倭寇が海賊行為を働いた理由と変遷 | 東アジアの国々を巻き込んだ一大ムーブメント

海に浮かぶ海賊船 その他考察

今回の記事では、倭寇についてご説明いたします。

時代によって実態を変える倭寇

倭寇とはそもそも中国大陸や朝鮮王朝から見た日本人の賊を意味する単語であり、特に海賊を指す訳ではありません。しかし鎌倉時代の末期に出現した日本人海賊が東アジアを席巻、その余りに大きなインパクトによって半固有の名称が付き、「倭寇」と呼ばれ恐れられていました。

とは言え一口に倭寇と言っても前期と後期では別の活動を行っており、構成している人種も全く別です。前期は主に朝鮮半島や中国沿岸部を荒らし回った倭寇でしたが、戦国時代には私貿易の仲介者となり、また東南アジアに移り住んだ人々は土着するなど、かなりバリエーションのある変遷をしています。

ちなみに豊臣秀吉の朝鮮出兵、また近代の日中戦争においても日本軍は倭寇と呼ばれていたとされています。日本以外の東アジアでは日本に対する反感を示すような単語なのかもしれません。

それではまず、倭寇が海賊行為を働くようになった理由から見ていきましょう。

日本人主体の前期倭寇

元寇でモンゴル軍が襲来

鎌倉時代後期に差し掛かった頃、モンゴル帝国内の一つの国、元が日本に襲来した「元寇」が起こりました。日本初の外国からの襲撃に対して、幕府御家人達による必死の抵抗で元軍を撃退することに成功しています。

元寇に立ち向かった北条時宗の記事はこちらから。

ここで元軍を撃退した日本武士団ではありましたが、陸海での戦闘による被害は甚大なものとなっていました。特に一度目の襲来・文永の役では元軍に対馬や九州北部に上陸されており、一般人の拉致や惨殺といった行為も行われています。

元寇に対する反撃として始まった倭寇

色々あって元軍を撃退した後、やや落ち着いた武士達は報復と反撃のため、元に加担していた朝鮮半島や元本土の沿岸部を攻撃し略奪を繰り返しました。特に朝鮮半島では沿岸部だけでなくしばしば内陸部にまで侵入しており、ゲリラ的な攻撃や略奪だけでなく、城塞を陥落させたりと大暴れしています。

最初期には元寇への反撃として行われた海賊行為だったのですが、儲かる上に成功率が高いことが知れ渡っていくと、次第に人数が増え規模が大きくなっていきました。ついでに朝鮮人や中国人の中にも倭寇を騙るヤカラが続出、自国で海賊行為を働くというトンデモ行為に走る人も多かったようです。

倭寇襲撃中

高麗の倭寇への対応

室町時代とともに南北朝時代が始まると、倭寇の活動はさらに広範囲に、そしてその威力を増していきました。それは鎌倉時代の終わり頃から幕府の統制が緩み、さらに南北朝の長い争乱の中で海賊行為の取り締まりになど手が回らなくなっていたためです。

倭寇による被害があまりに大きくなりすぎたため、当時の朝鮮王朝・高麗は本腰を入れて倭寇の討伐に乗り出します。高麗軍は内陸部にまで侵入していた倭寇軍を一つずつ攻撃、国内の倭寇があらかた片付いた後には日本の対馬にも侵攻し、対馬に捕らわれていた捕虜を救出すと町に火を放って撤退していきました。

ですが高麗軍の攻撃があっても倭寇は全滅などしておらず、相変わらず朝鮮半島や中国沿岸部を襲撃し、朝鮮半島の沿岸部には住む人がいなくなる程だったといいます。ゲリラ的に活動する倭寇の被害は高麗の国力を低下させる程の破壊力があり、高麗が滅亡する要因のひとつにもなっています。高麗は倭寇への対策のためにこの後も軍艦を建造し続け、倭寇殲滅を名目に対馬への侵攻を繰り返します。

明からの要望と足利義満の対応

中国で明が建国されてからも、沿岸部への倭寇の襲撃は当然の如く続きました。海から急に現れ、荒らすだけ荒らしたらまた海に逃げるというゲリラ的な襲撃は、明軍も対応しきれず被害が増えるだけとなっていました。

そんな中で室町幕府3代将軍・足利義満が南北朝を統一すると、明との貿易のために国交の使者を送りました。ここで明の初代皇帝・朱元璋は日本の冊封と貿易を認めはしたものの、条件として倭寇の鎮圧を要請しています。

この要請に対して足利義満はキッチリ倭寇鎮圧を行い、功績を認められて日本と明との勘合貿易が始まりました。この足利義満による鎮圧によって倭寇勢力は大きな被害を受け、また対馬でも倭寇の取締を強化したため、段々と倭寇そのものと被害が減っていくことになります。

足利義満についてや勘合貿易についての記事はこちらからどうぞ。

李氏朝鮮の倭寇討伐・応永の外寇

「高麗」の軍人・李成桂が樹立した「李氏朝鮮」

明が建国されてから20数年後、朝鮮半島では「高麗」が滅亡、代わりに「李氏朝鮮」が建国されました。元が中国から撤退したためほぼ元の属国となっていた「高麗」は後ろ盾を失ってしまい、また倭寇による国力の低下もあって、李氏朝鮮・初代国王となる李成桂のクーデターを許す形で高麗は滅亡しています。

ちなみに「李氏朝鮮」の初代国王・李成桂はもともと「高麗」の軍人であり、倭寇退治によって大きな名声を得た武将でした。そんな李成桂が立ち上げた国であるためか、建国当初は倭寇の撃退にもそこそこ成功したようで、また足利義満による倭寇鎮圧の効果もあって倭寇の被害はかなり少なかったようです。

李氏朝鮮の初代国王・李成桂のイラスト
李氏朝鮮の初代国王・李成桂

割りと失敗気味に終わった応永の外寇

朝鮮半島で平和な日が続く中で、1419年に日本の対馬で大規模な飢饉が発生します。深刻な食料不足に陥った対馬の住人は食料調達のため千人規模で朝鮮半島を襲撃、倭寇となった対馬の住人は船を焼き払って城を攻め落とし、民家に押し入り略奪を働きます。この久々の倭寇襲来に激怒した李氏朝鮮は、室町幕府に対馬攻撃の断りを入れた上で侵攻の準備を進めます。

一方朝鮮半島を襲撃した対馬発の倭寇集団は勢いに乗って明にまで侵攻していたのですが、明軍に大敗を喫して対馬へ撤退していました。ちょうど倭寇が対馬に戻っていたタイミングで李氏朝鮮軍が攻撃を開始し、民家や船を焼き払いながら倭寇を攻撃します。倭寇達は抗戦したものの人数差が大きかったため、散り散りになって山間に逃げ込みます。朝鮮軍は山を包囲して倭寇を逃がさない態勢をとっていたのですが、この時の季節はあいにく夏の台風シーズンだったため、台風による被害を恐れた朝鮮軍は大した戦果を挙げることもなく撤退していきます。この戦いでは地味に倭寇の抵抗が凄まじかったようで、倭寇側と同じ程度の死亡者が朝鮮軍にも出ています。

戦果はなくても倭寇撲滅

応永の外寇で直接的に倭寇を根絶することは出来なかった李氏朝鮮でしたが、今度は武力をチラつかせながら対馬に圧力をかける手段をとります。応永の外寇では島内の制圧こそされなかったものの、直接戦闘では朝鮮軍と戦って勝てないことを悟っていた対馬の領主は朝鮮への帰属を了承し、対馬から倭寇勢力を締め出します。

またこの頃には室町幕府や守護大名による日明貿易が再開され、海上の安全のためにやはり倭寇の取り締まりが強化されたため、日本に倭寇の拠点がなくなり海賊行為を働く余地がなくなっていきます。

ここで元寇への復讐として始まり、朝鮮半島や中国の王朝にまで大きな影響を与えた前期倭寇は姿を消していくこととなります。

中国人主体の後期倭寇

「倭寇」に扮した中国人

応永の外寇後に対馬を拠点とした日本からの倭寇は沈静化しましたが、明国人による海賊は中国沿岸部を荒らし続けました。この明国人による海賊は日本の衣服を纏って太刀を振り回し、日本人であるかのような姿をしていたためやはり倭寇と呼ばれるようになります。

後期倭寇が活動するようになった背景として、当時の明国で海禁政策が採られていたことが挙げられます。海禁政策とは倭寇の抑圧や密貿易を防止するために、外洋への航海や貿易、国内の海運や遠洋漁業まで規制した政策です。日本で言えば鎖国に近い政策となります。海禁政策では明国人に出身地の証明書を携帯するよう義務付けており、違法な渡航があった場合には厳罰が待っていました。

それでも密貿易で儲けたいツワモノの商人は明国に数多くいました。そういった商人達は密航途中に明国の軍船に見つかりそうになると、明国に戻らずそのまま中国周辺の地域に移住していきます。移住した商人達は密貿易を行いながらも、沿岸警備のない場所では武装して海賊行為を働いていました。この武装海商達が後期倭寇となります。

日本への鉄砲伝来のキッカケに

後期倭寇は武装して警備が薄い地域を襲撃もしましたが、貿易も盛んに行っていました。海禁政策真っ只中の明国では海外からの品物は貴重で高値がつき、貿易相手にとってもやはり明国の品物は貴重な状態です。後期倭寇は中国沿岸部の有力者と手を組み、こっそりと交易品の売買を行っていました。

交易の相手としては大航海時代後期にアジアにまで進出してきたヨーロッパの国々や日本、朝鮮や東南アジア沿岸部の国が挙げられます。多くの国々をまたいで交易を行っていく中で後期倭寇の構成員として参加する者が増え、ヨーロッパ人が倭寇船に乗って同行することもあったようです。そんな中でとあるポルトガル人を乗せた交易船が日本の九州沖で難破し、種子島に流れ着き鉄砲伝来に至ります。そしてこのポルトガル人が国元へ戻り日本を紹介したことで、ヨーロッパからの交易船やキリスト教宣教師が日本に多く訪れるようになります。

鉄砲伝来についての記事はこちらからどうぞ。

豊臣秀吉の海賊停止令

多くの国の人々により構成されるようになった後期倭寇は、より盛んに密貿易や海賊行為を繰り広げていたため、明国政府では後期倭寇が悩みのタネとなっていました。交易により潤った資金で強力な武装をしている後期倭寇には、明軍と戦闘になっても勝った事例が多くあります。

明国は前期倭寇を取り締まるために海禁政策を行ったハズなのですが、海禁政策が後期倭寇を産んだという事実に気付き、今度は海禁政策の緩和に乗りだします。東南アジアやポルトガルといった国々との貿易を解禁することで、密貿易を行っていた後期倭寇を締め出すための政策を打ち出しました。この緩和政策によって明国の商人達は一斉に海外との貿易を始めたため、後期倭寇の独占状態だった交易による儲けが減ることとなりました。

ちなみにこの明国の海禁緩和では、日本との貿易は相変わらず禁止されていました。というのも日本には後期倭寇の拠点がまだまだ多く、また倭寇との取り引きや支援を続けている戦国大名すらいたため、明国としては日本を信用しきれなかった訳ですね。そのため日本は長く明国の商人達とは交易がなく、ただひたすら後期倭寇が暴れまわる状況が続いていました。

豊臣秀吉の銅像

明国政府との親交がないまま日本では戦国時代が煮詰まっていき、ついには豊臣秀吉による天下統一が目前となっていました。その豊臣秀吉は薩摩の島津義久を打ち倒し九州を平定すると、日本人の奴隷売買の温床となっていた後期倭寇をガチガチに取り締まります。こうして日本での拠点を失った後期倭寇は、最後のパラダイス・日本からも締め出され衰退していきます。

華僑となった倭寇も

豊臣秀吉の海賊停止令や明国の海禁緩和により、ついに後期倭寇も居場所がなくなってしまいました。元々違反によって海外に移住していた元倭寇達は今更明国に戻ることもできないため、東南アジアや日本などでまとまって住みつき、商業活動を主として地域に定着していきます。そういった人々の中には華僑として各地域に根ざして定着し、成功して存続している末裔たちは今現在も各地で政財界に大きな影響力を持っています。

日本でも神戸や長崎・横浜などには大きな中華街がありますが、全員ではないにしろ元は倭寇として活動していた人々の子孫もいるのかと思うと、妙に感慨深いものがありますね。

ちなみに華僑という言葉の意味は、母国から離れて暮らす華人(中国人)のことになります。決して倭寇出身者を指す言葉ではないので、その点ご了承願います。

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