執権とは
執権とは鎌倉幕府内に設けられた、政務全般を取り仕切り「鎌倉殿」をサポートする職務を指します。元々は「政所(まんどころ)」という財産管理をする部署の長官を意味しており、あくまで呼称としてこの単語が使われていました。ですが3代目・源実朝が12歳の若さで将軍に就任すると、祖父に当たる北条時政が補佐のために自ら「執権」を名乗り、これ以後は幕政の最高責任者を意味する役職となっています。
北条家が執権職を独占するまで
紆余曲折あって初代執権は北条時政
鎌倉幕府の2代目将軍は源頼家という人物でしたが、この頼家も18歳という若さで将軍職に就任しています。就任当初こそ将軍自ら御家人同士の訴訟を裁断していましたが、頼家はかなり突っ走るタイプだったようで、独裁的な裁決を下し続けたとされています。そんな状況を見かねた宿老達は頼家をサポートするために「十三人の合議制」をスタート、合議によって決まった裁決案を頼家が承認するという形式が採られています。
みんなで頼家をしっかり補佐しましょう、から始まった合議制ではありますが、ここからは北条時政・北条義時親子による他氏排斥が始まります。梶原景時の変や比企能員の変など、「鎌倉殿の13人」に列する有力な御家人達がバタバタと排除され、北条親子に対抗できる人物がいなくなり、合議制はあっという間に解体しています。さらに政敵がいなくなったところで北条親子は将軍である頼家を暗殺、3代目の将軍にまだまだ少年の源実朝を据えたことで、幕府は将軍の祖父となる北条時政の独壇場と化しています。時政はここで政所の長官となり、さらに「執権」という特別職を設けて自ら就任し権力の絶対化を図っています。
北条時政追放劇と2代目執権・北条義時
幕政の頂点に立った北条時政でしたが、源実朝暗殺未遂をキッカケに完全に孤立、最高権力者という立場にありながら幕府から追放されるという事件が起きています。この事件では時政の息子である北条義時も追放する側にまわっており、また娘である北条政子も追放にしっかり同意しています。ですがこの事件から約10年後、実朝が源頼家の子供・公暁によって刺殺されると、源頼朝の血筋が絶えてしまい将軍職を継ぐべき人物がいなくなってしまいます。
将軍の不在は想像以上の影響を及ぼし、御家人達にこのまま幕府に従い続けるか、それとも朝廷に擦り寄るかという選択の余地が生まれてしまいました。それ程に源氏の血筋は武士にとって精神的な支柱であり、団結するためのシンボルとして重要だったのでしょう。御家人達が動揺している状況をいつまでも続ける訳にはいかないということで、頼朝の妻だった北条政子がひとまず「鎌倉殿」の地位を代行し、その弟である北条義時が補佐のために執権に就任しています。この時の政子すでに出家して「尼(あま)」になっていたため、「尼将軍」という異名すら付けられています。
北条義時以降は「得宗家」が執権職に
鎌倉幕府の動揺を見て取った朝廷の後鳥羽上皇は、「これは武士に奪われた日本を取り戻すチャンス!」ということで幕府に対して戦争を仕掛けました。これまでの日本史では朝廷は無敗伝説継続中であったため、勝ち目が薄いということで鎌倉御家人達は真剣に寝返りを検討したようです。ところがここで「尼将軍」・北条政子が一念発起、「今こそ源頼朝から受けた恩を返す時!」といった大演説をぶつけました。このこともあって後鳥羽上皇側に寝返る御家人は結局ほとんどおらず、この「承久の乱」は日本史上で唯一の朝廷が負けた戦争となっています。
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この乱に勝利したことで北条政子と、そして最高責任者として戦争を切り盛りした義時の地位が盤石なものとなっています。義時はこの3年後に突然の死を迎えていますが、長男である北条泰時が職務を継承し、以後は義時の家系の人間が代々執権職を務めています。ちなみに義時は晩年に出家していますが、この時の法名が「得宗」だったということで、義時の家系を指して「北条得宗家」という呼ばれ方もされています。
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