源頼朝・文治の勅許を得て鎌倉幕府を樹立
治承・寿永の乱で平氏政権を完全に滅亡させた源頼朝は、1185年に後白河法皇から「文治の勅許」を得て鎌倉幕府を成立させています。この「文治の勅許」で頼朝は警察権と徴税権を持つ「地頭」の任命権を持ちましたが、これは逃亡していた源義経を捕らえるためのものでもあります。その頃の義経は奥州藤原氏の元に身を寄せていましたが、頼朝は義経討伐の名目で奥州に侵攻、義経だけでなく奥州藤原氏も滅亡させ東北地方にも強い影響力を持ちました。
幕府の主導権を巡る争い・比企能員の変
征夷大将軍という武士の棟梁たる役職を得た源頼朝は、1199年に死因不明の謎の死を遂げました。鎌倉殿の地位を継いだ頼朝の長男・源頼家は父同様の独裁体制をとろうとしますが、御家人達の猛反発に遭い、会議で政治方針を決める「十三人の合議制」が発足しています。ところが合議制発足から半年後には梶原景時の変で一人消え、また安達盛長や三浦義澄など有力御家人の病死が相次ぎ、合議制はメンバー不足に陥り早くも瓦解しました。そこで次に幕府のリーダーシップをとったのは頼家の乳母父であり妻の父でもある比企能員でしたが、比企能員だけでなく頼家まで北条時政に暗殺されています。
後鳥羽上皇の幕府打倒計画・承久の乱
源頼家が不慮の死を迎えたことで、まだ14歳の源実朝が鎌倉殿の地位を受け継ぎました。実朝の祖父にあたる北条時政が初代執権としてサポートに当たりますが、時政は実朝暗殺を企てた後に捕縛され追放、その後本当に実朝が暗殺されるという事件が相次いでいます。将軍不在のため実朝の母・北条政子が鎌倉殿の地位を「尼将軍」として代行しますが、その不安定な幕府の状況を見た後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。この状況に2代目執権・北条義時と北条政子は、御家人に檄を飛ばしてむしろ京都へ反撃、後鳥羽上皇率いる朝廷軍を破る快挙を成し遂げています。
執権北条氏の独占政治
3代目の幕府将軍・源実朝には子供がいなかったため、北条義時は承久の乱が終結した後に摂関家出身の九条頼経を新将軍として迎え入れました。義時の跡を継ぎ執権になった北条泰時は、「御成敗式目」を制定するなど御家人達の統率を強化してはしますが、一部の御家人は北条家中心の体制に疑問を持ち続けていました。そんな中で三浦泰村・光村兄弟は将軍・九条頼経を旗頭にして北条氏と対立しますが、「宮騒動」と呼ばれる事件で九条頼経が京都へ送還させられてしまいました。旗頭を失った三浦兄弟は焦って北条氏打倒の兵を挙げますが、当時の執権・北条時頼によって撃退され、この「宝治合戦」によって執権北条氏の立場は盤石なものとなっています。
モンゴル帝国の襲来・元寇
中国の北半分を制圧したモンゴル帝国は「元」を建国、さらなる版図の拡大を目指し、日本に対しても降伏の使者を送りつけました。これに対して当時の執権・北条時宗は朝廷と協調しながら元の従属要求を拒み、九州近隣に御家人を配備し襲来に備えています。度重なる降伏勧告を突っぱねられた元の皇帝・フビライ・ハンは日本侵攻を決意、ついに「元寇」と呼ばれるモンゴル帝国の襲撃が始まりました。幕府御家人の決死の戦いと、神風と呼ばれたあまりにタイミングのいい台風があったことで、日本軍は文永の役・弘安の役の2度の侵攻を防ぎきっています。
後醍醐天皇の挙兵と鎌倉幕府の滅亡
元寇を見事に撃退しきった日本軍でしたが、防衛戦による国内のダメージは深刻であり、御家人達の財政状況は困窮を極めていました。借金を棒引きする徳政令が発布されるなど改善策がありはしたものの、所詮は一時しのぎにしかならず、御家人達の不平不満は溜まる一方となっていました。そんな折に後醍醐天皇が兵を挙げ幕府打倒を目指しますが、ここでは足利高氏など御家人達に撃退され天皇は流罪に処されています。ですがその後に後醍醐天皇は再度挙兵、今度は足利高氏や新田義貞など御家人が天皇の側についたことで鎌倉が陥落、ここに150年続いた鎌倉幕府が滅亡しています。
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