鳴かないホトトギスはどうしますか? | 戦国の三英傑・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

三英傑のイラスト その他考察
戦国の三英傑

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いきなりやっちゃうタイプ・織田信長

魔王にも例えられる暴君・織田信長

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

残虐・卑劣な行為もお手のもの

三英傑のトップバッター、みんな大好き戦国の革命児・織田信長の性格を端的に表すとこんな歌になってしまうようです。確かに信長の残虐性を示す出来事は枚挙に暇がなく、敵に対する容赦なんてありません。伊勢長島の一向一揆鎮圧では二万人を焼き、また神域でもある比叡山の焼き討ちなど、誰彼かまわず焼きまくった印象すらあります。

特に比叡山の焼き討ちは大いに非難を集めたようで、同盟していた武田信玄ですら信長に対して「魔王ですか?」なんて手紙を送り付けました。また「城を明け渡せば命は助けるよ」からの騙し討ちなど、残虐なだけでなく卑劣な手段も躊躇なく使っています。

戦略に沿った意図的な行為である可能性

もちろんそんな残虐極まりない手段を使ったことには一応理由があります。織田信長が継いだ頃の織田家はまあまあくらいの家柄でしかなく、武士社会全体で見れば飛び抜けた家格ではありません。

そんな家柄の信長はひょんなことから幕府将軍を奉戴することになったのですが、これが目立ちすぎて周囲の大名が一気に敵対、幾度となく「信長包囲網」が形成されました。この苦境を打破するためには敵に情けもかける余裕すらなく、制圧地域を確実な拠点とするために必要な「残虐性」だったものと思われます。

家臣に手厳しいブラック大名

あだ名をつけて徹底的に家臣イジメ

もっともらしい理由で残虐性を正当化してみましたが、ぶっちゃけ織田信長はなかなかゲスい一面も持っていたりします。当時の武士は現代で言えば立派な社会人であり、むしろ人を率いて戦場に立たせなければいけない分、人を惹き付けるカリスマ性、そして優しさや道徳性も必要だったのではないでしょうか。そんなご時世にあっても織田信長の家臣イジメは割と有名で、特に明智光秀や羽柴秀吉は色々なあだ名を付けられて弄ばれていました。

羽柴秀吉の「猿」はあまりに有名なあだ名ですが、他にも多指症で指が6本あったことから「6つ目」とも呼ばれ、明智光秀に至っては「ハゲネズミ」や「キンカン頭」など、呼ばれた本人が確実に不愉快になるあだ名をつけられています。信長に引導を渡した「本能寺の変」も直接的な理由は全くわかっていませんが、根本的なところでは信長の陰湿さが招いた事件なのかなとも感じられます。

明智光秀さん、もしかして「本能寺の変」はその復讐ですか?

ヨソモノには厳しい織田信長

織田信長が他の大大名を抑えて巨大化した要因として、優秀な家臣団の存在が挙げられます。そのため人材を吸収しまくっているかのような印象を受けますが、実は重用された家臣のほとんどは織田家に歴代仕えている譜代で占められており、信長の代から仕え始めた重臣は明智光秀や羽柴秀吉などごくごく一握りしかいません。

そんなヨソ者も認められようと必死に働きはしたものの、織田信長の陰湿な性格に嫌気が差したのか、彼らの心は次々と折れて離反の道を辿りました。戦国三大梟雄入りも果たした松永久秀、また京都を制圧した後に家臣入りした荒木村重や別所長治、そして明智光秀や後に織田家を乗っ取った羽柴秀吉も含めれば、いかに信長がヨソ者にとってシンドかったかが窺えます。とは言え譜代家臣の筆頭格・佐久間信盛も結局追放されているため、誰にとってもシビアなブラック大名だったのかもしれませんね。

松永久秀や明智光秀など織田信長に謀反した人物たちのまとめはこちらから。

あれこれ工夫するタイプ・豊臣秀吉

創意工夫とド派手なパフォーマンスで天下人に

鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス

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夢のサクセスストーリーを実現した男

思い描いた夢を叶えられた人なんてこの世に一握りでしょうが、三英傑の一人に数えられる豊臣秀吉は間違いなくその内の一人でしょう。農民だか行商人だかよく分からない出自でありながら、人に愛される愛嬌と持ち前のクソ度胸、そして創意工夫に富んだ様々なアイデアを駆使して天下統一というゴールに漕ぎ着けています。

しかも竹中半兵衛や黒田官兵衛といった軍師を知恵袋として用いたことで、秀吉本人の創造性をさらに増幅し、他のライバルを圧倒しました。また「北野大茶会」に代表されるような派手な催し物も大好物だったようで、民衆だけでなく大名にまで「スゲー」と思わせ続けたパフォーマンス性も成功の理由だと思われます。

指揮官としても超優秀

織田家が大敗北を喫した「金ヶ崎の戦い」では、最も危険な軍の末尾を守る「殿軍」を務めた上で生還するなど、戦闘の現場における豊臣秀吉も非常に優秀だったようです。また、その後の姉ヶ崎の戦いや小谷城の戦いでも直接大きな武功を挙げていますので、もはやその実力は疑う余地すらありません。

ですが司令官になった後の秀吉にはやはり謀略家の印象が強く、敵武将の内応工作や大規模工事を行っての水攻めなど、やはり戦いに臨む前の「仕込み」の多さが特徴的です。いわゆる「戦わずして勝つ」というやつなのかもしれませんが、そのスタイルはまさに「鳴かせてみよう」のフレーズが相応しいと言えるでしょう。

ポルトガル人宣教師に酷評された人格破綻者

豊臣秀吉は現代でも人気が高く様々なところで話題にされますが、主家である「織田家を乗っ取った」ことは不思議な程イジられることがありません。そのため華麗な成り上がりストーリーに良い印象を持ってしまいがちですが、実際は主家を乗っ取ってドヤ顔、さらにかつての上役に罵倒を加えるなど、なかなか意地の悪い性格の持ち主でもあったようです。また天下統一後に自身をバカにした落書きを見つけると多くの人員を使って大捜索、捕まえた犯人7人をなんと鼻を削いだ上で処刑し、なおかつ関与した可能性がある63人を処刑するという残虐なこともしていたりします。

このことはポルトガル人宣教師「ルイス・フロイス」も自身の著書「日本史」に記述しており、性格だけでなく口の悪さ、そしてすぐ嘘をつく点についても言及されています。また秀吉は女性に対してかなり見境がなかったようで、留守にしている家臣の妻の元へ通い普通に手を出していたようです。このルイス・フロイスは織田信長とも親交があり、信長に関しては「まさに王たる風格を持っている」なんてベタ褒めの記述を残していますが、秀吉に関しては「醜悪・淫蕩(どスケベ)・下品・残虐」と酷評しています。

秀吉の悪口や各種エピソードはこちらからどうぞ。

でもお母さん大好き

そんな人格破綻者な性格を持つ豊臣秀吉でしたが、自身の家族に対してはやはり思いやりがあったようです。豊臣秀吉はお母さんの「大政所(おおのまんどころ)」を異常なまでに大切にしていたようで、どこにいようとも毎日のように手紙を送った記録が残されています。

この「大政所」は朝鮮出兵の一回目・文禄の役の最中に亡くなっているのですが、その時豊臣秀吉は九州に在陣中だったため死に目に居合わすことができませんでした。そして母を亡くしたことを知った豊臣秀吉は悲しいどころかショックを受けたようで、数日間しゃべれなくなってしまったそうです。

じっと待つタイプ・徳川家康

強い忍耐力で天下の主となった男

鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

江戸時代を切り開いた三英傑の一人・徳川家康の人生は、漫画の主人公であるがごとくドラマチックなピンチに彩られています。小さな子供の頃から今川義元に人質に出され、桶狭間の戦いで負けたら今度は国元で三河一向一揆という内乱が勃発しました。その後は武田信玄にボコボコにされ、そして落ち着いたと思ったら本能寺の変で伊賀越えをするハメになるなど、本人の判断に全く関係しないところで不幸が連続しています。また武田信玄やら豊臣秀吉といった「どうやっても勝てなそうな敵」と戦う機会も多く、家康の前半生は明らかなハードモードと言えるでしょう。あまりにピンチが多すぎて「徳川家康の三大危機」なんて言葉もありますが、三大がある以上はその他にも多くの危険があったということですよね。

そんな家康さんも豊臣秀吉との戦い「小牧長久手の戦い」が終結すると、豊臣家に次ぐ2番手の地位をキープしており、ここからはそれ程大きなピンチに見舞われていません。というか「小牧長久手の戦い」も豊臣秀吉は続行する気満々だったのですが、「天正大地震」が起きたことでウヤムヤになっており、不運続きの後にようやく訪れた幸運で凌ぎきっています。後に豊臣秀吉が老衰で亡くなると運気はさらに急上昇、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に勝利し、耐えに耐えた後に天下人の座を手にしています。

やや根暗系男子・徳川家康

徳川家康という人物は子供の頃からの苦労人ということで、家臣と余計なことをしゃべったりすることは少なく、割と何を考えているかわからないタイプだったようです。淡々と家臣に司令を出し、報告を聞いてはまた一人悩むという内向的な性格だったようで、家臣からすれば結構とっつきにくかったのかもしれませんね。

そんな家康さんですが趣味の幅は異常に広かったらしく、読書やら囲碁やら将棋やら剣術やら香道やら色々とやっていたようです。まあこれらをパッと見ると剣術以外は全て屋内での趣味ということで、どちらかと言えば極め系のインドア派でしょうか。また徳川家康は趣味だけでなく実学、つまりモノの役に立つ知識の探究も怠らなかったようで、中でも「薬」については本職の医者や学者ですら舌を巻くほどだったようです。

自前で薬を作る程のヘルシスト

徳川家康は日常的な生活の中でも健康第一を心がけていたようで、食事は麦飯と魚・野菜といったヘルシーなものばかり食べていたという記録が残っています。そして「薬」に関しては自ら大量の薬学書を読み込んで自前で調合して服用し、さらにその効果まで記録するという徹底ぶりでした。当時としては非常に珍しいオットセイを使った薬を作っていた記録すら残っており、そのこだわり方は完全に素人芸の域を越え、医者が薦める薬よりも自分の薬を飲んだことすらあったそうです。

疑い深い徳川家康は医者すら信じてなかった説も

その健康への情熱は幕府直営の薬園を開設するほどで、実のところ徳川家康は意外にも日本の薬学史・医療史にも強い影響を与えています。家康は戦場で家臣が怪我をしたのを見ると石鹸を手渡して洗うように命じたらしいのですが、衛生面を気遣う精神はコロナ禍真っ盛りの現代においても見習いたいものです。

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