんな時でも身近にいてくれる義時が頼もしく感じられたのかもしれませんね。
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頼朝死後に十三人の合議制に加わる
北条義時は源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱にも従軍し、平氏討伐に大きく貢献しています。その後起きた源義経の反乱鎮圧・奥州合戦にも参戦しており、この時点での義時は優秀で前途有望な若手御家人くらいの立ち位置でしょうか。ですが1199年に源頼朝が謎の死を遂げると、義時は急激に頭角を現し頂点への道をひた走ることになります。
頼朝の長男・源頼家が2代目鎌倉殿の地位に就くと、頼朝と同様に独断で政治を取り仕切る独裁政治を始めています。頼朝の頃から将軍の独裁政治は御家人達の間では不評だったようなのですが、鎌倉幕府を創立した偉人に対しては誰も口出しできなかったというのが実情でしょうか。ですが新たに鎌倉殿の地位に就いた頼家は18歳という若者であり、百戦錬磨の幕府宿老達にとっては言いくるめやすい人物だったのか、かなり強引に独裁権を取り上げ、有力御家人の会議で裁判や政治方針を決める「十三人の合議制」がスタートしています。
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この合議制メンバーに義時も名を連ねてはいるのですが、少し異様に感じられるのは義時だけがぶっちぎりで若い30代後半ということです。下から二番目となる大江広元ですらこの時点で50歳を越えており、最年長の三浦義澄に至っては70歳を越えています。他にも年配の有力御家人がいた中でのメンバー入りは違和感を覚えてしまいますが、頼朝の妻だった姉・北条政子との血縁関係、そして頼朝の旗揚げ当初から付き従った功績が評価されたためでしょうか。ともあれ幕政の中枢に立った義時と時政でしたが、ここからは幕府内の権力争いに奔走することになります。
父・北条時政と共に幕府内での主導権争い
十三人の合議制が発足してから約1年後、合議制メンバーであり侍所別当職にあった梶原景時が鎌倉から追放され、京都へ向かう途上で一族もろとも殺害される事件が起きました。この事件には北条時政・義時親子は直接関与していなさそうなのですが、梶原一族が襲撃されたのは北条氏の領国・駿河国ということで、むしろ裏で糸を引いていた可能性はかなり高いかと思われます。この梶原景時の変から三日後に三浦義澄が病死、そしてその数ヶ月後にやはり合議制メンバーの安達盛長が病死したことで、人員不足となり合議制はあっという間に解体しています。
合議制が解体したことで源頼家の祖父である時政が実権を握るかと思いきや、頼家は妻の父に当たる比企能員を重用しだします。この比企能員という人物は源頼朝の乳兄弟という立ち位置もあり、比企氏は頼朝の時代から信頼され親密な関係を築いていました。頼家は祖父である時政に対していい感情を抱いていなかったのか、比企能員と結託して時政暗殺計画を練り、実行は目前に迫っていました。
ところがその計画を北条政子が嗅ぎつけて時政に知らせると、時政は比企能員を自邸に呼び出し逆に殺害しました。そして時政は返す刀で比企氏が住む屋敷を襲撃し、生まれたばかりの頼家の子供を含め一族まとめて殺害しています。さらには頼家も暗殺計画に関与していたということで、伊豆国に幽閉された後に北条義時の手勢によって暗殺されています。そして3代目の鎌倉殿には頼家の弟である源実朝が就いていますが、まだまだ10代前半の子供ということで時政が執権職に就き補佐する体制を取りました。初代将軍である源頼朝の死から約三年後、凄惨な闘争を制した北条氏がついに幕政の頂点に立った瞬間でもあります。
北条時政を鎌倉から追放
執権として大きな権力を握った北条時政でしたが、今度は武蔵国の有力御家人・畠山重忠の排除に動き出しました。北条義時は畠山重忠と年齢も近く親友とも呼べる間柄にあったため、父の処断に対して再審を要求するも却下されてしまいました。親子の関係ではありますが相手は幕府執権という権力者、義時は嫌々ながらも命令に従い畠山重忠を攻め滅ぼしています。
自身に反対する者をことごとく踏み潰してきた時政は、畠山重忠の変の直後に鎌倉殿の地位にある源実朝の暗殺を企て、自身の言いなりになる娘婿を次の鎌倉殿にする計画を立てました。ですがこの計画を事前に知った義時は姉の北条政子と結託し、事件が起こる前に実朝を匿い、逆に時政の屋敷に襲撃をかけています。ここで時政は敢え無く捕縛され、義時によって出家に追い込まれた上で、伊豆国への追放処分を言い渡されました。数々の政争をくぐり抜け初代執権として大きな権勢を持った時政でしたが、さすがに将軍の暗殺計画はやりすぎだったのか、この後は伊豆国で静かに余生を過ごし数年後に亡くなっています。そして頂点から権力を振るい続けた時政がいなくなった鎌倉では、2代目執権となった義時と北条政子、そして将軍実朝によって政治が進められていきました。
源実朝暗殺と尼将軍・北条政子
源実朝の暗殺未遂事件から14年後、今度は本当に実朝が暗殺されるという事件が起きました。犯人は「公暁」という2代目鎌倉殿・源頼家の子供ですので、実朝を「父を暗殺して地位を奪った憎い奴」くらいに思っての所業かと思われます。実際の真意は謎のままではあるのですが、この実朝が亡くなり源頼朝の血筋が途絶えた事実は、鎌倉では幕府への不信感を煽り、そして京都の朝廷では幕府打倒の機運が高まることになります。
暗殺された実朝は三十歳手前くらいの年齢だったのですが、なぜか子供が産まれず周囲の悩みのタネとなっていました。暗殺される前から実朝の後継者不在は問題となっていたのですが、その心配が現実となってしまった瞬間でもあります。そういった経緯もあったため、以前より後鳥羽上皇の皇子を実朝の後継者として迎える交渉が行われていたのですが、先に実朝が亡くなってしまったために慌てて交渉が再スタートされました。
鎌倉殿の不在に困っている鎌倉幕府と、全く困っていない後鳥羽上皇との交渉は、当然ながら後鳥羽上皇の圧倒的有利な土俵です。そのため後鳥羽上皇は皇子をエサに数々の要求を幕府に出しますが、キツすぎる要求に対して北条義時など首脳陣はさすがに承諾できませんでした。それならばと上皇の皇子を諦めて公家の子息を対象として探し、摂関家の九条頼経という候補者がようやく見つかったのですが、なんとこの候補者はまだ1歳という産まれたばかりの赤ん坊でした。さすがに1歳児を鎌倉殿にする訳にもいかないということで、成人するまで北条政子が鎌倉殿の地位を代行するということで決定、ここで鎌倉殿の候補者問題は一応解決となっています。この時の北条政子はすでに出家し尼となっていたことから、「尼将軍」という凄そうな異名で呼ばれています。
後鳥羽上皇との戦い・承久の乱
姉の北条政子が鎌倉殿を代行しているとは言え、この状況で何か起こればただ事では済まない、そう思った北条義時は義理の兄を京都守護に任命し、守備に当たるフリで様子を探らせました。しかし義時の不安は思った以上に的中していたようで、後鳥羽上皇は在京していた義時の義兄を殺害し、その足で義時を朝敵として討伐の兵を挙げます。後鳥羽上皇は不安で一杯な鎌倉御家人にも片っ端から声を掛け、相手の戦力を削ぎ落とし自身の戦力を増強しながら義時討伐軍を編成しました。
後鳥羽上皇の挙兵、そして幕府に味方した者は朝敵とされてしまうという事実に、鎌倉は大パニックに陥り軍議は紛糾を極めました。鎌倉時代当時は平安時代ほどではありませんがいまだ朝廷の権威が強く、「朝敵にされる=絶対やられる」くらいの感覚だったものと思われます。そんな様子を見た尼将軍・北条政子は叫ぶように源頼朝から受けた恩を強調し、御家人達の忠誠と奮起を促しました。そして御家人達の間で取り沙汰されていた鎌倉での防衛という消極策に対し、義時は大江広元が提唱した京都侵攻という積極策を採用、大将には長男の北条泰時を任命し京都へ向けて即座に出陣させました。
政所別当として長く幕政に関与し続けた大江広元についてはこちらからどうぞ。
北条政子の大演説、そしてただ待つのではなく攻撃するという積極策が功を奏したのか、京都に到着する直前の幕府軍は20万近くまで膨れ上がっていました。そして宇治川近辺に布陣していた朝廷軍を撃破すると、そのまま一気に市街になだれ込み京都を制圧しています。後鳥羽天皇が義時追討の宣旨を出してからわずか一ヶ月後、開戦当初の不安など微塵も感じさせない完全勝利で幕を閉じています。この承久の乱の首謀者・後鳥羽上皇を始めとして関係した皇族達は流罪に処され、京都の町には六波羅探題という幕府機関が設置されました。六波羅探題が設置されたことで鎌倉幕府は西日本にも影響力を持ち始め、朝廷に対して幕府の有利を決定付けたタイミングでもあります。
源頼朝の背中を追い続けた青年
承久の乱が終わって3年後、北条義時は急に電池が切れてしまったかのように62歳で亡くなっています。死因として伝わっている話は様々で、病気といった普通のものから妻による毒殺、あるいは近習に刺殺されたなど、偉大な指導者が亡くなったにも関わらずハッキリしていません。思い起こせば源頼朝も不審死を遂げており、現代から見て800年前の鎌倉時代はまだまだ情報がアヤフヤな時代だったのでしょう。義時には生前から「得宗」という異名(たぶん法名)があったのですが、この得宗の子孫達によって代々幕府執権職が独占されたため、義時の系統を特定して「北条得宗家」という呼ばれ方もされています。
義時が亡くなったタイミングでは伊賀の方という妻がいましたが、この伊賀の方は別の女性と離縁した後の再婚相手となっています。初婚の相手は「姫の前」という美人さんだったようで、義時は1年以上も恋文を送り続けてやっとのことで結婚に漕ぎ着けたとか。ですがこの「姫の前」という女性は、北条時政と義時が攻め滅ぼした比企能員の孫に当たるためか、比企能員の変が起きた直後に離縁しています。
友人としての付き合いがあった畠山重忠の一件、そして父の北条時政の一件もそうですが、義時は多くの物を犠牲にした上で、それ以上の成果を手にしている印象を受けます。誰だって恋女房の一族を滅ぼしたい訳もなく、また友人を攻めたい訳もありません。それでも自身の信じる道を突き進んだからこそ、その後100年を越えて北条得宗家は繁栄し続けています。源頼朝に憧れて一緒に挙兵したその日から、北条義時は彼の姿を追って走り続けたのでしょう。
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