上洛とは
上洛とは長く日本の首都として機能していた京都に入ることを意味する単語です。現代では首都が東京となっているため「上下」の概念が変わっていますが、平安京が造成されてから明治維新で首都が東京に移されるまで、京都の位置を「上」として上下の概念が出来ていました。

平安京が洛陽を模して造成されているため「上洛」

桓武天皇によって現在の京都に首都が遷されたことで、400年近く続く平安時代が幕を開けています。この時造成された平安京は当時の中国王朝・唐の首都「洛陽」がモデルとされていたため、市街が碁盤の目のようにキッチリと区画整備されており、また門の名前や通りの名前も一部流用されています。
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平安京が「洛陽」をモデルとしていること、また平安時代の人々の唐の国への憧れもあったのでしょうか、遷都した平安京の市街に入ることを指して当時から「上洛」という言葉が使われています。上洛以外にも洛陽の「洛」という字が使われた言葉として、「入洛(にゅうらく、じゅらく)」や「洛中」・「洛外」などがあります。
上洛という言葉は室町時代中期頃から頻出
応仁の乱以降は実力誇示のために上洛
室町幕府が充分機能していた頃には、各地の守護大名には在京する義務が課されていたため、基本的には京都に居住し必要に応じて地方の自領へ出向くだけとなっていました。ですが応仁の乱が起きたことで幕府が大幅に弱体化、幕府に忠誠を誓う意義を疑った守護大名達は、在京の義務を放棄し自領の経営に専念し始めます。
この応仁の乱という全国的な戦乱が各地の産業に深刻なダメージを与えたこと、それに不満を持った代官や国人による内乱、さらには領土を乗っ取られた大名も多くいたため、大半の大名達は危機感を持ってそそくさと自国へ帰還してしまいました。そして、ここで幕府に対してハッキリと離別の意志を見せた大名も多くいたようで、わざわざ京都に立てた自分の屋敷を焼き払う守護大名まで出ています。
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多くの守護大名が在京義務を放棄する中で、逆に上洛して自らの実力を誇示する大名も現れ始めます。「私は幕府のために頑張れる人です」というアピールをすることで、京都近辺や国元での声望を得るためだったのでしょう。また代官や国人が守護を追い出した下剋上パターンにおいても、自身の正当性を保証してもらうために上洛して幕府にすり寄る、といった例が多く見られます。
足利義昭の要請で織田信長が京都に上洛
明応の政変以降は室町将軍が完全にお飾りとなり、実際に権力を持つ細川氏や三好氏の庇護を受けてなんとか幕府が存続しています。ですが将軍という最高の立場を持つことと保護を受けているという矛盾のためか、庇護者と将軍の関係性は頻繁に悪化し、しばしば追放される事件が起きています。こういった場合に他の大名が前将軍、または新たな将軍を用意して追放した側に挑み、勝利者が新たな幕府の主導者として権力を得る事例が多くあります。
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13代将軍・足利義輝が三好氏によって暗殺された後、義輝の弟・足利義昭は自身を将軍にしてくれる有力な大名を探しました。その時白羽の矢が立ったのが、当時美濃国を奪取して勢いのある織田信長です。信長は足利義昭からの要請を快諾し、南近江(滋賀県南部)の六角氏を撃破して京都へ到達、そして三好三兄弟を打ち破って京都上洛を果たしています。
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