日本を駆け巡る源頼朝の幼馴染・中原親能

鎌倉時代の人物録
中原氏の家紋・花杏葉

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源頼朝と子供の頃からの仲良し

中原親能(なかはらのちかよし)は鎌倉幕府の草創期から、軍事に外交にと忙しく立ち回り続けていますが、武士の家柄ではなく中原氏という下級貴族の家に生まれています。ですが親能は幼い頃から相模国(神奈川県)出身の人に育てられており、その縁で源頼朝とは子供の頃から親しかったようで、一つ屋根の下で生活した時期もあったようです。そういった経緯で身分を越えた付き合いがあったのでしょうか、親能はちょっとだけ年上のお兄さんである頼朝を通じて、武士の世界に接点を持ちながら育っています。

頼朝が流刑後に関東で挙兵したことが京都へ知れ渡ると、付き合いがあった親能は平氏に疑われて尋問されそうになりますが、危険を察した親能はすぐさま鎌倉へ向けて脱走、無事に頼朝との合流を果たしています。親能に続いて弟・大江広元も鎌倉へと落ち延びており、兄弟で頼朝に迎えられ武士としての人生を歩み始めています。ちなみに大江広元も当然ながら親能と同じ中原姓でしたが、70歳を過ぎてから断絶間近となっていた大江氏を救うために改姓しています。

兄と共に鎌倉殿の13人に名を連ねた大江広元についての記事はこちらからどうぞ。

源義経と木曽義仲討伐

木曽義仲が京都を制圧し平氏を追い払うと、源頼朝は弟の義経を代官として朝廷に向かわせています。この時には若干朝廷にも顔が利く中原親能も同行しており、役目上のことではあれど京都への帰還を果たしています。この時点ではまだ源義経の名は京都に響いておらず、また親能は元々京都の人間ということで、「中原親能と頼朝の弟さんが来た」といった記録が残されています。本来であれば義経の名が真っ先に記されていそうなものですが、親能は平氏に追われてプチ有名になっていたのかもしれませんね。

源義経の幼名は牛若丸です

その後義経と源範頼は木曽義仲を打ち破り、京都の市街を制圧しました。ここで朝廷にちょっとだけ顔が利く親能が大活躍、鎌倉軍の窓口として公家達との交渉に奔走しています。そして後白河法皇が頼朝の上洛を要求すると、親能はそそくさと自ら鎌倉へ向かい、今度は平氏追討の奉行として再度上洛するという、凄まじく軽妙なフットワークを見せつけています。その後無事に平氏討伐を終えた後も、源範頼の参謀として各地の反対勢力討伐に尽力しています。

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幼馴染の主君の死によって鎌倉殿の13人に

鎌倉幕府を樹立した初代将軍であり、中原親能にとって友人でもある源頼朝が亡くなると、鎌倉殿として源頼家が幕府政治の頂点に立ちました。ですがこの時点での頼家は20歳に満たない若者だったためか、自身の考え方を最優先し、武士世界の常識を無視した政治を行ったとされています。

頼家の独断政治が本当だったのか、あるいは御家人達の権力欲によるものなのかはわかりませんが、このまま頼家1人の判断で政治を執り行わせるわけにもいけないでしょう、ということで「十三人の合議制」が発足しています。この「鎌倉殿の13人」に選ばれたメンバーはそれぞれ自身の所領を持つ有力な御家人でしたが、この中に親能と大江広元の兄弟も名を連ねています。この合議制は梶原景時の変や比企能員の変など、北条時政北条義時親子の強引な他氏排斥によってあっという間に崩壊しますが、親能兄弟だけは揉め事を起こすことなく、むしろ北条氏と協調しながら自身の所領を増やしています。

他の御家人を蹴落とすことに余念がない北条時政さん

京都と鎌倉を行ったり来たり

北条親子が幕府政治の独占を図る中でも、中原親能は自身の職務をひたすらこなし続けていました。親能は相変わらず朝廷との交渉役に奔走しており、京都と鎌倉の間を幾度となく往復しています。また親能は全国の至る所で守護職に就き、そして各地に自身の所領を持っていたため、日本中を駆け巡りながら日々を過ごしていたことでしょう。

親能の正妻は頼朝の次女・三幡の乳母となっていたのですが、ある日三幡が重い病気で倒れて危篤状態となってしまいます。この時親能はいつも通りに京都で交渉の任務を果たしていましたが、三幡の病気を聞くやいなや即座に移動開始、5日で430キロもの距離を走破して鎌倉に辿り着いています。妻の乳母子ということで娘にも近い感情を抱いていたからこそのスピードなのでしょうが、馬を使ったとしても一日約80キロの移動を5日続けるのは並大抵のことではありません。三幡は結局床に伏したまま亡くなってしまうのですが、親能は悲しみのせいかその日のうちに出家し、その後は「寂忍」という法名も使用しています。

権力闘争には関心なし

源頼朝が亡くなってから10年後、中原親能は相変わらずの京都滞在中に病気で66年の生涯を終えています。親能が亡くなってから約十年後に朝廷と鎌倉幕府の戦い・承久の乱が勃発していますが、もし交渉役の親能がまだ現役バリバリだとしたら、自体が起きていなかった可能性すらあると筆者は考えています。実際に鎌倉幕府という当時としては斬新過ぎる武士政権も、親能の存命中には朝廷との間にほとんどトラブルがありません。このことは足繁く京都・鎌倉間を行き来した親能が、どれ程の仕事をしていたかが窺い知れる事実です。

梶原景時比企能員など「鎌倉殿の13人」は、ほとんど幕府内の内輪揉めの中で亡くなっていますが、親能は政争に巻き込まれること無く無事のまま亡くなっています。弟となる大江広元も同様ですが、頼朝亡き後の権力闘争には関心がなかったようで、淡々と自分の役割を果たし続けたからこその結果なのでしょう。そのため北条時政・義時親子と揉めることなく、結果的に全国的に膨大な所領を得ています。

親能は九州地方にも多くの所領を持っており、その土地は子孫達に引き継がれています。養子も何人かいたようなのですが、中でも豊後国(大分県)あたりを継いだ大友能直の家系はその後も繁栄を続けており、室町時代には足利尊氏の九州での再起を支援し、戦国時代には九州地方で猛威を奮った大友宗麟という大名を輩出しています。弟の大江広元の子孫にも中国地方のエース・毛利元就がいますが、この兄弟と子孫達は妙に世渡り上手が多いように感じてしまいます。人間関係の上手さとフットワークの軽さを持つ中原親能という人物も、現代日本でも当たり前のように成功していそうですよね。

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