悪の化身とされた天下人・豊臣秀吉
宣教師に酷評された人格破綻者
キリスト教伝来のために来日した宣教師・ルイス・フロイスは、「日本史」という書物の中で豊臣秀吉という人物を指して、下品・悪徳・嘘つき・淫蕩と凄まじいコキ下ろし方をしています。ちなみに同書の中では織田信長については好意的に描かれているため、単純に日本人を見下すようなスタンスではなかったものと思われます。
つまり当時のヨーロッパ人のモラル観に照らした豊臣秀吉は、率直に悪の化身のような人物だったのでしょう。ちなみにルイス・フロイスの「日本史」は日本での出版物ではなく、後から来る宣教師達が日本を知るためのものとしてヨーロッパでのみ出版されているため、余計な脚色などなく素直な感想だったものと思われます。
ルイス・フロイスについての記事はこちらからどうぞ。
濃い味の性格だからこそ成り上がり
身分制度が若干崩壊していた戦国末期という時代だったにしろ、豊臣秀吉は百姓という身分から成り上がり、武力による天下統一という大事業を成し遂げました。その成り上がりストーリーは豊臣家を踏み潰して成立した江戸幕府の統治下でも人気が高く、現代に至っても様々な創作物のテーマとなっています。
まあそんな超弩級の成り上がり人生を送ったということで、豊臣秀吉はかなり濃い味のエンターテイメントを残してくれています。そんな天下人にまつわる様々なエピソードや豆知識を、有名なものからマイナーなものまでいくつかご紹介したいと思います。
豊臣秀吉の容姿に関わるエピソード
猿顔でおなじみの豊臣秀吉
こちらはかなり有名な逸話ですが、豊臣秀吉は「猿」という渾名で呼ばれていたとされています。秀吉が「猿顔」だったという話はものすごい数の記録に残されているため、もはや「実はイケメン」なんて説など入り込む余地すらありません。ちなみに織田家中では織田信長や柴田勝家といった上役だけでなく、同僚からも「猿」という渾名で親しまれていたようです。
さらに日本へやってきた朝鮮からの使節も「秀吉は色黒で猿顔」という報告をしており、また前述のルイス・フロイスの「日本史」にも、「秀吉は身長が低くてブサイク」という直球な表現で描かれています。まあヨーロッパには猿自体がいないということで、「猿顔」ではなく単純に醜いという表現になったのでしょう。ちなみにルイス・フロイスの「日本史」では、醜いというだけでなく秀吉の右手に6本の指があったことも記録されています。
豊臣秀吉には六本目の指があった?
多指症という先天性異常は日本だけでなく世界的に割りとメジャーなようで、手の場合には400人に1人、足の場合には1000人に1人程度の割合で起こるとされています。医療が進んだ現代では幼児期のうちに切除するケースが多いのですが、戦国時代頃の医療技術ではなかなか難しく、特に貧しい百姓出身の豊臣秀吉には到底望めない手術だったでしょう。秀吉は右手の親指のさらに外側に親指があるタイプの多指症だったようで、ルイス・フロイス以外にも前田利家の記録にも残されています。
秀吉が天下人となった頃にはさすがに6本指を隠し始めたようなのですが、それまでは全然気に掛けることもなかったようで、むしろ隠すことすらしなかったようです。家臣に渾名を付けることが趣味のようになっていた織田信長は、秀吉を「猿」だけでなく六本目の指があるから「六つめ」という、これまたそのままな呼び名でも呼んでいたようです。ですがさすがに天下人にまで昇りつめた人物の記録を残す際、さすがに身体的な異常を記録するのを執筆者がためらったのか、記載されている書物の数はちょっと少なめです。ですが秀吉の親友・前田利家の記録には6本目の指に関してガッツリと書かれているため、信頼性はかなり高いものと思われます。
豊臣秀吉のその他のエピソード
天下人は徹底的な女好き
戦国時代における衆道は割りと一般的
戦国時代当時の風習として衆道(男同士のアレです)は結構普通だったようで、多くの大名が美少年を囲っていました。このことは当時の感覚ですと特に不思議なことはなかったらしく、むしろ美少年側からすれば出世の糸口が掴める側面もあり、嫌がったという記録自体があまり残されていなかったりします。こういった事例の有名どころと言えば織田信長における森蘭丸、そして徳川家康における井伊直政などが挙げられます。どちらも出世街道間違いなし、むしろ井伊直政に至っては徳川四天王とまで呼ばれる地位にまで上り詰めており、ひょっとしたら主君の衆道のお相手をすることは喜ばしいことだった可能性すらあります。
とまあ相手をする側としてもそんなに違和感がなかったということで、求める側である当時の主君は好き放題に美少年を漁っていました。中には上杉謙信のように衆道オンリーの人すらいたようで、かの有名な直江兼続なんかもお相手の一人だったとも言われています。ですがそんな衆道が当たり前の時代においても豊臣秀吉はマイペースに我が道を貫いており、徹底的すぎる女好きっぷりを見せつけています。
逆に疑問を持たれたが故の美少年トラップ
衆道というのは当時として割りと一般的、というか偉い武士はやってて当たり前くらいだったらしく、逆に言えばやっていないのは相当レアだったようです。ということで豊臣秀吉の女性オンリーな性癖は当時感覚だとむしろ邪道だったのですが、もっと言えば「そんな訳ないっしょ」という疑惑すらあったようです。そんな豊臣家家臣たちの疑惑がピークに達した時、彼らは絶世の美少年を豊臣秀吉の寝所、つまり寝室に向けて刺客のように送り込みました。
この家臣達の行動は「殿だって本当は美少年大好きなはず」という思い込みが原因であり、また当然そうあるべきという当時の常識があったからこそでしょう。しかし豊臣秀吉は家臣達のそんな思い込みを打ち砕くが如く、美少年には手を出さずに翌朝普通に帰してしまったそうです。しかもその美少年に対して「お前に姉か妹いる?」なんて質問はキッチリしていたようで、むしろ美人に対する執念は凄まじいものがあると言えるでしょう。このことを聞いた家臣達は呆れ返ったという話なのですが、豊臣秀吉からすれば関心がないものはどうにもできない訳で、まあルイス・フロイスにドスケベ野郎扱いされた秀吉ならではのエピソードでしょうか。
旦那が留守の奥方は気をつけて!
ルイス・フロイスが豊臣秀吉を指して悪の化身のように描いている理由の大部分は、この極度の女好きにあるのではないかと筆者は考えております。キリスト教では既婚者の不倫に対してかなり厳格ですが、秀吉はかなりの頻度で大名の妻達に手を出していたというエピソードが残っています。もちろん立場が盤石なものとなった天下統一後のことではありますが、現代に例えるなら企業内での立場を使って部下の妻に手を出すようなものでしょうか。当時の性に対してかなり奔放な慣習をもってしても許されるはずがないのですが、天下人となって調子にノリまくる秀吉は誰にも止められなかったようです。
非常に数は少ないですが、秀吉の撃退に成功した貞淑な奥方も存在しています。明智光秀の娘であり、細川忠興の正室となっていたガラシャ(洗礼名です)は美人との評判が高かったようで、そんな噂を聞いてしまった秀吉は旦那の留守を狙って当然出向きます。秀吉がガラシャの屋敷に忍び込むと、屋敷の周りにやたらとたくさんの柴が積み上げてありました。それでもと秀吉はガラシャの部屋を探し出してついに対面すると、ガラシャはウキウキの秀吉に対して短く言いました。
「太閤様のご来訪の意図は存じ上げておりますが、もし太閤様のご意思が叶えば私は嫉妬に狂った旦那に殺されるため、柴に火を放ち太閤様と共に死のうと思います。」
これを聞いた秀吉はそそくさと逃げ帰った、という逸話があります。どこまでが本当かはわからないのですが、秀吉は旦那が留守にしている妻を狙う、というのがすでに前提になっているのが高ポイントですね。
意外なことに書や囲碁の達人
ちょっと粗野で教養がなさそうなイメージのある豊臣秀吉ですが、実は各種の芸事も得意としていたようです。秀吉が記した手紙は現代にまで伝わっていますが、意外すぎる程達筆な文字で書かれており、かなりの能筆家だったことが窺えます。昭和初期の芸術家・北大路魯山人のコメントを引用するならば、三筆を新たに選ぶのならば秀吉も加えられる、という凄まじい高評価を受けています。三筆には空海・橘逸勢・嵯峨天皇が数えられていますが、この高名な3人に割り込む程の腕前だったようです。
また「碁」については主君織田信長から先生をつけられており、自他共に認める実力を持っていました。この信長につけられた先生は後に本因坊算砂と名乗る名人中の名人で、江戸時代に入ってから本因坊家として「碁」の家元となり、幕府から俸禄をもらって碁を打つ身分にまで昇りつめています。名人から教わったからなのか、あるいは秀吉に碁打ちとしての才能があったからかはわかりませんが相当に強かったらしく、伊達家家臣・鬼庭綱元や龍造寺政家といった碁の達人を負かした逸話が残されています。
この「ヒカルの碁」に登場する幽霊・藤原佐為は、本因坊家の人にも取り憑いていた設定らしいです(読んだことなくて申し訳ないです)。
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本能寺の変の黒幕?
本能寺の変というあまりに有名な謎だらけの事件が起きた理由は未だにわかっておらず、ただ明智光秀が織田信長を討ち取ったという事実だけが残されています。あまりに唐突で訳のわからない謀反は多くの創作物のテーマとなっており、これからも本能寺の変を題材にした作品は作られ続けるでしょう。裏で糸を引いていた人物いたのでは?という黒幕説も数多く存在しますが、その黒幕説に登場する1人として豊臣秀吉も名前が挙がっています。
そもそも明智光秀が誰からも疑われずに本能寺へ軍を向けられたのは、中国地方で毛利家と戦っていた秀吉からの援軍要請があったためです。西へ援軍を向けると見せかけて本能寺を襲撃できたことで、警備や近隣にいた軍に邪魔されることなく信長を討ち取ることに成功しています。また信長死後の秀吉の異常な出世ぶりを考えれば、全ては秀吉の掌の上だったという説も可能性が高い気もします。この本能寺の変については別ページで詳しくご説明しておりますので、よかったらそちらも御覧ください。
本能寺の変の考察や黒幕説についてはこちらからどうぞ。